四月
「………………」
ラピスラズリの瞳をしたその人物はなにを言うでもなく、鉄扇を取り出しそれを勢いよくばんっ! と開いた。
向かい合う男に対して、冷ややかな視線を送りながら。
視線の先には、金髪に緑の瞳の男が座っている。
ラピスラズリの部下が懇意にしている海賊、蜜薔薇の海賊団船長、キャプテン・ニコル――では、ない。容姿のところどころは似ているが、彼とはまったく異なる雰囲気を放つ男だ。
自由奔放なニコルと打って変わって、謹厳実直という言葉がよく似合う。それが、座って向かい合っただけで伝わる。一言も、言葉も、吐息さえも交わしていないが、理解できた。
ニコルの瞳がペリドットならば、この男の瞳は、エメラルドと称するべきだろう。
「――遠い海の向こうから」
ラピスラズリの人物は、長い沈黙を破り、溜息でもつくような感覚でそう切り出した。
「よくもまあこんな辺境の地においでなさいました。わたしはこの国の王、蝶咲蓮と申します。ああ、蝶咲が苗字で蓮が名前です。お間違えの無いよう」
声まで冷ややかだった。まるで温度というものを感じない。
蓮というこの人物、けして簡単には人に心を許さぬ人間らしい。
「それにしても……貴方の言う世界海軍? ――が、何故わざわざ我が国を訪れたのか……少々疑問ですね。もしや世界海軍連盟への加入の誘いでしょうか? でしたら、申し訳ありませんと謝らなければなりませんね。我が国は、今はできるだけ、どの組織にも属さぬよう様子を見ている最中ですので」
「……いえ、世界海軍連盟への勧誘ではありません」
エメラルドは、蓮の言葉を緩やかに否定した。
「申し遅れました。ボクは世界海軍大佐、クリス・ミューアヘッドと申します。この国には、とある海賊を捜してやってきました」
「海賊?」
蓮は怪訝に眉を寄せ、目を細めたが、それ以外の反応は示さなかった。
クリスの言葉に不信感を抱いたわけではないようだが、疑問を抱いたらしい。
「ええ、海賊です。海を根城にする極悪集団。文字通りの海の賊。悪逆非道、残虐無比。ありとあらゆる悪事に手を染めた恐ろしき非合法組織。そんな数ある海賊の中でも、特に群を抜いて恐ろしい海賊、パイレーツ・オブ・ローズ――通称『蜜薔薇の海賊団』が、この国の近辺で消息不明になっているのです。国王陛下、この海賊たちについて、なにか知っていることはありませんか」
「ふっ……」
クリスのまくしたてるような言葉の羅列について、対する蓮は失笑で返した。
「クリス・ミューアヘッド大佐……殿、貴方は随分海賊という存在がお嫌いなようだ」
「………………」
挑発するような、煽動するような口調である。
しかしクリスは挑発にも煽動にも乗らず、まっすぐ蓮を見据えた。
「ええ、嫌いです。何故ならば、海賊は『悪』だからです。この世の規律を乱す逆賊……好きになれというほうが難しいでしょう。奴らは――人の大切なものさえ奪う――」
「大切なものを奪われたかのような言い分ですね」
クリスの眼光にはけして怯まず、蓮は言う。
「まるで子供だ」
口元を開いた鉄扇で隠して、笑い声を漏らす。
そんな蓮の態度に、クリスはほんの少しだが、怒りを覚えた。
「あなたは人の話を茶化すのが趣味なのですか」
「いいえ? 何故そう思うのです、ミューアヘッド大佐殿?」
「先ほどからあなたは、ボクの言葉を茶化したり揚げ足を取るかのような言動ばかりだ。あまり権力を振りかざすのは好きではありませんが……度が過ぎると、少々痛い目を見ることになりますよ」
「痛い目? 暴力でも振るわれるのでしょうか」
「いいえ。あなたの治める国にとっての、痛い目、です」
「おお怖い」
大袈裟に怯えたような声を発し、蓮は居住まいを正した。
