蒼人
──じき、雨が降る。
澄真さまの言葉に、思わず飛び出して来た私だったが、思い返せば軽率だった。
澄真さまを手放してしまった……!
「……」
まずった。
あのまま澄真さまを介抱する役を買って出てれば、今頃傍にいれたのに……!
私は唇を噛み締める。
思えば澄真さまを好きになったのは、子どもの頃だ。
初めて出会ったあの時のことを、私は今でも忘れることが出来ない。
体の弱い澄真さまは、魔除けのために、可愛らしい女の子の着物を着ていた。
(確か……あれは……)
私は思い出す。
暗紅色の衵(女の子が袿の代わりに着る着物)を澄真さまは着ていた。
その上から、薄桃色の汗衫(薄手の上着)を羽織っていて、ひどく可愛かった……。灰青色の細長い髪が、その汗衫の上にふわりと広がり、長い睫毛は憂いを帯び、震えながらその儚げなその瞳を覆っていた。
「……」
思い出しただけで、踵を返して澄真さまの元へ、帰りたくなる。
いやいや、そんな事など出来るわけがない。一度言い出した仕事だ。最後までやり遂げるべきだろう。
ふるふると頭を振るが、あの時の澄真さまの姿が消えることはない。
ぼんやりと思考の海へと、私は再び溺れる。
羽織っていた汗衫の左腕には、弓裁ち(肩の部分が縫っていない袖)がほどこされていて、紅色の組紐でとめられていた。
ただでさえ線が細く儚げな澄真さまの姿が、その着物のお陰で更に、繊細さを醸し出していた。
あの時、私が子どもでなかったのなら、迷わず傍に駆け寄って、抱きしめたに違いない。
なんであの時、触れようとしなかったのか……!
幼い自分に腹を立てた。
父上や絢子のいるあの場では無理だったかも知れないが、自分の住んでいる屋敷に、澄真さまは暫く滞在したのである。触れる機会など腐るほどあったはずだ。
それなのに自分は、話すこともままならず、結局距離を置いてしまった。
今なおそれは進行中で、澄真さまに触れるのには、相当な勇気がいる。
そもそも私は、恋愛で頬を赤らめるような、そんなヤツではない。
こう言ってはなんだが、良いなと思った相手には、その日のうちに手を出している。それが男だろうと女だろうと関係ない。
ちなみにそれが、後腐れなければ、言うことない。
相手が澄真さまでないのなら、どんなに嫌がられても、泣かれても平気だった。
(まぁ……嫌がられたことも、泣かれたこともないが……)
けれど、それが澄真さまだったら……。
「……っ、」
想像するだけで、鼓動が激しくなる。
──澄真さまの泣き顔など、誰にも見せたくない……!
あぁ。……や、やっぱりまずった。
澄真さまの傍にいるべきだ。そうだ戻ろう。
そう思って、踵を返そうとした時、後ろから声を掛けられた。
「あ、蒼人! コレ、よろしく……っ」
言って生木の束を押し付けられた。
「……」
はぁ……と私は溜め息をつく。
暫く考えて、早く仕事を終わらせる方が、効率がいい事に気づく。
早く生木を片付けて、澄真さまの所へ行って、それから……。
考えるだけで、嬉しくなる。
澄真さまは体調を崩していた。直ぐには思うようには動けないかも知れない。私が介抱して差しあげなければ……!
