弘徽殿の女御
「蒼人。お前は、弘徽殿の女御さまを、存じておるかのぉ?」
年配の陰陽師が口を開く。
言われて内裏の配置を思い出した。弘徽殿は比較的西側に建てられた建物だ。
確か今の女御さまは、太政大臣さまの長女であられたはず……。
「確か、義子さま……で、ございますよね? お顔を拝見することなど当然ありませんが、お噂はかねがね……」
言葉を選びつつ、返事をした。
と言うのも、この弘徽殿の女御……かなり気弱な方だという話を聞いている。
噂によると、同じ女御の元子さまがご懐妊のおり、手酷い詰りを受けて、それ以来心を閉ざされ、誰とも会っていないという。
当然、未だに懐妊の兆しはない。
まぁ、……帝の妃ともなれば、子どもを産むことが前提にはあるから、懐妊できない重圧は相当なものかもしれない。
自分の親兄弟……はたまた、親戚の昇進に関わることだからなぁ……。
私は眉を寄せる。
内裏での生活は、満たされたものだろうと思う。
しかし、ここまで精神的に追いやられると、哀れにもなる。静かな女の争いほど怖いものはない。
その中で、今帝の寵愛を一身に受けておられる彰子さまは、我が子ではない敦康さまをお育てになられた。
身分としては、中宮。弘徽殿の女御である義子さまより当然上にあたる。
しかもこの彰子さま。自分の子どもが帝になる可能性を蹴って、亡き皇后の忘れ形見……敦康さまを、次の帝へと推してもいるのだそうだ。
当然、親族からの叱責を買っているようだが、それにもめげず、逆に彰子さまの方が、お怒りをあらわにしているのだと言う。
欲にまみれないそのご気性ゆえ、帝は彰子さまをお傍に置いておくのだろうと、私は思っている。
……帝としての重圧もあるうえに私生活でも、争う妻たちを見たら、確かに辟易するだろうよ……。
そんな事を考えていると、おもむろに先程の年配の陰陽師が、険しい顔でそろそろと歩み寄ってきた。
「……?」
コソコソと小さい声で話し出す。
大きな声では、話せない内容なのだろう。
「その義子さまの部屋の一部がな、夜な夜な凍る……のだそうだ……」
しんみりと話すその声は、シーンとなった陰陽寮の室内で異様に響き、私は半ば焦る。
確か、知られてはいけないのではなかったか?
けれど、そんな私の心配をよそに、周りの陰陽師たちはそうだそうだと言わんばかりに、何人も頷いている。
どうやらみんな知っている、噂話のようだった。
「……」
声をひそめる必要などあるのか……?
言ってはダメだと言いつつ、そこここで言っているんだろ……。
半ば呆れつつ、言葉の意味を咀嚼する。
「凍る……」
しかし部屋の一部が……凍る? この真夏に!?
よく考えなくても異様な話だ。
思わず目を見張り、言葉を返す。
「えっと……、凍るのですか? それはカビとかではなく……?」
「……ぶっ」
私の言葉に、近くにいた若い陰陽師が吹き出す。
「バカ! 女御さまの部屋だぞ? そんな部屋がカビる分けないだろ!? 氷だよ! 氷! 凍るのは決まって西側の藤壺の宮の方らしいのだ。しかもそこに置いていた花瓶が、花ごと凍るくらい凄い冷気らしい……」
「花ごと……」
思わず呟く。
いやしかし、問題はそこじゃない。
「藤壺の宮……?」
そうだ、分かったか? と言わんばかりに、陰陽師たちは一様に満面の笑みで頷く。
《藤壺の宮》……その言葉に、嫌な予感しかしない。恐らくここにいる誰もが、そう思っているのに違いない。
藤壺の宮には春の終わりに、澄真さまが狐丸と共に招かれた場所だ。
狐丸が、帝の嫡男である敦康の命を助けたお礼だと言って、藤見の宴へ呼ばれた。その宴があったのが《藤壺の宮》。
しかし、あの宴では何もなかったはず……。そう澄真さまからも聞いている。
……。
そこまで考えて、私は目を細めた。
まさか……狐丸と澄真さま……が、疑われているのか……?