クリスの言葉を真に受けたわけではないが、それでも蓮は、きちんと話をする気になったらしい。国民を人質にしての脅しは意外と効くものである。
この脅しが効くということは、この蓮という人物は、暴君というわけではなさそうだ。
「……海賊、でしたか」
「はい、海賊です」
「申し訳ありませんが、心当たりはありませんね」
音をたてずに鉄扇を閉じ、弄びながらそんなことを言う。
嘘をついているかどうかは、わからない。
なにもかもが嘘にまみれていて、もはや真実が見えなくなっている。
「心当たりがない? ひとつもですか?」
「ひとつもない……とは言い切れませんね。しかし、海賊がいたからなんだと言うのです? たとえ我が国に海賊がいたとして――その悪逆なる海賊団がいたとして――わたしたちは今のところ、なにひとつ被害を受けていませんよ」
「今被害を受けていないからと言って、これから受けないとは限りません」
ぴしゃりと、相手が一国の王だとしても下手にでることなく、クリスは言い切った。
「なにせ奴らは油断させることも得意とするのですから。油断させ、懐柔し、頃合いを見て捕食する。まるで獣だ」
「獣――ですか」
はっ、と。
まるで嘲笑のように蓮は息をついた。
「我が国にも海賊なるものは存在しましたよ。まあ、戦乱の世を過ぎ、天下泰平を謳い文句にしていたころの話でしたが、その際、海賊取り締まり令が発布されましてね――海賊と言うものは、あらかたいなくなったと見ていいでしょう」
「それは貴国だけです。まだこの広大な海には、海賊という無法者が蔓延っている」
これは貴国のためを思って言うのです。
と、クリスは語気を強めた。
「被害を受けてからでは遅いのです。どうぞ国王陛下、海賊と名乗っていなくとも、渡来人には細心の注意を払ってください」
「ええ――肝に銘じておきましょう」
肩を竦める蓮。
どうも拍子抜けしてしまう。
国王たる気概がない――というか、この人物は本当に、一国の王なのか? という疑問さえ浮かんでくる。
言葉に重みがないわけではない。
国民のことを考えていないわけでもない。
しかしどこか――噛み合わない。
この国の諺で、暖簾に腕押し、糠に釘、というものがある。
意味は双方、手応えがないこと。
まさにその言葉通りだ。
この蓮という人物には、まるで手応えを感じない。
脅しも賺しも無意味に思えてくる。
そんな人物の相手をしているとなると、一歩を踏み込むべきか躊躇してしまう。
だが、躊躇ってもいられない。
踏み込むべき一歩は踏み込むべきだ。悩む必要などない。
「それで相談なのですが――我が世界海軍の軍隊をこの国に駐在させてほしいのです」
「はあ」
返ってくる返事は生返事だった。
クリスの言葉など、一切気に留めていない。
やりたければやれば? という態度である。
「ああ、いえ、海軍の大佐に今の態度は失礼でしたね」
言葉だけならなんとでも言える。つまり、蓮の態度は言葉だけならば慇懃だが――慇懃は慇懃だが――慇懃無礼そのものだ。
心ここにあらず。
海軍の大佐の話より、もっと大事なことを上の空で考えている。
そのような雰囲気をひしひしと感じる。
「ええ、構いませんよ。そもそも断る理由がありません。それでも場所は限られているので、軍隊と言っても少数だと助かるのですが」
「ありがとうございます。はい、それは重々承知の上です。少数も少数、少数精鋭で挑みましょう。もちろん、なにもなければ我々はすぐにこの国から出ていきます」
「委細承知いたしました。我が国には、もてなしという誇り高き文化があります。どうぞ仕事ばかりではなく、我が国の伝統なども楽しんでいただけたら幸いです」