男だと知った今でも、この想いは変わらない。
変わるどころか、余計に傍にいたくなった。
以前澄真さまの父上、澄晴さまは、私におっしゃった。
──娶りたい者がいれば、叶えてやる……。
「……」
澄晴さまは、滅多に人とは関わろうとはしない。さすがは親子とでも言うべきか、それは澄真さまも同じだ。
けれど一度関われば、無下にはしない。何かと世話を焼いてくれた。
分家の跡取りとはいっても、家自体はなんの力もない、ただの下級貴族。ままならぬ事ばかりで、正直生きにくい世の中だった。
けれど澄晴さまに、お引き立て頂いた後からは、暮らしが信じられないほど向上した。
帝の信頼を一身に受ける澄晴さまが、懇意にしている……。その事実だけで、のし上がる事が出来た。
裏社会を牛耳る澄晴さま。精霊と対話出来る澄真さま。
見た目性格共に、二人はよく似ている。
澄真さまが壮年になれば、このようになるのか……と、たまにうっとりと澄晴さまを見てしまうことがあるが、それほど見た目も好みもほとんど似ている。
違うのは、その色。
灰青色の髪と目を持つ澄真さまとは違い、澄晴さまは漆黒の髪と目を持っている。
違う人物と分かってはいるが、つい澄晴さまには、ほだされてしまう。
いや、そのせいではないな。
澄晴さまには、逆らえない何か不思議な雰囲気が漂っている。
そんな裏社会を牛耳る澄晴さまに、《娶りたい者は誰だ?》と聞かれて、私は胸が高なった。
澄晴さまは、澄真さまの父上。
前言を簡単に撤回する公家や貴族たちも多くいるが、澄晴さまは違う。同じように言われ、好みの相手を手に入れられなかった者など、未だかつていない。
もしかしたら、手に入るのでは……! とありもしない期待に、胸が高なる。
当然、澄真さまの顔が真っ先に浮かび、私はウキウキと口を開こうとした。
けれど、澄晴さまは、その漆黒の目を細め、すかさずおっしゃった。
──けれど、女子でなければならぬ。澄真はやれぬぞ……!
あの時は、絶望の淵に追いやられた。
正直あの時、言葉で人は殺せるのだと、実感した。
我が子には関心がないかと思われている澄晴さまだが、その実意外と子煩悩だ。
けれど、共にいるところを見たことがない。
本家と分家の間柄の私が、見たことがないのだ。他の者など親子である事すら知らないかも知れない。
「……」
……いや、それはないか。見た目はひどく似ているからな……。
そもそも澄晴さまの性癖が酷すぎて、それを心配した臣下がこぞって澄晴さまと澄真さまを引き裂いたのだと、噂では聞いた。
……それほど澄晴さまの性癖は有名だ。
(……噂ならいいが。そこまでひどいわけでは……)
私は頭を抱える。
普通なら本家の主……澄晴さまと、一介の分家の子である私に接点など出来るはずがない。
しかしどこで私の存在を知ったのか、澄晴さまは私をひどく気に入られ、嫁の世話をしてくれると言われるまでの関係になった。
澄晴さまの権力と人脈を駆使すれば、嫁の一人や二人どうとでもなる。
けれど、私は断った。
──いえ。……今はまだ。
澄真さまがダメと言われ、他に誰がいると言うのだろう……?
「……」
ただそれだけ言うのに、どれほど苦労した事か……。あの時、私の心は崩壊寸前だった。
……暗に、
──《諦めろ》
……そう言われたのに、等しかった。
《そうか……。ならば、気に入る娘が出来たなら、その時言うがいい……》
非情にも、澄晴さまはそう仰せられた。
気に入る娘……? そんな者現れるわけがない。
……欲しい者は、手に入らない。
傍にいるのに、触れることすらままならない。
そもそも澄晴さまは知っていたのかも知れない。私のこの想いを……。
だから、敢えて接点を作って、牽制したのだろう……。
「はぁ……」
私は思わず溜め息をつく。
「なんだ? どうした蒼人。恋煩いか? 珍しいな」
ニヤニヤ笑いながら、同僚の時定が肘で私の横腹をつついてきた。
生木は、あらかた片付いた。場の雰囲気も、和やかになりつつある、そんな折だった。
「……うるさい。そんなんじゃない」
ムッとして、私は答える。
コイツと話している暇などない。仕事が終わったら、すぐに澄真さまの所へ戻りたい。今頃どうしているだろう? まさか、倒れてはいないと思うが……。
考えて、少し青くなる。
「何言ってんだよ……。いい加減、お前もいい人を見つけろよ? 同期ではお前だけだぞ、結婚していないのは。……咲太など、もう子が歩き始めているんだぞ……? お前のことだから、相手がいないわけじゃないんだろ?」
「……」
言われてひどく悲しくなった。
子どもが欲しくないわけじゃない。
欲しいと思っている相手が、男だから困ってるんだよ!
