他のことをしよう
僕がへたり込んだ状態から、少しして正気に戻ったのは、右肘の痛みを思い出したからだ。
思い出すというのは変な言い方だけど、本当にそんな感じだったのだ。
スライムと戦っている時には、右肘の痛みを気にしている暇はない、戦ったスライムもだろうけど、命がけの戦いだったのだ。
しばらくぼんやりしていて、どれだけの時間が経ったのかも分からない。
きっと実際はそんなに大した時間ではないと思うのだけど、何も意識できないような空白の時の後に、急に右肘のことを思い出したのだ。
思い出してしまったら、痛くて、慌てて覚えたヒールを使おうとして、また慌てた。
えーと、冒険者さんに足にヒールをかけてもらった時、冒険者さんは何をどうしたんだったっけ、と大急ぎで頭の中で思い返してみた。
確かあの時は、冒険者さんは手袋をはめて、溶け残っている靴を脱がしてくれて、それから水をかけて溶けた部分を洗って、そうしてからヒールをかけてくれた。
手袋をつけたのは、まだ靴や僕の足に付いているスライムの酸で自分の手を傷つけないためだろう。
脱がしてくれたり、水をかけて洗ってくれたのは、傷口からスライムの酸を除去するだけでなく、異物を排除するためじゃないかと思った。
僕は自分の右肘の現状を見て、ダメじゃん、と思った。
足を溶かされた時のように広範囲ではないし、元々何も覆う物のない場所だったから、何かを脱がす必要はないけど、横に跳んで転がって避けたから、傷口に土やら枯葉の切れっ端やら、くっついてしまっている。
どう考えても、冒険者さんのしてくれたことから考えて、このままヒールをかけて良いはずはない状態だ。
洗い流して、異物を除去してからじゃないとダメだな、と僕は思った。
でも僕は冒険者さんと違って、洗い流すための水を持ってなかった。
泣きたい気分になった。
痛いけど、今回は足じゃないから歩けない訳でもない、前の時と比べれば範囲もずっと狭いし、前の時ほどは痛くない気がするけど、それでもやっぱり痛い。
僕は我慢して、もう落ち枝を集めて括り付けてある背負子を背負って、孤児院に戻った。
誰かに今の状態を見られると問題なので、見られないように気をつけて、背負子を下ろして即座に水場を目指した。
左手で水桶を持って、右肘に水をかけて、異物と酸を流すとそれだけで、やっぱりかなり痛みが和らいだ。
ヒールを自分でかけようとして、左手でするのが初めてで、左手で出来るか不安だったけど、大丈夫だったので、すごくほっとした。
僕のヒールでも、スライムにやられた右肘はちゃんと治って、やっとスライムと戦っていた時からのドキドキが治った。
そうしてちょっと落ち着いたら、僕は全身土まみれの自分に気がついた。
林の中の地面を転がったからだ。
仕方なく僕は、またいつものように着替えを取って来て、最近は良く来るようになった洗濯場兼体洗い場に行って、着ていた物を脱ぎ、まずは体を洗い、それから汚れた着ていた物を裸のままで洗っていた。
段々と、自分がスライムの討伐をあまりに簡単に考えていたのではないかと、後悔する気持ちが湧いてきた。
冒険者だって、きっともしもの時のために水を持っていたのだろうに、僕はそんなことも考えず、準備していなかった。
それにまた、僕はスライムが怖くなってきてしまった。
前の時よりは痛くなかったけど、やっぱりスライムにやられると、すごく痛い。
少し薄れていた痛みの記憶を、また、まざまざと思い出してしまったからだ。
何だか泣きたい気分にまたなってきてしまって、僕は泣きながら服を洗っていた。
そうしたら不意に声をかけられた。
「あら、ナリート君、また体を洗って着替えたの?」
驚いて振り向いた僕の顔を見たシスターが、僕の泣き顔を見て言った。
「ナリート君、どうしたの?」
僕は色々バレてはいけないと思って、慌てて顔を水で洗ってから、シスターの方に向き直って言った。
「枝を拾っていたら、またスライムを見つけて、それに驚いちゃったら、ちょっと転んで、汚れてしまったので、着替えたんです」
シスターはちょっと眉を顰めて、考える顔をして言った。