にっこりと微笑んだ蝶咲蓮の笑顔は、厚意や好意とはまったく無縁の、それらの感情には到底届かない作り笑顔だった。
◇◇◇
クリス・ミューアヘッド。
世界海軍大佐。
一切の乱れのない整った顔立ち。
美しい金髪に、エメラルドの瞳。
真っ白い軍服に身を包み、肩のマントが翻る。
ただ歩くだけでも、折り目正しさが認識できる。
「………………」
「あ、ミューアヘッド大佐、おかえりなさいませ」
世界海軍所有の船――もちろん軍艦である――で双眼鏡を覗き込みながら船の番をしていたプレナイトの青年、ルーク・メイフィールドがそんな風にクリスを迎える。
「ご首尾のほうはいかがなものでしょう。なんだか、こんな小さな国の王様だから気楽なものかもしれませんね。だって、十数年前まで鎖国していた国でしょう? 外交なんかもそんなに上手くなさそうですし――」
「それはどうだろう」
ルークの――聞いている者によっては無礼とも捉えられそうな砕けた物言いにさして気分を害することもなく――クリスはそう答えた。
「確かに今の今までこの国を警戒したことはなかったが……国王陛下に会って意見が変わった。この国、これから数十年で世界に名を轟かせるかもしれない」
「ええ? それはつまり……」
「一筋縄ではいかぬ相手だということだ」
クリスは一度ゆっくり目を閉じて、小さく溜息をついた。
正直言って、あの蓮という国王、嫌な相手だ。
話しただけでは蜜薔薇の海賊団がこの国に逗留しているかはわからなかった。
蓮の言葉が曖昧すぎるのだ。
もし海賊がいることを知らずにあんな口振りだったのだとすれば、蓮は相当性格が悪い。
そして、本当は海賊がいることを知っていてあんな口振りだったのだとすれば、およそ性格の悪さは最高に最悪だと言っていい。
後者だった場合、世界海軍の名において断罪することは――不可能だろう。
国があるだけ国の法律があり、ルールがある。
法律やルールには抜け道がある。
すでにこの国は鎖国をやめ、国を開いている。渡来人が不自然なくらい多くとも、言い逃れはいくらでもできるのだ。
彼らが海賊だなんて、知らなかった。
そう言えば、どうとでもなる。
そう言われれば、こちらもなにも言えなくなる。
クリスより階級が上の人間は、暴力に訴えてでも自白させろと声を荒げるだろうが、クリスはそんなことを望んでいない。
なによりも正しくありたいからだ。
法律やルールよりも正しく。
強情だと自分でもわかっている。けれどこれは性分だ。変えられない。
故郷に帰ったとき、胸を張れるように。
父に、母に、兄弟に――恥ずかしくない存在であるために。
「………………」
瞑っていた目を開けて、クリスは指示を飛ばす。
「これより、海賊捜索のためこの国に長期滞在する。休憩の時間は好きにしてもいいが、住民には迷惑をかけぬよう心掛けよ」
背筋を伸ばしてクリスの話を聞いていた真っ白い軍服の軍人たちは、クリスの言葉に敬礼を添えて返事をした。
「はっ!」
◇◇◇
「桜が見ごろなので、お花見をしましょう」
と、そう言ったのは白百合である。
「お花見?」
白百合の言葉に、ニコルをはじめとする蜜薔薇の海賊団の乗組員は首を傾げた。
「なんだ、それ?」
海上での生活を主とする海賊にとっては、季節は潮の流れを読むためのものだし、花はそこにあるだけのものだ。わざわざ見に行くようなものではない。
ゆえに、花見などという文化を知らないのだ。
というより、花見という文化は白百合の祖国にしかない文化である。
問われた白百合は胸を張って誇らしげに語る。
「花を愛でて宴会をするのです。愛でる花は基本的に桜が多いですね。みなさんが桜を見たら、桜の美しさに息を呑むことでしょう」
「はっ」