「うるさい。手を動かせ! あと少しで終わるだろ……? ほら、雲行きが怪しくなってきたぞ!」
「うわ……。ホントだ。……やっぱり澄真さまの力は、恐ろしいな……」
時定のその呟きに、私の肩がビクッと震える。
ほかの者が澄真さまに好意を寄せることも嫌だが、よく知りもしないのに、軽はずみな言動をする人間にも嫌悪感が隠せない。
「恐ろしい……?」
私は眉を寄せながら、相手を睨む。
睨まれた相手……時定は、その事に気づきもせず、手を動かしながら、話を続けた。
「あぁ。お前、よく一緒にいられるな。本家の主だからか?」
「……そんなんじゃない」
悪し様に言われた気がして、私はムッとする。
「だってそうだろ? 天気なんて、今まで星や雲の動きから見て、ほとんど占い頼りじゃないか! それなのに何? 精霊が騒いでいた? ……精霊なんて、微かにしか視えない。ましてや騒ぐ声など聞こえない。騒いでることすら、普通分からないだろ……? だけど、多分この様子なら当たるだろ……?」
言いながら時定は、空を見上げる。
いつの間にか、黒く重い雨雲が、辺りを覆っていた。
──ビュオォォ……。
生暖かい風が、吹き荒れた。
雨が降るのは、もう確実だ。
「あとはなんだ? セミ? セミなど、気にもかけていなかったよ。コレが確実なら、占いの確率も格段に上がる」
「……」
私は黙り込む。
そうなのだ。精霊は普通視えない。
視えたとしても靄があるな……ぐらいの程度だ。
何をしているのか、話しているのか……表情すら読み取れず、ただ存在だけ感じれる……そんな、存在なのだ。
それを《騒いでいた》と認識できるその力も凄いが、セミの動きにも気を巡らせているとは、さすがは澄真さま。
思わず頬が緩む。
けれどその力と知識が、脅威の対象にもなる。
確かに、自分の知らないことを、簡単に知ることが出来る存在は、脅威であるのかも知れない。
その事を澄真さまはよく理解していて、あからさまに知識をさらけ出そうとしない。
しかし今回は、小さな精霊と虫のセミ。
これくらいは……と思ったのだろう。あの時「しまった」……と呟いておられたから。
袖で口を隠す姿が、可愛かった。
「ふふ……」
私は思わず微笑む。
少し抜けている澄真さまらしい……。
「……なんだよ蒼人……お前、気持ち悪いぞ!」
時定は眉をひそめて、私を見る。
──ポツ。……ポツポツ、ポツ……。
「あ……」
ついに雨が降り始めた。
ザァー……。
すぐに本降りになった雨だったが、澄真さまのおかげで難を逃れた生木は、全て綺麗に納屋へと片付けられている。
それが嬉しくて、私は時定の肩を軽く叩き、別れを告げる。
「じゃあな、時定。お前の好きなミミズが、足元にいるぞ……?」
「はっ!? ミミズ!?……ぎぃやあぁぁあ……」
私の嘘を本気にして、時定は雨の中、走り去って行ってしまった。
そんな背中をクククと笑いながら私は見送り、機嫌よくその場を後にした。
早く戻って、澄真さまの介抱をしなければ……。
軽快に歩く私の足音は、激しく降り始めた雨の音に、じわりと溶け込んでいった……。