「ナリート君、驚いちゃったのね。
もしかして、痛みとかを思い出しちゃったの?」
僕はびっくりした、しっかりとシスターに言い当てられてしまったからだ。
その僕の様子を見てシスターは付け加えた。
「ナリート君、大丈夫?」
僕は慌てて言った。
「はい、もちろん大丈夫です。 ちょっと驚いただけ」
シスターに弱っているところを見せてると色々聞かれそうなので、僕はちょっとだけ頑張ってそう言った。
シスターはまだ疑わしそうな顔で僕を見ていたが、僕の気分を変えるためか、本来の目的を果たさねばと思ったのか、急に違うことを言った。
「ちょうどいいわ。 ナリート君もまだ裸だから、前みたいにこの子たちを洗ってあげて、今度は3人よ」
僕はそう言われて初めて、シスターが3人の小さい子を連れているのに気がついた。
1人はこの前と同じルーミエで、後の2人はもっと小さい子だった。
僕も話題を変えたかったので、ちょっと思いついたことを言った。
「いいけど、シスター、その代わりに字を教えてくれる?」
「あら、褒美は字を教えることでいいの? どんな字が知りたいの?」
「全部。 だけど最初は自分の名前」
シスターは少しニコニコして言った。
「良いわよ。 それじゃあ、これからはナリート君が何か手伝ってくれた時は、その褒美に少しづつ字を教えてあげるわ」
シスターはそう言うと、3人を僕の方に押しやって、自分は去って行った。
3人は着替えを持っていないので、きっと3人の着替えを取りに行ったのだろう。
シスターが立ち去ると、すぐにルーミエが僕に向かって言った。
「ナリート、さっき泣いてた?」
「泣いてなんかない。 ほらさっさと服脱げよ。 水汲んでやるから。
ルーミエが手本を示さないと、後の2人はどうして良いのかわからないみたいだぞ」
ルーミエは、自分より小さい子が2人いるのを思い出したように見ると、僕とのおしゃべりを諦めて、まず自分の服を脱ぎ、次の2人が脱ぐのを手伝ったりした。
僕も桶に水を入れてやり、順番に体を洗うのを手伝ってやったりしていた。
すぐに戻ってきたシスターがその光景を見て言った。
「ナリート君、ちゃんと洗ってやっているね。
ルーミエちゃんも小さい子を洗ったり手伝っているんだ、えらいね」
シスターが3人の着替えと体を拭く布を持ってきたので、僕は自分も服を着てから、小さい子を拭いてやったり、服を着るのを手伝ったりもしてやった。
その間、シスターは素早く3人の脱いだ服を洗ったりしてた。
「さ、じゃあ、洗った服を干して来ようか。
もう今日中には乾ききらないだろうけど、雨は降らなそうだから、明日までそのまま干しちゃおう」
洗濯物を干し終わるとシスターは言った。
「それじゃあ約束通り、ナリート君に字を教えようね。
『ナリート』はこう書くのよ」
シスターは地面に小石で字を書いてくれた。
僕もそれを真似て、地面に書いた。
それを見ていたルーミエが言った。
「シスター、あたしも」
「ルーミエちゃんはまだ早いかな。 覚えられるかな」
シスターはそう言いながらも地面に書いてくれた。
ルーミエはしっかりとそれを真似して地面に書いた。
僕もそれも真似して書いた。
ん、と思って僕はシスターに言った。
「シスター、それじゃあ、『名前』ってどう書くの?」
「『名前』はこうよ」
シスターはなんで『名前』と、ちょっと思ったようだけど、書いてくれた。
僕はそれも書いてみて、それから言った。
「やっぱりだ。 同じところがある」
「あら、良く気づいたわね。 最初は伸ばすところが同じで気がついたのかしら。
ああ、それで『名前』って言ったのね。
『ナ』のところが同じか確かめたのね。 最初だから分かり易いからね。
ナリート君は頭が良いわね。
すぐに字を覚えられそうね」
シスターはすぐに僕の意図に気付いて、僕のことを褒めてくれた。
確かにそれもあるのだけど、僕はもう一つのことも考えていたのだ。
[名前] ナリート
そう自分を見た時に、読んだと思ったのと、今覚えた字は同じかどうかを確かめたいと思ったのだ。