ニコルが白百合の言を受けて、嘲笑を返した。
「俺たちが花の美しさに息を呑む? 悪い冗談はやめろよ。俺たちは海の無法者、海賊なんだぜ?」
「そう思うのでしたらそう思っていればよいでしょう。では明日、お迎えに上がりますのできちんと準備をしてくださいね」
それだけ伝えると、白百合は蜜薔薇の海賊団の乗組員が逗留する旅籠をあとにしてしまった。いつもだったらもっと長居をして、ニコルやマリアーノ、クラレンスらと雑談に興じるというのに。
「なんか変だな……」
呟くニコルに、マリアーノが声をかけた。
「深く考えすぎだよ。白百合さんって結構偉い人みたいだし、職務とかあるんでしょ」
「まあ……そうか」
釈然としないまま、曖昧に頷くニコル。なんとなく納得がいかない。
「白百合さんがいつもより相手にしてくれなくて寂しいのはわかるから、ね?」
マリアーノの横面に入りかけたニコルの拳は、そのまま空を切った。紙一重でマリアーノがニコルの攻撃を躱したのだ。
「誰が寂しいだ、誰が!」
「ニコルに決まってんじゃん」
再び飛ぶ拳。しかしマリアーノは一歩退くだけでその攻撃を殺す。
「ムキになるなよ。もしかして本当に寂しいの? そんなんで船が完成したらどうするのさ」
「どうもしねえよ!」
「でもさ、ニコル」
姿勢を移動から制止に移して、マリアーノはニコルの瞳をじっと見つめた。
「あんまり感情移入はしないでね。曲がりなりにも、お前は俺たちのキャプテンなんだから。仲良くしすぎると、後で別れが辛くなるよ」
「……ご忠告どうも」
マリアーノの言葉に皮肉を交えた一言を返し、それ以上は追及しないままニコルは部屋を出た。
どこかへ散歩にでも出るのだろう。三ヶ月も滞在しているのだから、それなりに土地勘も覚えた。
そんなニコルを無言のまま見送りながら、マリアーノは軽く唇を噛む。
ニコルと白百合の仲が良くなるのは構わない。……というより、願ってもいないことだ。孤高の存在であるニコルに、同等の存在ができることは喜ばしい。
しかし同時に、彼が白百合と親しくなることで弱くなることは願っていない。あまりにも白百合に傾倒し、白百合が彼の弱みになってしまうことは避けたい。
いつか訪れる別離が、ニコルの弱みを招いたら? マリアーノはそんな彼の姿を望んでいない。
こちらを立てればあちらが立たず。
――困ったなあ。
「なあ、マリアーノ」
「ん?」
狭い部屋で大立ち回りを演じていたニコルとマリアーノ。ほかの乗組員は隣の部屋で見物していたがそれも終わり、おのおの自由に部屋へ入ってきたところで、オパールの瞳の少年、クラレンスがマリアーノの服の袖を引いた。
「どしたの、クラレンス」
「キャプテンと白百合が仲良くなっちゃいけないなんて、嘘だよな? マリアーノがあんなこと言うってことは、きっと理由があるんだろ? だってオレたち、みんな白百合が好きだもん。それとも、マリアーノは白百合のこと、嫌いになったのか?」
クラレンスの言葉に、マリアーノの心は抉られたように痛くなる。
そうだ。俺も、みんなも、白百合さんのことが好きだ。
本当はもっと親しくなりたいし、あんなこと言いたくない。
けれど、はぐれ者の俺たちと、一国の軍人の白百合。
身分の差――生まれの差がある。
どうしようもなく、埋まらない差がある。
その差について、幼いクラレンスに説くのは酷というものだ。
マリアーノは韜晦するように固く目を閉じて、無理矢理笑顔を作った。
「大丈夫だよ、白百合さんのこと、嫌いになったりしてないよ。ニコルと白百合さんがあまりにも仲良しだから、ちょっと嫉妬しちゃっただけ」
柔らかくクラレンスの頭を撫でると、鬱陶しげに手を払われた。