「……」
しかし……冷静になって考えれば、新たな面も見えて来た。
なぜ、この話が話してはならない秘密なのか。なぜこれだけの陰陽師が、当たり前のように知っているのにも関わらず、澄真さまと私の耳に入らなかったのか……。
それが意味するもの……。
おそらく巷では、澄真さまが犯人なのだと、噂でもされているのだろう。
けれど帝の奥方たちが関わる事なだけに、誰であろうと滅多なことは口に出来ない。
恐らくは、この怪異の事を知る者も少ないと思われるが、その少ない者たちの中で、澄真さまを疑う者がいるのだろう。
その事を知っている陰陽師の者たちは、私たちに気を使って黙っていた……とそういうことだ。
少しだけほんわかとしたあたたかいものが、心の中に生まれる。
みんなに恐れられていると思われていた澄真さまだが、その立場は、思っていたよりも情にあふれたものなのかも知れない。
けれど、この陰陽寮で……陰陽寮のみで庇われたとして、何になる? 世間は思いのほか厳しいはずだ。
庇われて知らないままで、あの澄真さまを護れるとは、到底思えない。
しかし、知らないままで終わらずに良かった……と、私はホッと溜め息をつく。
「春にあっただろ? 澄真と妖狐が呼ばれた藤見の宴。あの時いた妖狐……確か、白狐だったか……?あれは、あの黒狐寺の九尾とは、知り合いになるのだろう?」
若い陰陽師は、嫌そうに……しかし面白がっているのがありありと分かる顔で、こちらを見る。
……やっぱり。疑われているのか……。
「確か、黒狐寺には澄真も出入りしていたではないのかい?」
年配の陰陽師も、話に加わる。こちらは少し、心配した様な顔だ。
確かに、出入りはしている。
最近は狐丸に会うためも含まれてはいるが、その大半は仕事。
九尾……瑠璃姫の状態調査に出向いているだけだ。なんの不備もない。現にその都度調書を書き、上へと報告している。
しかし、世間はそう思わないのだろう。
若い陰陽師は続ける。
「しかもその黒狐寺の九尾は、氷を操ると言うではないか? 弘徽殿の女御側では、澄真が彰子さまと結託して……」
そこまで言ったところで私は、思わず叫んだ。
「それはない!」
「……うわっ! あ、蒼人……急に叫ぶと、驚くだろ……っ!」
いつの間にか隣にいた私と同じ陰陽生……時定が軽く跳ね上がりながら唸った。
……雨の中、余程走り回ったのだろう。一人びしょ濡れだ。非難がましく私を見る。
……いや、嫌いだとは知っていたが、あんなにもミミズを怖がるとは思ってもみなかった。
「ご、ごめん……」
一応謝っておく。色んな意味で……。
周りに集まって来ていた陰陽師たちも、突然叫んだ私に驚いて、私を凝視した。
まあ、無理もない。小声で話していたのだから。
急に大きな声を出されれば、誰だって、目を丸くする。
しかし、今の話を容認するわけにもいかない。
澄真と中宮さまが結託? あまりにも飛躍しすぎた話に、笑いさえ込み上げて来そうだ。
私は鼻息荒く、口を開く。
「そもそも、澄真さまが、彰子さまと結託したとして、なんの利になりましょうか! 彰子さまに至ってもそれは同じこと。既に男児を挙げられているのですよ? それもお二人も! 今更、懐妊の兆しさえ見せない義子さまを呪詛し、なんの得がありましょうや!?」
一気にまくし立て、ハァハァと肩で息をする。
中宮、女御で争うのであれば、好きにすればいい。
しかし、関係のない澄真さまを引き合いに出すなど、相手がやんごとなき存在だとしても、腹に据えかねた。
私はまだ言い足りない! とばかりに、口を開く。