よし、大丈夫。 ちゃんと覚えている。
僕は夜、また寝床でそれを確かめようと思って、一瞬ウキウキしたのだけど、なんとなくすぐにそんな気分ではなくなってしまった。
自分のことを見よう、知ろうとすると、[次のレベルまでに必要な残り経験値]も見えてしまう。
きっとまた、その数字が1減って、たぶん5になっていると思うけど、それを見るのは何だか今日の失敗を確認するみたいで嫌だったのだ。
僕はその後の時間はずっと、寝床の中で自分のことを見ようか、見ないでそのまま寝てしまおうか、迷っていた、いや悩んでいた。
僕はそればかり頭の中で考えていて、寝るまでの時間にすることを心ここにあらずでしていたから、柴刈りに一緒している訳でもないのに、リーダーに怒鳴られた。
「ぼんやりしてるんじゃない!!」
さすがに今回は殴られなかったし、それにまた僕が悪いから、素直に「ごめんなさい」と言った。
寝床に入っても、どうしようか迷っていて、それでも字をせっかく覚えてきたのだから、見て確かめてみないのも嫌な気がして、
「よし、[名前]のところだけしか見ないぞ。
そこだけ見て、他は全部見ないで、今日はそこだけを見てやめるんだ」
僕は、そんなことが出来るかどうかも分からなかったのだけど、そういう風に決心して、自分のことを見てみる、知ってみるということに意識を向けた。
意識を向けた瞬間、頭の中にだか、意識の中にだか何だか分からないけど、いつもの様にそれが出てきた。
僕はそれがやっぱり書いてあると感じたら、覚えた字と同じことが書いてあることが判った。
やっぱりそうだったんだ、他のところは・・・。
と、別のところもつい読もうとして、僕はさっきの決心を危うく思い出して、そこで自分のことを見てみよう、知ってみようとすることに意識を向けるのをやめた。
何だかやめたというより、懸命に断ち切ったという感じで、少し疲れた気がした。
それでも僕はちょっと満足した。
やっぱり書いてあって、自分が覚えた字が書かれていたのが確認できた。
今日散々だったけど、最後に少し嬉しかったな、と思って僕は眠りについた。
次の日の朝、また僕はちょっとウジウジと考え込んでいた。
「今日はどうしようか。
スライムを討伐するのは、何だかちょっと嫌だな」
僕はまた失敗して、スライムと戦うことになって怪我をして痛い思いをする想像ばかり頭の中でしてしまっていたのだ。
「そうだった。 今度はもしもの時のために水を持って行かないとダメだったんだ。
水を持っていれば、怪我しても、すぐにきれいにして、ヒールをかけて直すことが出来る。
うん、今日はスライム討伐をしないで、水筒を作ろう」
僕はちょっとだけ気分が楽になって、いつもの通りに1人で林に向かった。
スライムを討伐しないことにしても、課せられている柴刈りの仕事をサボる訳には行かないし、水筒の材料の竹も取りに行かないとならない。
僕は辺りにスライムがいないかどうか、油断なく警戒しながら林に向かっているのだけど、もう一つやっていることがある。
何をしているかというと、歩いている最中に足の近くにある小石を意識しているのだ。
そうすると竹を切るのに使える、割ると尖っていて、硬い石をなんとなくこの石だと選ぶことが出来るからだ。
2本目の槍を作った時に、手に持たなくても石の良し悪しが分かると判って、なんとなく色々していたら覚えた方法だ。
わざわざ探さなくても、歩いている最中に探せるから、便利なんだ。
それでもその日は、なんとなく気が乗らなくて、僕はスライム討伐をしていた昨日までのように一生懸命には、柴刈りもしなくて、時間が掛かった。
竹で水筒を作るのも、冒険者さんの水筒を思い出して作ってみたら、竹を切ったりだとかに慣れてきたのか、なんの困難もなく出来てしまった。
その竹の水筒は、林の中の蔓を切って、腰に吊るしておけるようにした。
これも冒険者さんの真似だ。
その日はそんなことを、のんびりとやって、孤児院に戻ろうとしていたのだけど、村に入ったところで、僕は「しまった」と思った。
