序
シーンと静まり返った空間の中。
わたしはそっと目を覚ます。
ここは、どこなのでしょう?
ひどく暗くて、ひどく冷たい……。
周りの様子は見えなくて、ただ恐ろしくて、誰かに助けて欲しくって、わたしは……ある人の名前を呼びました。
──……。
微睡むように呟いた、あの人の名前。
……ちゃんと、呼べたかしら?
声は……出ていなかったような、気がする……。
もう、ずいぶんと会っていない。
…………。
……おそらく……多分。
多分、ずいぶん……会っていない…… と、思うのです。
何故って、多分わたしは、長い間ここに閉じ込められていたと思うから……。
今は冬なのでしょうか?
それとも春になったのかしら?
わたしがここに閉じ込められてから、いくらか月日は、過ぎたのでしょう。いたずら半分で、勝手に切ってしまった左耳の近くの髪が、ずいぶんと伸びているんですもの……。
……いいえ、勝手に切ったわけではないの。家を出る時、わたしの身代わりが必要だった。
その依り代として、少し切る必要があったの。
何故だかひどく体が重くて、動かすことが出来ないけれど、記憶の中にある、過去のわたしの姿より、少し違っている。……それだけは何となく分かるりました。
──わたしは少し、成長している……?
けれど、不思議とお腹はすかないの。
やっぱり、月日が過ぎたなんて、勘違いなのかしら?
……確かにそんな事は、有り得ないでしょう?
成長するほどの年月……その間、何も食べずに生きられるなんて、出来やしないものね?
わたしはくすりと笑う。
笑うと少し、気分が晴れる。
気分が晴れると、余裕が出てきたのでしょう。辺りを見廻すことが出来るようになりました。
……上手く動けないので、目だけをそっと動かして。
ふふ。
バカね。わたしったら。
《成長している》……なんて。
そもそもここは真っ暗で、日が落ちたのも昇ったのも、分からないのです。自分の姿を見る……なんてこと、出来やしないのに。
切り取って短くなった髪は、きっと、視線から外れているせいなのね。
私はふふと笑う。
……あぁ、でも。
たくさん眠ったような気は、する、の……。
そして……とっても悲しくて、……泣いていたような、気がするの。
ここに来る前のわたしは、何をしていたのでしょう?
……あぁ、そう。そうだった。
……出掛ける用意をしていたのでした。
だから家を抜け出すために、依り代を置いた。
──大好きなあの人と、出掛ける約束。
約束の時間には、まだ凄く早かったけれど、持っていくものなど何もなかったから、わたしは早めに家を出たの。
家を出るのは、結構大変だったのです。
誰にも気づかれないように、日が明けるか開けないかのギリギリの時間を選んで、音を立てずに、こっそり歩く……。
ふふふ。
あの時は、なかなかドキドキしたのですよ?
だって、家をこっそり抜け出すなんて、生まれて初めての事だったんですもの。
運良く、みんなは眠っていて……、見つからなくって……。
それから……それから、……どうしたのだったかしら?
その後のことが、どうしても思い出せないの。
……どうしたことなのか、思い出そうとすると、頭が痛い。
──パアァ……。
『!』
急に、辺りが明るくなる。
わたしは眩しくて、着物の袖で、そっと顔を隠しました。
……あら? 動ける……?
何故、動ける……のでしょう?
「ふふふふふ……。みーつけた。みーつけた。……面白いもん、みーつけたっと……」
何かが、クスクスと笑いました。
けれど、その何かがなんなのか、ちっとも見えません。
久しぶりの陽の光に、わたしは目を眩ませてしまって、その声の人は、黒い影にしか見えなかったのです。
『……誰かしら?』
久しぶりに声を出した……のだと思うの。
だって声は少し、かすれていましたから。
けれど、わたし……こんな声だったかしら?
少し戸惑っていたら、《その声の人》は笑って口を開く。
「ふふふ。ウチね、紫ってゆーと。紫って、呼び捨てて良いけんね? ……それと、君こそ誰?」
その人は悪戯っぽく、勝気な常磐色の目を光らせます。
男の人なのかしら? それとも女の人?
