闇に潜むモノ
…ヒタリ…ヒタリ…
不気味な静寂に包まれた体育館の中に、自分の足音だけが妙に響く。何にかはわからないが、何かに気付かれないようにできるだけ足音がしないよう気をつけながら、慎重に歩を進める。
大丈夫。
例え、不気味に思えても、気味が悪くても、何も起きる訳がないし、何か起きるかもしれないと思う事自体がナンセンスなのだ。
有史以来、人間は色々な謎を解明してきた。そして、海底や果ては宇宙まで、行動範囲を広げてきた。そんな人間が、未だに、存在を証明できていないのが、霊や物の怪の類だ。
多くの目撃例や体験談があるにも関わらずだ。
それは、つまり、霊や物の怪など存在しないということではないだろうか?
目撃例や体験談は、すべて脳の創り出した幻想や狂言に違いない。
で、あるのならば、存在しないものを恐れるなど、愚の骨頂だ。
私の歩みが力強さを取り戻す。
…でも、本当に…?
今でも、新種の生物は、頻繁に発見されている。霊や物の怪の類も、未だ、明確な根拠が見つからないだけで、実際はひっそりと存在している可能性だって、完全に否定できるものではないかもしれない。
途端に、歩が慎重に戻りはじめる。
いや、そもそも近年発見される新種の生物は、昆虫がほとんどだし、生活圏内真っ只中で発見される事はない。霊や物の怪は、基本、生活圏内真っ只中で起こる現象だし、それが未だに発見できていないのならば、やはり存在しないという説が濃厚だ。
…それに…もし、霊が存在するのなら、何故、彼女は、自分の前に現れてくれないのか?
不意に、去年の暮れに亡くなった彼女の事を思い出し、頭に痛みを感じる。
そんな事を考えている内に舞台に辿り着いた。
やはり、何も起きなかった。
いや、起きる訳がないのだ。
私は、スマホのLEDを点灯させ、舞台の吊り看板の真下、中心あたりの幕の下を照らす。
…あった。
正直、ここになかったら、もう心当たりがなかったのだ。密かに安堵の吐息を吐く。
私は、しゃがみ込み鍵を拾った。
その時、背後から音が聞こえてきた。
…テンッ……テンッ…
しゃがみ込んだままの体制で、息を呑みながら、振り向く。
パイプ椅子の隙間で、白いボールが跳ねているのが見えた。
反射的に、天井を見上げる。
薄暗くて、よくわからないが、昼間見た骨組みに挟まったボールがなくなっているように見える。
鍵をポケットに入れながら、立ち上がる。単に空気が抜けて、骨組みから外れたのだろう。
どうやら、突然、ボールが現れた訳ではなさそうで安心する。
少し面倒だが、目撃した以上、片付けないといけないだろう。
舞台から飛び降り、ボールに向かって歩を進める。
転がっているボールに手を掛けて、違和感に気付く。
ボールには、しっかりと空気が入っていたのだ。
空気が抜けたボールが、骨組みから落ちてくる事は、多々ある。だが、空気の入っているボールが、骨組みから外れるためには、地震や他のボールが当たった時などの振動があった時のみだ。
思えば、ボールがしっかりと跳ねていた時点で、空気が入っている事は、明確だった。
嫌な予感を感じて、後ろに飛び退く。
パンッ!
何かが目の前に落ちてきた。風が前髪を掠める。そして、柏手のような音が響く。
目の前には、二本の細い木があった。
木の先端に目をやって、それが木ではなく、二本の長い腕だと気付く。
木だと思われたものの先端に掌のようなものが付いていたのだ。その掌が柏手を打った音が響いたのだ。
思わず、天井を見上げる。
薄暗い天井に、濃い影があり、腕は、そこから生えていた。さらにその付近には、二つの黄緑色に光る小さな丸があった。どこかで見た事があるような気がする。
それが、暗闇で見る夜行性の動物の目に似ている事に気が付くと、ほぼ同時に、長い腕が襲い掛かってきた。
ガシャガシャン。
私は、パイプ椅子を倒しながら、その腕から身を躱す。
椅子が、派手に脚に当たるが、何故か痛みは感じない。
必死に避けるが、腕は、私を狙って、追ってくる。
長く、しなる腕が、執拗に、追ってくる。
私は、ボールを抱え、倒した椅子を踏み付けながら、振り子のように追ってくる腕を躱す。時折、風切り音が耳を掠める。
ガシャガシャガシャガシャン!
一際、派手な音が鳴り響く。
倒れた椅子に、足を取られ、ボールを抱えたまま、受け身も取れずに転倒する。やはり、痛みは感じない。
…やばい!
「先生、ボール!ボールを離して!」
体育館の入口の方から、子供の声がして、急に体育館の照明が点く。
私は、その声に従い、慌ててボールを手放す。
照明に照らされた枯れ木のような色をした腕は、そのままボールの方へ向かい、二つの掌でボールを挟むと、ものすごい速さで、上へと縮んでいった。
天井を見上げると、照明の上で、真っ黒な影がボールを持ったまま、カサカサと去って行くのが見えた。
…助かった…のか?
思わず安堵の息が、漏れ出る。
体育館の入口を見ると、昼間見た篠宮少年が、バツの悪そうな顔をして、立っていた。
「…君、さっきの…」
まだ震える声で、先程の腕について聞こうとすると、篠宮少年は、走って去っていった。
立ち入り禁止と言われた体育館に来たので、怒られると思ったのだろうか?
こっちは、彼のおかげで助かったのだから、怒るつもりは、まったくなかったのだが…。
私は、ズボンをはたきながら、立ち上がり、ふと照明に照らされた体育館を見渡す。
パイプ椅子が散乱した体育館を…。
さっきの奴がまだいるかもしれない状況で、これを元の状態に戻さなければならないのか…。
私は、深い溜息を吐きながら、立ち尽くした。
怪1完