冷たい朝日
少しずつ少しずつ、辺りが明るくなり始めました。
真っ暗でよくみえなかった周りの景色は、少しずつ白く染まりだし、辺りを仄かに照らし出す。
ちゅんちゅん……と可愛らしい小鳥の声も聞こえ始めます。
──もうすぐ夜が開ける……。
わたしはそっと、東の山を見ました。
金色に染まった太陽が、少しずつ顔を見せ始めます。
登ってくるその太陽を見つめながら、何故だか分からない。
分からないけれど、……無性に不安になる。
『……』
屋敷に入る前に感じた、あの突き刺さるような視線を、再び感じる。
いいえ。ちょっと待って。あの時紫は何と言った?
──「これで準備出来た」
確かにそう言いました。
《準備》……とは?
そもそもあそこへは、何しに行ったのでしょうか? 領布を置くため?
……そんな事のために、わざわざ行くでしょうか……?
私は、ゴクリと唾を飲む。
カタカタと勝手に、体が震え出した。
何故?
なぜだか、分からない。
分からない……けれど……。
──……怖い。
思わず浮かんできたその感情を、わたしはグッと堪える。
そんなハズはない。
そんなハズ、……はない。
不安に思うのも、怖いのも、何かの間違い……。
わたしは暗くて冷たくて、寂しかったあの場所から、自由になれたのですもの。
たくさんの珍しい物も、見ることが出来ました。
それに……それに、今は夜明け──。
これからどんどん明るくなる。
暗いと言って、闇に潜む者たちに無駄に怯える必要もない。
怖い……?
いいえ、少し……寒くなったのかもしれません……?
そんな風に思おうとはしたのだけれど、……寒くはない。
暑くもない。
『……』
わけが分からなくなって、わたしは黙り込む。
何だか無性に、……嫌な予感が、拭えないのです。
「? ……どうしたと?」
……ビクッ。
呼び止められて、ひどく動揺する。
──怖い……。
『……』
何故だか、分からない。
分からないけれど、怖い──。
青い顔をして下を向くわたしを心配して、紫が顔を覗き込んだ。
覗き込まれて、わたしはハッとする。
不安が……漠然とした、不安が急に襲って来る。
目が……彷徨う……。
『あ。……い、いえ……先程は暑かったのに、今はそうでもないな……と、思って……』
わたしは紫に嘘をつく。
そう、嘘を……ついた。
……けれど他に、何を言うというの?
《何か分からないけれど、不安なの》って?
今日、会ったばかりの、この人に?
助けてくれたこの人に?
──それではまた、迷惑をかけるだけ……。
『……っ、』
けれど震えは止まらずに、ガクガクと激しくなっていく。
本当のことは言い出せない。
わたしは一人。
わけの分からない恐怖に立ち向かう。
なに? 何なの……。
紫に知られたくなくて、ギュッと自分を抱きしめる。
けれど震えは止まらない。
──このままじゃ、心配させてしまう……!
そう思って紫を見る。
紫は、不思議そうにこちらを見ていた。
優しい深緑の大きな瞳。
けれど目が合うと、震えは更に酷くなるのです。
『ひっ……』
思わず出てしまった悲鳴に、わたしは慌てて口を押さえる。
《どう、して……?》
どうしたらいいか分からなくって、わたしは震えながら目をつぶる。
──いいえ。……分からないわけじゃない。
わたしはこの時、ひどく怖かった。
もうどうしようもないくらいに怖くって、何かにしがみつきたくなった。
けれど、それは紫じゃない。
──……大好きな、あの人に、早く逢いたい……。
逢えないから、見えないから、こんなに不安になるのかしら?
それとも、別の何かに、怯えているの……?
何に対して怯えているのか、それは分からなかったけれど、確かにわたしは怯えていた……。
何かとてつもなく不安で、わたしはしてはいけない事をしているのだと、第六感と言うべきモノが教えてくれている。
けれどそれが、何なのかは分からない。
漠然とした、不安……。──
『……』
この震えは、紫にも見えてるはず。
それなのに、紫は何も言ってくれない。
震えるわたしを静かに紫は見ていて、形のいいその唇の口角を少し上げるだけ……。
《……紫?》
血のように赤い唇が、やけに鮮明に頭の中に残る。
──「あぁ、それはね、あの建物は特別だけんたい」
妖しく言って、微笑み返す。
……ゾクッとする程の笑み、で……。
『とくべ……つ……?』
わたしは尋ねる。
紫は、面白そうに頷く。
サラリと黒髪が零れて、少し気だるそうに掻き上げた。
「そう、……。うんとね、あそこには寒くならんようにおまじないが掛けてあるとよ」
微笑むように、目を細める。
けれど、本気では笑っては……いない。
『おまじない……?』
「そう……」
無邪気に笑って、そう短く答えてくれた。
けれどその言葉に、少し疑問を持つ。
──そんなモノ……あったかしら?
わたしは、呪詛や結界……と言うものには、興味がない。
興味がないから、知らない……だけ?
『……』
ごくりと唾を呑み込む。
多分……違う──。
建物に施すとしたら、それは間違いなく《結界》。
けれどそれは、悪霊や妖怪など、悪しきモノを遮るためで、温かくしたり涼しくしたりするためのもの、……ではなかったハズ。
わたしは、頭を軽く振る。
違う違う。
やっぱり、紫は嘘を言っている。
だってあの時、なんて言った?
──今は夏。
確かにそう言ったもの。
今が冬なのなら、分かる。
けれど今は夏。
寒くないようにするわけがない。
どちらかと言えば、涼しくなるようにする……はず。
『……』
カタカタと音が鳴る。
──何故、嘘をつくの……?
わたしの震えはひどくなって、どうしようもない。
ひどく、恐ろしくて、堪らない……。
あぁ……。
どうしたらいい? 何が不安なの?
不安の原因が分からずに、心の中が壊れてしまう……。
『ゆ、紫……紫……!』
ひどく不安になって、その名を呼ぶ。
「どうしたの……?」
心配するようなその声に、わたしは少しホッとする。
ガクガク震えながら、わたしは紫を見る……。
何だか分からないけれど、ひどく不安で心配で、……助けて欲しい……。
『!』
──ゾクッ……。
紫は、わたしを見下ろしていた。
──とても冷たい深淵の、その更に奥深くに潜む闇……。
常磐色の目は、深い悲しい緑をたたえ、こちらをじっと見ている。
何を言うでもなく、静かに笑って……。
確かに口許は、笑っていた。
けれど目は、笑ってなどいない。
──『怖い』
『……っ、』
わたしはどうしたらいいか、分からなくなって、必死で自分を抱きしめる。
「ふふふ……」
紫は、そんなわたしを見下ろして、とても愉しそうに声をあげて笑うのです……。
なんで? なんで笑っているの……?
何がおかしいの……!?
その笑いが少し不気味で、恐ろしくなり、逆に震えが止まる。
『あ……』
血の引く音が、聞こえるかと思った。
目の前がチカチカし始めて、何も考えられなくなる。
ドクドクと自分の鼓動が、耳の奥で木霊する……。
ひどく気持ち悪くなって、どっと脂汗が出た。
紫は、くすりと笑って口を開く。
──「やはり、氣にあてられたか……」
急に変わった口調に、わたしは目を見張る。
低く呟くその顔は、まるで別人で、わたしの震えは止まらない。
けれど視線を離すことも、出来なかった……。




