陰陽寮
「澄真さま。氷……もらってきましたよ」
同じ陰陽師であり、うちの分家の跡取りでもある蒼人が、そんな事を言いながら、小袋に入れた氷を持って来た。
「……」
私は受け取らず、黙ってその袋を見る。
こいつは、何がしたいんだ? 氷など、私は頼んだ覚えがない。
すると蒼人は、明らかに困った顔をして、私の顔を覗き込んだ。
「澄真さま……。知っておられますか? 今は夏です」
「……そだな、暑いからな。……知ってる」
こいつは……、何が言いたい……?
眉を寄せつつ、蒼人を睨んだ。
ただでさえ、盂蘭盆の準備で忙しいのだ。出来ることなら、話しかけないで欲しい。
あからさまに、嫌そうな顔でもすれば、どこかへ行くだろうと思い、思いっきり睨んでやった。
しかし蒼人は怯まず、それどころか、呆れたように溜め息をついて、口を開く。
「このように暑い中、キッチリと狩衣を着て出仕するのは、澄真さまくらいです……! まわり、見えていますよね!?」
言われて、私は辺りを見廻す。
現在、陰陽師たちは書類の整理に追われている。
数多くある寺院で行われる儀式の詳細をまとめることから、内裏で行われる盂蘭盆会に使われる道具の覚え書きなど、多彩な書類が所狭しと並べられ、その間を縫うように、陰陽師たちが点在している。
今の陰陽師たちを、一言で表現するなら《ボロ雑巾》。
そんな言葉がピッタリだ。
……いや、蒼人が言いたいのは、そんな事ではない。
そんな事は分かっている。
「……」
確かに、狩衣を着ているのは私だけだ。
他の者は、手軽な水干を着ており、どうかすると前をはだけて、氷を首に当てつつ、一心不乱に書き物をしている。
正直、忙し過ぎて、着るものなどに構ってなどいられない。
実際、仕事内容によっては、それこそ泊まり込みで仕事をする者もいる。
ここ陰陽寮では、繁忙期に入ると、衣服の簡素化が認められる。
ついでに言うと、涼むための氷も他より多く支給される。
氷は貴重品ではあるが、京には多くの山々が点在していて、そこここに氷室が設置され、冬に切り出した大量の氷を保管している。
さすがに、一般には出回らないが、内裏や中務省では、思いのほか容易に氷は手に入った。
……。
しかし、私は氷があまり好きではない。
氷よりも、湯。
出来れば温泉などあると、言うことない。
暑い日には、氷にしがみつくよりも、温かい温泉に浸かった方が、涼めると思うのだが……。
そんなわけで、私は氷を使わないのだが、それが蒼人には気に食わないのだろう。これみよがしに、氷を私に渡そうとする。
親切心からかも知れないが、余計なお世話だ。
私は目を細め、口を開く。
「……では何か? お前は私に水干を着て、前をはだけつつ仕事をしろと?」
「……そこまで、言っていません」
心なしか、蒼人は赤くなる。
私は溜め息をつくと、筆を置き、蒼人に向き直る。
言いたいことは分かっている。
この繁忙期に倒れる陰陽師は、少なくない。
熱にやられて、そのままポックリ逝ってしまう者もいる。
蒼人は、それを心配しているのだろう……。
はぁ……と溜め息をついて、私は口を開く。
「私は、このままで平気だ。こまめに水も飲んでいる。今のところ、倒れる予定はない……」
言って、蒼人が手にしている氷を、横目で見る。
「……だから、それはいらない。私が冷たい物を苦手にしていることは、知っているだろう……?」
呆れたように蒼人を見る。
あからさまに悲しげな目を向けられ、うっとなる。
「けれど、せっかく持ってきたのだ。蒼人、それはお前が使うといいよ」
言って、私は早々に背を向けた。蒼人の哀れな顔など見たくない。
そもそも私は、幼い頃より冷たい物……寒いものが苦手だ。
貴族が一般的に過ごす寝殿造では、風通しが良すぎて体調を崩しやすく、よく寝込んだ。