しかしマリアーノの言葉に安心したらしく、彼は安堵の表情を見せた。
「……よかった」
彼がそう呟いたとき、廊下から、がたがたと騒々しい物音が、マリアーノたちのいる部屋へと向かってきた。二人以上の足音も聞こえる。
「………………」
ふと、いやな予感を抱く。
その物音がこの部屋へ到達したとき、なにか自分たちにとって良くないことが起こるのでは――という、予感。
実際、その予感は外れなかった。
今までの航海で培われてきたこの予感は確信と同義だ。
しかしそれは即座に対面する『良くないこと』ではなく、じっとりと嫌らしい『良くないこと』だった。
襖を勢いよく開けて現れたのは、散歩に出かけたと思われていたニコルだった。
表情は張りつめていて、緊張によって汗をかいている。
ニコルの背には、隠れるように白百合の姿があった。
白百合は小柄なので、ニコルの背に隠れてしまうとまるで少女である。温和な雰囲気がさらにそのイメージを助長させるのだ。
「ニコル――と、白百合さん? どうしたの?」
あくまで平静を装って、問いかける。
いつもの軽薄な調子も忘れない。
「マリアーノ、いい知らせと悪い知らせがある」
「いやな言葉だね。だいたい良くない知らせでしょ」
「いいから聞け」
ニコルは一度深く溜息をついて、言った。
「世界海軍の奴らが入国してきた」
「ふうん……それが悪い知らせ?」
「いや、いい知らせだ」
「はあ?」
マリアーノは思わず眉を寄せる。
それのどこがいい知らせだと言うのだ?
「もっとわかりやすく言ってよ」
「入国したってだけで、まだ俺たちの存在に気付いてねえってことだよ。俺たちが消息を絶ったこの近海を捜索してるんだろ。……で、悪い知らせってのが、その海軍率いてるのが、こともあろうにクリス・ミューアヘッド大佐殿らしい」
「あのさあニコル」
自分でもわかるほど、マリアーノは苦い顔をした。
「それは悪い知らせじゃなくって、最悪の知らせって言うんだよ」
よりにもよって、クリス・ミューアヘッド。
蜜薔薇の海賊団と幾度となく渡り合った存在だ。
彼の偵察能力と戦略手段は、長い間蜜薔薇の海賊団を苦しめている。彼さえいなければ、もっと自由に航海ができるのに、と嘯く海賊もいるほどだ。
どこにいても嗅ぎつけてくる。そのせいで、蜜薔薇の海賊団は一ヶ所に長期間留まったことがない。
いつもならばそれでも逃げ切ったが、今回はそうはいかない。
逃げるための船がないのだ。
今まで海軍とは勝ちもなく負けもなく、どっちつかずでいられたが――。
終わるのか? こんなところで?
「終わらせません」
凛然と響いたその声は、ニコルの背後から聞こえてきた。
ニコルの背後で隠れるように立っている、白百合の口から。
そして白百合はニコルを「ちょっとどいてください」と押し退け、前へ一歩踏み出す。
オブシディアンの彼の全貌が、露わになる。
さらさらと流れる黒髪に、濃紺の軍服。左肩に白いマントをかけ流している。
「終わらせないって……今になってなにを言い出すのさ、白百合さん。あなたはどちらかと言えば政府側の人間……海軍側の人間だろ?」
「その通りです。わたしは政府側の人間――海軍側の人間です。悪い人間を野放しにはできません」
「……ほら」
マリアーノは歯噛みする。
やはり自分たちと白百合は違うのだ。
一介の海賊と一国の軍人が、手を取り合って仲良しこよしなど……できるわけがなかった。
しかし白百合の次の言葉は、先の発言をあっさりと否定した。
「そしてわたしはあなた方の友人です。あなた方はこの国で悪事などしていない……そんな方々を、何故海軍などに引き渡さなければならないのです?」
