母親となると
西の村の騒動が一応の収束をすると、僕はほとんど西の村に行く事はなくなり、城下村で過ごすことになった。
最初から新西の村開拓の担当者はキイロさんで、僕は補助的な役割が求められていることになっていたのだけど、西の村で騒動が起きた影響で、文官さんが1人西の村に常駐することになり、僕が行く必要が薄くなったからだ。
僕の新西の村で一番期待されていた役割は、西の村から、特に西の村の村長から、何かしらの難癖が新西の村につけられた時、領主様の息子という立場で、それを大事にはしないで抑えつけることにあった。 西の村の村長でも、領主様の息子に対して、無理な事を言って来る事は出来ないだろう、という理由だ。
ところが西の村の村長たちが自分たちで事を起こして大きな騒動になってしまい、追放されることになって、領主様というより領政府は、「西の村を見捨てはしていない」という姿勢を示し続ける必要から、西の村に文官を常駐させることになった。 こうなると僕の役割はいらない。
そもそもにおいて、僕は文官さんや、騎士や衛士たち、それから院長先生たち一部の教会の人たちなど以外の、一般の領内の人たちに、あまり知られていない。
一番知られているのは、もちろん領民たちから「聖女様」と呼ばれるシスターだ。 シスターは人望もあるし、領主様を除けば領内で一番の影響力を持っていると思う。
二番目はフランソワちゃんで、こちらは農業の女神様のように思われていて、良く知られていて、やはり大きな影響力を持っている。
そして三番目はルーミエだ。 ルーミエは常にシスターと行動を共にして、その本来の[職業]聖女の能力の一端を駆使して、シスターを手伝っていた。 その能力は実は特筆すべきことなのだけど、「さすが聖女様の一番弟子」という評価でなんとなく納得されて、上手く隠された感じになっている。 シスターの陰になっていたから、領民に対する影響力という事ではあまりないけど、でも顔と名前は広く知られている。
僕も結構、シスターと一緒にあちこち回ったのだけど、女性2人の方が印象が強く、あまり覚えられてはいないのだ。
そんな訳で、領主様がシスターと結婚して、僕たち3人が領主様の養子となった時にも、(フランソワちゃんは少し僕とルーミエとは事情が違ったけど)、多くの領民にとっては僕だけ、「えっ、誰?」という状況であったのだ。
そういうこともあって、西の村を領政府が見捨てない、忘れていないということを示すには、あまり知られていない僕よりも、きちんと領の文官の肩書きを持つ人を常駐させる方が、西の村の村民にとっては、確実な事と感じられるのだ。
僕は領主様の息子の立場はあるけど、公的な立場は城下村の代官であって、そんなことは城下村の人しか知らない。 いや、城下村の人も僕がそんな立場になっているのを知らないかも知れない。
城下村の主要人物の1人であることは知られているだろうけど、城下村の一番上の立場に立つのは、きっとマイアだと認識されているんじゃないかな。 その方が良いと、僕自身も思うのだけど。
「この山が代官の署名が必要な書類ね。 これは山は大きいけど、もうナリートが署名するだけだから、そんなに大変ではないわ」
ということで、僕は本来の仕事である代官の仕事を、マイアの申し送りを受けて、今はしっかりとやらされる羽目になっている。
「そんなに大変ではない」と言うけど、この山になっている書類全部に目を通して署名するなんて、始める前から溜め息しか出ない。
「そっちの山は、こっちより低いけど、一つ一つの書類はみんな吟味して、検討して処理しなければならないから、全てに時間も手間もかかって大変よ。
そっちに関しては、ナリート1人で処理出来るという訳でもないわ。 それぞれについて必要と思われる人と話したり、時には調べに行ったりしなくてはならないかも知れない。 だからそっちは何時終わるか分からないわね。
あ、そうそう、中には期限がある物もあるから、そういうことも考えて、上手く進めないと困ったことになるわよ」
うわぁ、もの凄く面倒そう。
「マイア、もちろん手伝ってくれるんだよね」
「何言っているのよ。 これは本来はナリートの仕事でしょ。
私は前から宣言しているとおり、これからの最重要は子どもを産むことよ。 私が妊娠して子どもを産んだら、とてもじゃないけど、こんな仕事していられないわ。
すぐにそうなるつもりだから、その時に困らないように、ナリートは今から仕事に慣れて、自分だけで簡単に進められるようになっている必要があるわ。
甘ったれたこと言ってないの」
マイアは、かなりご機嫌斜めのようだ。
そりゃ確かに、新西の村開拓という事を理由にして、城下村の事務仕事を全部丸投げしてマイアに押し付けていた自覚はある。 流石にこれ以上は、爆発させかねなくて頼めないな。
僕は渋々1人で書類と格闘を始めた。 誰も手伝ってくれない。
マイアだって、1人で仕事を進めていた訳じゃないだろう。 誰か仕事を手伝っていたはずで、その人が同じように僕を手伝ってくれても良いと思うのだ。 そうすれば少しは効率良く仕事を進められるはず。
ところが、そういう感じの人が誰もいない。 誰も部屋に近づいてさえ来ない。
「ねぇ、ウィリー、城下村の事務仕事をマイアにずっと代役を頼んでいたけど、その時は誰が手伝っていたの?