寝込む度に、母上や絢子が心配して、一睡もせずに、私についていてくれた。
私の容姿は、普通とは違う。
灰青色の髪と目を持ち、おまけに人とそうでないモノの区別がつかなかった私は、よく妖怪や怨霊たちと一緒にいた。
物心ついた時から、そんな調子だった私に、人々が近づくわけもない。
当然敬遠もされやすく、本来看病ともなると、その家に仕える女房あたりが対応するのだろうが、誰も近寄りたがらなかった。
だから母上と絢子が交代で、看病してくれたのだ。
その事が、悲しくなるほど申し訳なくて、いっそ自分など死んでしまえば良いのに……と幼心にも、そう思った。
だからこそ、こんなに寒さや冷たさを、毛嫌いしているのかも知れない。
触れず、近づきさえしなければ、体調をこわすこともないのだから……。
正直自分でも、ここまで冷たい物や寒さを毛嫌いするのは、おかしいとさえ思う。
……思うが、今更どうする事も出来ない。
おそらく、意識の奥深くまで、刷り込まれてしまったのだろう。
しかし、せっかく持って来てくれたものを、無下に断るのも非情であった……。
「……」
少し反省して蒼人を見る。
蒼人は、しゅんとして、下を向いていた。
「あ、蒼人……? そう落ち込むな。そんなつもりでは、なかったのだ。私が悪かった……」
言って傍に寄った途端。
──ペタ。
まさかの氷袋を、私の首筋に押し付けて来た。
キーンと脳髄まで響くような、冷たい刺激に一瞬思考が止まる……。
……。
いくらかの間を開けて、全ての神経を逆撫でするような、ひどく攻撃的な冷たさが全身を駆け巡る。
「あぐ……っ」
微かな悲鳴が口をついて出る。
一瞬体が硬直し、体が傾く。咄嗟に右手で体を支えた。
その途端、ズキズキと頭が痛み出す。
「痛っ……、」
思わず頭を押さえ、堪らずその場にうずくまった。
……っ、頭が……割れそうに、痛い……。
「す、澄真さまっ!? いかがなされました? 申し訳ありません……こ、この様なことになるとは……」
オロオロとした蒼人の声が、頭上から降ってくる。
顔を覗かれたが、ひどい痛みで目線を合わせることが出来ない。
言葉すら……思うように、出ない……。
「あお……と……」
小さく名前を呼ぶのが、精一杯だった。
「こら! お前たち、うるさいぞ! 喋る暇があったら、手を動かせ……! それに蒼人! 澄真は、お前の本家の主にあたるのだろ? 主人の苦手なものくらい、把握しておけっ!」
不意に、近くにいた陰陽師から、叱責が飛ぶ。
「も、申し訳ありません……。あぁ、澄真さま……大丈夫ですか……?」
肩に触れた蒼人の手が、哀れな程に震えている。
おもしろい事に、蒼人のその震えのおかげで、私の心が落ち着いていく。
(……私も……なかなかの、《鬼》かも……知れぬ……)
少しずつ、痛みが引き始め、私は溜め息をついた。
──あぁ、それにしても、ここまでとは……。
いつも冷たい物は、避けていた。
だから今、氷に触れたらどうなるのかなど、考えもしなかった。
荒く息をつきながら、私は出来るだけ蒼人に微笑みかける。
蒼人は図体はデカいのだが、こういう時には、ひどく動揺し後々まで引きずる。
だから、あまり心配を掛けたくなかった。
「だい……じょう、ぶ……だから……」
一生懸命、言葉を綴った。
けれど、発した声は思いのほか、掠れている……。
「澄真さま……」
あぁ、かえって心配させてるじゃないか……。
私は後悔しつつも、大きく溜め息をついて、息を整える。
普通の声が出るように、心を落ち着かせた。
「蒼人……。本当に、大丈夫だ。……心配かけて、済まない」
「……いえ」
ちゃんと受け答え出来たが、蒼人は解せないようだ。
眉根を寄せ、今にも泣き出しそうな顔をしている。
……。
大の大人が泣くなよ……?