いつもは気をつけて時間をズラして、なるべく顔を合わせないようにしていた、リーダーに率いられた友達たちと、鉢合わせしてしまったのだ。
「なんだ、ナリートも仕事が終わったのか。
お前、なんで竹の棒を持っているんだ?」
「僕、前に失敗してスライムに足を溶かされたことがあるから、だから、もしもの時のために竹の槍を作って持ち歩いているの」
「ふん、弱虫め」
リーダーはそう言って、まだ僕のことを見ている。
「お前、腰にも何か付けてるな」
「うん、僕を助けてくれた冒険者さんが、腰に水筒を着けていたから、真似してるの」
「へぇ、カッコいいじゃねえか。
そいつは俺に寄越せ」
僕は作ったばかりの水筒をリーダーに取られてしまった。
年齢が違って体格が違うから防げなかった訳ではなく、防ごうと思えば防げる気がしちゃったので、逆にやっちゃダメだと思った。
それにこんな水筒すぐに作れる。
「なんだ何も入ってないじゃないか」
「うん、作ったばかりだから」
「へっ、それじゃあ最初から俺が使ってやるぜ。
おいっ、みんな行くぞ」
リーダーに率いられた友達たちは、先に帰って行った。
その晩、寝床の中で、今日はどうしようかとまた少し悩んでいたら、寝床が隣の友達がまだ寝てなくて、話かけて来た。
「ねえ、ナリート、昼間リーダーに取られちゃった水筒だけど、あれ、自分で作ったの?」
「うん、竹を石で切って作ったんだ」
「すごいなあ、水筒、カッコいいよね。
あの嫌なリーダーは、もうすぐ卒業だから、いなくなったら僕にも水筒の作り方教えてくれないかな。
僕にも出来るかな」
「うん、良いよ。
水筒なんて誰でも作れるよ。 教えるよ」
「ありがとう。 早くここを出て居なくなればいいんだ、あんな奴」
僕はその夜は、何だか妙にちょっと暖かい気分でそのまま眠った。
次の日は、考えるまでもなく、また水筒作りをした。
隣の寝床の友達の分も作ろうかなと思ったけど、「作り方を教えて」と言っていたから、ちょっと考えてから、それはやめた。
僕は教える時のことを想像するだけで、ちょっと楽しかった。
「石の選び方とかも教えないとダメだよね。
でも僕は分かるだけなんだよな。
そうか、選んだのがどういう石だか、ちゃんと気をつけて見ておくようにすれば、もしかしたら教えられるかもしれない」
そんなことをウキウキ考えていたのだけど、その日はちゃんと鉢合わせしないように気をつけた。
いつもは僕の方が先に戻ることが多いのだけど、その日は逆に僕の方が遅くなった。
実は同じくらいにまたなってしまった気がしたので、時間を少し潰して、わざと僕は遅くなったのだ。
孤児院に戻ると、リーダーが神父様に呼ばれたという話をすぐに聞いた。
さすがに僕から水筒を奪ったということが、どうやら複数の友達から訴えがあって、神父さんも問題視したようだ。
リーダーの後に僕も呼ばれて、神父さんから水筒を返されたが、僕は「いらない、それはリーダーにあげます」と言った。
もう自分のは新たに作ったし、一度でもあのリーダーが使った物なんて、僕は使いたくないからね。
その晩、寝る前の時間、リーダーが荒れた。
みんなの前で、たぶん神父様から戻されたのであろう、僕から奪った竹の水筒を床に叩きつけると、足で踏み割って言った。
「告げ口をしたのがナリートじゃないことは分かっている、お前たちの誰かだな。
お前らもナリートも覚えておけ、俺はこの件を忘れねぇぞ」
興奮して大声で怒鳴ったから、僕たち以外にも聞こえてしまったのだろう、またすぐにリーダーは神父様に呼ばれて連れて行かれた。 バカなやつ。
その翌日、僕はシスターに呼ばれた。
「ナリート君、良く我慢したわね。
喧嘩したら負けないと思っていて我慢できたのはえらいわ。
これはそんなナリート君にご褒美よ。
ナリート君は頭が良いみたいだから、これがあれば字が覚えられちゃうんじゃないかな」
シスターがくれたのは、字の表だった。
全部の字が、その表に載っていて、順番に読むと一つの文章になっているという優れ物だ。
シスターはその文章を僕に暗記させて、その表をくれたのだった。