あれって1人で出来る仕事量じゃないよね。 誰か手伝っていたと思うのだけど」
「ああ、1人じゃ無理だな。
当然俺は手伝わされたよ。 それとエレナの代の女性陣が、マイアに無理やりの感じで手伝わされていた」
ウィリーは手伝わされていただろうなと予想していたけど、それ以外にエレナの代の女性陣か。
「あ、お前、事務仕事が大変過ぎて、手伝いが欲しいんだろう。
俺は駄目だぞ。 マイアが、『ナリートにちゃんと事務仕事の重要さと大変さを知ってもらう』と息巻いているから、俺が手伝う訳にはいかない。
エレナの代の女性陣も無理だろうなぁ。 マイアだから渋々手伝っていたけど、お前じゃ彼女らを無理やり使えはしないだろ。
俺もやってみて理解したけど、ああいう事務仕事は、他の仕事とは疲れ方が違う。 それしか出来ないならともかく、他の仕事も溜まっているのに、誰が好き好んであの仕事を手伝ったりするか、という話だ。
ま、元々はナリート、お前がマイアに無理やり押し付けていた仕事だ。 覚悟を決めて頑張れ」
ウィリーはマイアに逆らえないだろうから無理だし、エレナの同期は歳上だからもあって、孤児院の時から、何かしてもらうという関係で、何かをやらせるという関係ではない。 こっちも無理だな。
1人で頑張るしかないのか。 ルーミエとフランソワちゃんも、そこは露骨に避けてくるし、その状態でジャンを巻き込むのは気が引ける。 あーあ。
援軍は意外な所から現れた。
「ルーミエ、フランソワ、あなたたち二人もナリートを手伝って、城下村の事務仕事をしなさい」
シスターが、ルーミエとフランソワちゃんに、僕の仕事を手伝うように命令してくれたのだ。
「シスター、私の仕事は薬を作ったりとか、綿を利用したアレ作りとかそういうのだよ。 フランソワちゃんは、もっとはっきりしていて、農業の指導が仕事だよ。 城下村の事務の仕事は私たち二人の仕事じゃなかったし、したことないよ」
「そうね、今まではしたことがないわね。
そういう仕事は、ナリートが担当していたはずだけど、実際にしていたのはマイアね」
「シスターは今まで、城下村での色々な仕事とかを誰がするかとかに、口を挟むことがなくて、みんなの自主性に任せていたように思うのですけど。 何でナリートが代官として担当している仕事を、私たち二人に手伝わせようとするのですか? 私たち二人がナリートの妻だからですか?」
フランソワちゃんが何だか疑問に思ったようだが、確かに今まで、シスターは僕たちのしている事に、自分から意見を挟むことは無かった。
「それはね、フランソワちゃんは孤児院出身じゃないけど、他の多くは孤児院卒院者でしょ、卒院した時点で、私たちシスターの保護を離れたとして、一人前として扱うという前提があるからよ。
だから、病気が流行った時のように、何か特別な緊急事態以外では、シスターとしての意見を言って、みんなを従わせようとはしないのよ。 そのつもりはなくても、孤児院で世話になったシスターの意見となると、孤児院出身者は無意識にも言う事を聞いてしまう傾向があるからね」
えっ、それじゃあ何で、この事は命令したの? 僕が感じた疑問を二人も感じたようだ。
それを見てとったシスターは言葉を続けた。
「それだからシスターとしての私は、みんなに対しては求められない限り、極力自分の意見は言わないようにしているわ。
でもね、さっきの二人に対する言葉は、それとは違うのよ。
あなたたち3人にとって、私はシスターだったけど、今はそれだけじゃないわ。 私にとってのあなたたちは、今では、孤児院の子や村長の娘ではなくて、自分の子どもなのよ。
自分の子どもならば、自主性に任せるだけじゃなく、将来の為に意見したり、命令として何かをやらせることも考えるわ。
今回の事は、そういう事よ」