『わたし? わたしは……』
聞かれてわたしは、言い淀みました。
名前は、ちゃあんと覚えているのです。けれど言ってはいけないの。
だって、あの人が《誰にも言ってはダメだ》と言っていましたから。
そう。……バレてしまうのです。わたしがここに、隠れていることが……。
言ったら、わたしはあの家に、帰らなくてはいけなくなるの……。
帰ったら多分、もう二度と逢えなくなるです。
……あの人に。
少しだけ、私の記憶はあやふやで、……。
そう。……多分わたしは、思い出したくないのかも知れません。
わたしの記憶は、薄いモヤが掛かっていて、全てを思い出せるわけじゃないみたい。
『……』
黙り込んだわたしに、《紫》と名乗ったその人は、優しく笑いかけてくれました。
「あぁ、別にいいとよ? 言いたくなかったら……。ウチは、君の気配感じて、ここに来ただけだけん」
言って手を差し伸べてくれました。
差し伸べられた手の意味が分からなくて、わたしは思わず目を見張ります。
『……え?』
驚きながら、紫を見ると、紫は不思議そうに小首を傾げました。
「ん? ……君はここを、出たくはなかったと?」
面白そうに、紫は笑いました。
『……』
わたしは、フルフルと首を振ります。
……出たい。
もちろん、出たいのです!
出て、あの人に逢いたい。
出来る事なら、もう一度あの人に……!
『……わたしは、ここから出たい。出たいのです! ……出してくれるのですか……?』
おずおずと尋ねると、紫はうんうんと頷きました。
「もちろんたい。だからウチ、ここに来たとだけん」
クスクスと笑いました。
話を聞いてくれることが嬉しくって、わたしは身を乗り出します。
あ、……動ける……。
ずいぶん長い間、動けませんでした。だからなのでしょうか? 体が少し、キシキシします。
『ふふ』
まるで、おばあちゃんになったみたい。
わたしは可笑しくて、小さく笑います。
──あぁ、わたし。……今、動いている……!
今まで動けなかったのですから、抜け出す事なんて、考えもしませんでした。
けれど今、わたしは動いてる……。
『出たい。ずっと寒かったの。あの人……あの人に逢いたいのです!』
思わず本音が口から漏れました。
「……? あの人? あの人って、だぁれ?」
紫は首を傾げます。
『そう……あの人……。あの人の名前は……』
その名を呼ぼうとして、口を塞ぐ。
……あれ? 名前が出てこない。
さっきは言えたと思いましたのに。
違う……。
言えないのではない。
多分わたしは、……わたしは、あの人の名前を……覚えていない……?
わたしは愕然となりました。
『名前……名前はなんと言うのだったかしら……?』
あたしは、頭を抱えます。
あれほど逢いたかったというのに……!
そんなわたしの様子を見て、紫は笑いました。
「もしかして、忘れたと? 逢いたい人なのに? もう。……君ったら、面白いとだけん」
クスクスと笑います。
「でも、しょんなかよ? だってずっとここにいたとでしょ? 」
困った顔でそう言いました。
「大丈夫って。ウチが手伝ってやるけんね!」
『……手伝って……?』
わたしは恐る恐る尋ねてみます。
「うん! ウチ、なぁーんもする事なかけん。よかよ? 暇つぶしになるけん、こっちも面白そうな事見つけて嬉しかもん! ……ウチね、ずっと一人だったと。寂しくて……でも君がおるけん、嬉しかと」
言って、わたしの手を引っ張りました。
「そうだ! 町に出てみたら、何か思い出すかも知れんよ? 君は多分、町に住んどったとでしょ? だって、綺麗な着物、着とらすもん」
言ってわたしの着物を見おろしました。
『着……物……?』
言われてわたしは、自分の姿を見ました。
わたしの着ている着物は、紅梅色の可愛らしい着物で、肩から領布を垂らしています。領布は少し濃いめの蘇芳色。裾には可愛らしい氷の花が描かれていました。
生地は良い生地を使っているようで、サラサラと良い心地がします。
「うーん。領布は、今の時期には、少し暑いかなぁ……? でも、まぁ暑さは感じんとかな? 君だけん、ね……!」
『え……?』
意味が分からなくて、紫を見ました。
紫はその問いには答えず、ただ微笑みながら、わたしを見ます。
──あぁ、……この人は知っている。
わたしが何なのか。ボンヤリわたしはそう思いました。
そうなのですね。
知っているのですね。
──それなら少し安心。
わたしはゆっくり目を閉じて、そう思いました。
自分のことを全く知らない人よりかは、いくらか知っていてくれている方が、ホッとする。
騙す必要がないですから……ね。
《騙す……?》
「ねぇ、行かんと……?」
紫の言葉に、わたしは慌ててしまいました。
『い、行く! 行きます……!』
慌ててわたしは、紫の手をとりました。
ほんのり温かくって、柔らかな手でした。
『……』
ホッとして、わたしは静かに目を閉じる。
あぁ、やっと外へ行ける……。
──やっと、あの人の元へ……!