「皆さまも先程、見ましたよね!?」
言って、手に持った例の氷袋を、ずいっと前に出した。
中の水が、じゃぷんと音を立てた。
「澄真さまは、氷にすら触れられないほど、極度の寒がりなのですよ……!」
それは誰もが知る、周知の事実だ。
今今始まった事ではない。子どもの頃からの、呆れるほどの寒がりだ。それなのに、呪詛に氷……冷気を使うなど有り得ない。
それを見て、陰陽師たちも黙り込む。
「……」
「……」
「……そうであったな」
小さな沈黙が流れた。
「言われてみれば、それもそうだな……」
顎に手をあて、様々にしきりと頷く陰陽師たち。
……よかった。分かってくれた。
私はホッと、安堵の息を吐く。
「……でもよぉ。蒼人」
暫くなにか考えていた時定が、おもむろに口を開く。
「それ、知ってるのは俺たちだけじゃね? お偉いさんの……ましてや御簾の向こうから、けして出て来ない女御さまが、知るわけないだろ?」
「時定……」
思わず情けない声を出した。
そうなのだ。
そこ! そこなんだ。
例え、動機がなくとも、可能性さえあれば疑われる。疑った者の身分が高ければ高いほど、思い込みを覆すのが難しい。
しかも尻拭いは大抵、低い身分の者が切り落とされて幕を閉じる。
下手をすれば澄真さまが処分を受けて終わる……そんな事になりかねない。
考えて、血の気が引いていく。
明らかにこの件に関して、身分が低いのは澄真さま……。公的に裁かれれば、助かる見込みはない。
私はグッと歯をくいしばる。
「わ、私は澄真さまの所へ、行ってきます……!」
「あ! こら、待て! 蒼人!!」
飛び出して行こうとした私を、時定がグイッと引っ張る。
「ぐえ……っ! ちょ、時定……苦しいだろっ!」
ちょうど首の所を引っ張られ、死ぬかと思う。今はそんなことやってる場合じゃない。
ガッ! と衣を引き、非難の声をあげた。
目が涙で潤む。
「まぁ、待て。相手はあの澄真さまなのだろ? 一筋縄でいくわけがない。弘徽殿の者か誰かの策略かは知らないが、何を狙っているのか見極めたほうがいいぞ。お前まで標的にされれば、澄真さまは困るんじゃないのか? それに、そう簡単にそちらのご当主さまとやらは、やられる玉なんですかね……?」
ニヤリと笑う。
くそっ! そんなんで、ヤられる訳ないだろ!?
ギリっと時定を睨む。
すると時定は、私の言いたいことを察したのだろう。嬉しそうに目を細めると、口を開く。
「じゃ、大丈夫だろ? 今日の雨を予知した澄真さまが鎮魂の舞を踊りさえすれば、悪霊も退散するだろうからさ。一応舞わせてみれば。」
クククと喉で笑った。
「……っ!」
結局、そこに戻るのか!
私はふるふると身をふるわせる。
だから、それが嫌なんだろ!?
そりゃ、悪霊の仕業なら退散もするだろうよ!
でもその分、変な虫が近づくかも知れないだろ?
いや、それよりも、向こう側の策略がサッパリ分からない今、澄真さまを一人にする訳にはいかない。
何としてでも、護り抜かなければならない。
「……ふふ」
時定は小さく笑うと、私の頭をポンポンと叩く。
「ま、何にせよ相手の企みを暴かなくちゃな。まずはそこからだ」
言われてハッとする。
コイツは考えているのか、考えていないのか、よく分からない時がある。
けれど、時定の言うことは最もで、私は小さく頷いた。
「……そんな事、分かってるよ」
まずは敵の腹を探らなければ……。
(さて、これからどうしてくれよう……)
私はそう心に決めて、空を見上げる。
先程から降り始めた雨は、勢いを弱めはしたが、まだまだ止みそうになかった。