「つまりシスターは、私たちはシスターと領主様の子どもだから、私たちの将来にとって、この書類をきちんとするような事務の仕事は、必要だから経験を積ませたい、と考えていると言うこと?」
「そういうことよ、ルーミエ。
あなたたちは今ではもう、孤児院を卒院した者とか村長の娘だった者という括りではないの。 この男爵領を治める領主の家族であるだけじゃなく、次代にそれを担う者たちでもあるのよ。
あなたたちは、これからはこの領内の人々、全ての人々を何時でも頭の中に置いておいて、物事を考えなければいけないわ。 その手始めとして、まずはこの城下村の事務仕事を経験してみなさい。
人々を治める政をするということが、どれほど大変なことなのかを、まずは身近な所から経験していく必要があるのよ」
うん、僕は領主様が実の子どもを持つことが出来ないと知ってから、このことは理解してはいたのだけど、あまり考えないようにして後送りしていた。 ルーミエとフランソワちゃんには、そういう視点はまだ無かったのかな。
シスターは、自身が領主夫人でもある母親として、僕たち三人にそれをしっかりと自覚させようと考えたのかな。
ルーミエとフランソワちゃんも、シスターの言った事を理解したようだ。 ルーミエはまだ、表面的な理解かも知れないけど、フランソワちゃんは村長の娘として、小さい頃は自分の[職業]を「貴族よ」と言って、「ノブレス・オブリージュよ」などと言って歳下の僕らを庇おうとしたくらいだったので、より深く理解したようだ。 何を言っているのか良く分からないかも知れないけど、要するに、小さい時から人の上に立って、自分より下になる者たちに何をすれば良いのか、と考えていて、僕やルーミエとは違い、農業の女神様のように言われていることからも分かるように、他人を導いたり、治めたりの経験があるので、領主様の娘として、自分がどう在らねばならないのかを、想像することが出来たんじゃないかと思う。
とは言っても、行政的な事務仕事の経験なんて全くない2人が、即座に仕事の大きな戦力になるはずもない。 山になっている書類はなかなか減らないのだけど、それでも部屋に独りぼっちで仕事をしないで済むようになって、僕としては気分的にはかなり楽になった。 嫌になってサボりたくなっても、それを自分の意志だけで抑えて仕事を続けるのは難しくて、それだけでとても疲れてしまうことだけど、同じ部屋で別の人も仕事をしていると、サボる訳にはいかないと、簡単に続けることもできる。 それに、何か声を出すと、それに即座に応えてくれる人がいると、それだけで気分は随分と和むよね。
それぞれに書類に向き合ったり、3人で相談して書類の問題点を考えたり、時には他の人を呼んで話し合ったりと、僕だけでなく2人も少し事務仕事に慣れてきて、効率も少し上がったかなと思えるようになった頃、領主様がシスターと、そしてマイアも連れて、僕たちが仕事をしている部屋にやって来た。 マイア抜きなら、親が子どもの現状を視察に来たというだけなのかも知れないけど、何か話があるのだろうなぁ。
「あら、思ってたより、山が低くなっているわね。
良かったわね、ナリート、2人も手伝ってくれて」
ちょっと自分のことを場違いに感じていたらしいマイアが、その気分から逃れる為か、一番最初に声を掛けてきた。
「そんなに時間が掛かるだろうと考えていたのなら、マイアは前任者として、もっと手伝ってくれても良かったのに」
「それじゃあ、ナリートの修行にならないじゃない。 あなたはこの先、この領全体のことを考えなければならない立場になるのだもの。 この城下村から出てくる書類程度、簡単にさっさと処理できるくらいの行政能力を持っていてくれないと、私たち領民が困るもの」