心の中で、蒼人に言い聞かせる。
涙を出しているわけではなかったが、私には蒼人が泣いているように見えた。
思わず、その頬撫でる。
「!」
ピクっと蒼人の肩が跳ねた。
パシッと撫でた手を掴まれる。
子ども扱いし過ぎたか……。
苦笑いしつつ、私は手を引く。
手を引いた事に、蒼人は再び動揺し、青くなって顔を伏せた。
「……」
私は出来るだけ、優しく語るように気をつけつつ、蒼人に言葉を掛ける。
「本当に、もう大丈夫だ。それに、氷はいらないんだよ。もうすぐ雨がふるから。涼しくはなると思う……」
そう言った途端、その場の雰囲気が、ピシッと音を立てて変化する……。
……え?
書類に埋もれていた陰陽師たちが、一斉にこちらを向く。
陰陽師の一人が、ポツリと尋ねる。
「……澄真。それは、確かな情報か……?」
十分に眠っていないのだろう。
腫れぼったい充血した目。
その下に深いクマを作った陰陽師が、首筋だけをカタカタ揺らし、こちらを見る。
──まるで露店のカラクリ人形のようだ……。
そう思った途端、相手の眉が鋭く釣り上がる。
「う……!」
思っていた事が、バレたのではと、一瞬息を呑んだ。
陰陽師といえども、さすがに他人の思考は読めないだろう……と冷や汗をかきつつ私は低く唸りながら、カクカクと首を振った。
「え、えぇ……。外で風の精霊が騒いでおりましたから……」
「し、しかし、今日は降らないと、占いで!」
違う陰陽師が叫ぶ。
彼は確か、天文の方で仕事をしていた者だ。私は陰陽全般なので、そこまでの専門性は持ち合わせていない。
「あ……っと、占いはあまりしないので分からないのですが、確かに精霊たちは申しておりまして……。あ、あと……セミが……」
「セミ……?」
「はい……。セミが鳴きやんでおりますし……」
「……」
その場にいたものが、一斉に耳をそばだてる。
朝からうるさい程に鳴いていたセミが、今はピタリととまっている。
「……確かに、鳴いていない。……しかし、それがなんだと言うのだ!」
例の天文専門の陰陽師が叫ぶ。
疲れがピークに達しているのか、機嫌が悪い。
私は身の危険を感じ、少し身を引く。
蒼人がそれを見て取り、護ろうとしてくれているのか、自分の背に私を隠してくれた。
……けれど、それでは火に油を注ぐものだ。
私はそんな蒼人の肩を押しのける。押しのけられて、縋るような蒼人の視線を感じたが、知ったことか。
今は、構ってる暇などない。
「はい。……セミは雨の日には、鳴きませぬゆえ……」
その言葉に、にわかに場が、殺気立つ。
ザワザワと騒ぎ出す陰陽師たちの様子に、私は蒼くなる。
「……しまった。私は余計なことを……」
そのつもりはなかったが、逆らったと思われたかもしれない。ハッとして、袖の先で口を押さえた。
誰にも気づかれないように呟いたつもりだったが、近くにいた蒼人には聞こえたようだった。
耳元で、蒼人が、説明してくれる。
「違うのですよ。今、外で迎え火と送り火に使う生木を乾燥させているのです。湿らせば、余計な仕事が増えます。……言ってはいけない事ではなくて、言ってもらって助かりました……っ!」
言いながら、蒼人が立ち上がる。
「生木を片付けるのですよね? 近くの陰陽生にも、声を掛けてきます……! 澄真さまは、体調を崩しているのですから、そこで大人しくしていて下さいよ……!」
言って飛び出して行った。
「あ! 我々も……!」
その後を追いかけるように、数人の陰陽師が駆けていく。
バタバタと足音が遠のいていき、再び陰陽寮は静かになった。
少し風が出てきた。
数枚の書類が飛んでいき、私はそれを追いかける。
急に立ったからか、ひどい目眩を起こす。
「……」
書類すら、まともに拾えない……。
やはり私が、外で人と一緒に働くなど、無理があったのだ。
自分の不甲斐なさに呆れながら、私はその場に倒れ込んだ。