そう言うと、言葉の意味を測りかねて面食らうマリアーノをよそに、白百合は軍服を脱ぎ始めた。
肩章を外し、マントを脱ぎ、軍服を脱ぐ。
するするとあまりにも自然に脱ぐため、その行為は誰にも止められない。
旅籠の従業員から、深緑の着物を受け取って着替える。
襦袢を着、袖に腕を通し、帯を締めたところで白百合は諸手を広げた。
「……さて、これでわたしは軍人の白百合ではなく、一般人の白百合となりました――あなた方のただの友人の、白百合となりました。国の意向は、もうわたしには通用しません」
そしてまっすぐにマリアーノを見据え、朗らかに微笑した。
「今、海軍を率いているお方は我が主の屋敷で主と会談していることでしょう。その隙に、皆さんにはここを離れていただきます」
「……離れて、どこに行くの?」
すでにマリアーノは平静を取り戻していた。
白百合が着替えているうちに混乱も落ち着き、彼の覚悟も伝わった。
彼の隣でなにも言わず様子を伺っているニコルを見て、白百合の言葉を信用に足るものだと確信した。
すでにふたりの間では今後の予定が決まっていることだろう。
どちらの提案か知らないが、きっと、上手くいくはずだ。
マリアーノの挑発的な言葉に乗るようにして、白百合も挑発的な笑みを象った。
「わたしの家へ」
◇◇◇
海賊と軍人が友人になるという異常な状態から、海軍が介入することで、海賊は軍人を受け入れ、軍人は身分を取り払って、彼らは本当の意味で友人になった。
しかしどんな友人関係にも言えることだが、彼らはまだ互いに隠している事実がある。
海賊は隠しごとをしていて――軍人もまた、重大な隠しごとをしていた。
◇◇◇
俺の実家は国でも上流階級の家だ。
父親は世界海軍のお偉いさんで、いつか自分も父親と同じように海軍に入るものだと思っていた。
朝起きて、昼間は勉強をして、夜は眠る。
温かい飯とふかふかのベッド。不自由のない暮らしに、なんの疑いもなく浸かっていた。
母親は優しい、父親は厳格だが子供想い、二歳年下の弟は可愛い。
家に仕える執事や召し使いたちも、大切な家族と同様だった。
このままずっと、こうした幸せが続くのだと思っていた。
しかしことの契機は十五歳のとき。
屋敷内で父親の客人が殺された。
殺された上に、家宝である数多の宝石でできたネックレスが盗まれた。
――誰がこんなことを。
父親の怒りの声が今でも耳に残っている。
俺は弟を連れて自室にこもり、夜が明けるのを待った。
夜が明ければ悪夢は終わる。
きっと、いつもの日常に戻っているはずだと、そう信じていた。
だが、夜が明けても悪夢は終わっておらず、さらに残酷な悪夢が待っていた。
起床早々に俺が受けたのは、父親の拳だった。
客人殺しと宝を盗んだ犯人が、俺だという。
なんで。俺はやってない。
――嘘をつけ。お前のハンカチが客人の遺体の近くに落ちていた。
――お前の部屋から家宝のネックレスが見つかった。
弁明する俺の声は届かず、父親は少しの食糧といくらかの金子を俺に投げてよこして、怒り心頭に叫んだ。
――出ていけ、我が家の面汚しめ。
――罪に問われないだけ幸運だと思って、どこぞへと行ってしまえ。
いやだ。違う。俺じゃない。
狼狽する俺に、父親は再び拳を入れた。
床に這いつくばって嘔吐する俺を見下げ果て、父親はもう俺に目を向けることはなくなった。
俺は持ちうる限りの憎しみを持って、家を出た。
次の年には海軍学校へ入学する予定だったのに。
もう少し家に留まっていれば、本当の犯人が見つかったかもしれないのに。
それでも俺は家を出た。
もうあの家には戻らない。
もうあの家族には戻れない。
いつか訪れる日、父と犯人、ふたりに復讐を果たすために。
悪夢はまだ終わっていない。