げっ、マイアって、そんなこと考えていたのかよ。 なんて言うか、僕らよりもずっと現実的だ。
「おいおい、マイア。 もっと沢山の量の書類がまだ残っているだろうと、お前が考える程の書類が山になっていたのか?」
マイアと僕のやり取りを聞いていた領主様がマイアにそう声を掛けた。
「そうですね。 3人は頑張ったと思います。
あ、でも、私が意地悪をして、書類を残していた訳ではないですよ。 代理として出来る分はきちんとやってきたと思います」
「ああ、そこは分かっている。 お前の行政に関する処理能力は、報告を受けた文官たちも評価しているからな」
マイアは、ちょっとほっとしたという顔をした。
「ここにマイアも呼んで連れて来たのは、今からする話にマイアも関係するからだ。
もうすぐ儂は、例年の如く、王都に行かねばならない。 そして今回は、カトリーヌ、ナリート、ルーミエ、フランソワ、お前たちも全員王都に行かねばならないのだ。
ナリート、ルーミエ、フランソワの3人は前も一緒に行ったが、カトリーヌは一緒に行くのは初めてだな。 あ、ルーミエとフランソワも、今回はあっちで老シスターの手伝いをしている暇はないだろうな。 まあ、教会関係はカトリーヌと一緒に回ることになるだろうがな。 ナリートは、今度は本格的に儂と共に、そこら中への挨拶回りだ。 覚悟しておけ、今度は付け足しとしてじゃなくて、一方の主役という感じで回る事になるから、大変だぞ」
ああそうか、年に一度の貴族の義務というヤツの時期がもう迫っていたのか。 他のことに忙しくて、そんなの忘れていた。 前の時は向こうに着いて連れ回されるまでは、「糸クモさんの布はどのくらいで売れるのだろう」とワクワクドキドキしていた気がするけど、今回は最初から、色々と気疲れして大変そうなのが、領主様に脅かされなくても理解出来ているので憂鬱になるだけだ。
自分に関係ない話題だと、少し油断していたマイアに領主様が言った。
「という訳で、儂たちがいない間、前と同じようにマイアに、この城下村の行政関係のことは任せる。
今度は代理ではなく、正式に副代官に任命するから、もっと思う存分に自分の能力を発揮してくれ。
それとまあ、これは付け足しなんだが、文官たちは本当にお前の行政能力を買っていてな、子どもを産んだ後も、ぜひ仕事は続けて欲しいそうだ。 子どもを育てながらでも、仕事を続けられる方法を考えるそうだ。
今まで、領の行政府には、いやもっと広く政一般に、教会の一部のシスターを除き、女性は関わってこなかった。 別に女性を閉め出した訳ではないのだが、今まで、儂が妻を持たなかったことも関係しているのかも知れないが、女性も一緒に仕事をするという事が無かった。
この城下村では、カトリーヌはともかくとして、マイアにしろエレナにしろ、それに、えーと、ジャンの所の、誰だっけ、そうだアリーだったな、他もみんな、男たちと変わりなくそれぞれが仕事していて、上に立つものも多い。 そしてマイアは見事な行政能力を発揮したという訳だ。
そう考えると、今までは半分の人材をみすみす使わないで放置していたという訳だな。
それだから、マイアには、我が家の女性陣3人と共に、この領における女性の社会進出の先駆けになってもらうつもりだ。 覚えておいてくれ。
あ、そうそう、書類仕事をウィリーも手伝っていたらしいが、あいつにも行政の処理能力があるのか?
衛士としては、儂自らが鍛えてやったから、しっかり戦闘力なんかは分かっているのだが、書類仕事が出来るかどうかなんて、試してないからなあ。 マイア、どうなんだ?」
マイアは自分に対して言われたことが、予想も何もしてなかったことで、不意打ちになってしまって、驚いて思考が完全に停止しちゃたみたいだ。 ウィリーのことを訊かれても、耳に入ってさえないみたいだ。




