誰そ彼
「この学校にも七不思議があるんですね?」
入学式の準備が終わった後、職員室で沢田先生に話し掛ける。
「まぁ、どこの学校にもありますよね?そういう類の話。
…急にどうしたんです?」
「いやぁ、さっき谷口先生が七不思議があるみたいな事を言ってましてねぇ。
どんな話なのかと思いまして…。
ちなみに私が前にいた学校では、トイレの花子さんとか、笑うベートーベン、廊下を走る解剖人形とかの話がありましたよ」
「…ありがちな話ですねぇ。
…でも、この学校の七不思議は、
…ちょっと違うんですよねぇ」
沢田先生は、大きな目を見開きながら楽しそうに笑った。
「へぇ、どう違うんですか?」
「なんと、ここの七不思議は…」
「こらこら、無駄話してないで、新学期の計画書は書いたんですか?」
ちょうどいいところで、体育館の鍵を締め終わった黒田先生が戻ってきた。
明日が入学式という事は、すぐ新学期が始まるということで、カリキュラムに合わせた教育計画の締切が近い事を意味していた。
配属したばかりの自分は当然だとしても、沢田先生も苦戦中のようで、2人で黒田先生の指導を受けながら今日中に叩き台を作る予定だったのだ。
ここの七不思議が他とどう違うのかは、わからなかったが、仕事は仕事だ。
気持ちを切り替えて、黒田先生に相談しながら、計画書を作成していく。どうにか形になったのは、17:30を回った後だった。
「まぁ、これくらいでいいでしょう。後は、月曜に教頭先生に見てもらって、微修正が入るくらいでしょう」
黒田先生の太鼓判をもらって、帰る事になった。
外に出ると、空は、夕焼けに照らされて、薄っすらと暗くなりかけていた。冬の同じ時間帯に比べると、だいぶ明るくなったものだ。沢田先生と黒田先生とたわいもない話をしながら、駐車場に向かい、車に乗り込もうとしたところで異変に気付く。
鍵が反応しないのだ。
慌てて、ポケットを探るが、いつも入れている鍵がない。
一体、どこで…。
そこまで考えて、入学式の準備の時を思い出す。
あの時か…。
落ちてくる吊り看板から、沢田先生を助けた時の事を思い出す。落とすとしたら、その時以外に考えられなかった。
同じように車に乗り込もうとしていた沢田先生が、話し掛けてくる。
「どうかしたんですか?」
「いや、…どうも鍵を落としてしまったようです」
「! 大変じゃないですか?一緒に探しましょうか?」
「いえ、心当たりはあるので、すぐ探してきます。先生は、先に帰ってください」
体育館で落としたと言うと、沢田先生が気にするかもしれないので、適当に濁しながら、体育館の鍵が置いてある職員室へと走った。
職員室で体育館の鍵を拝借し、体育館へ続く渡り廊下へと向かった。
「溝口先生」
渡り廊下を歩いていると、外から声が掛けられる。声のした方を見てみると、男性が歩いて来るのが見えた。誰かが歩いてくるのはわかったが、ほんのり赤く染まり、薄暗くなった世界では、顔がはっきりと見えなかった。
思わず、目を細めて凝視してしまう。
「誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
そう言って、近付いてくる。
手の届く距離まで来たところで、ようやく、その男性が校長だという事がわかり、密かにホッとする。
「校長先生、お疲れ様です。万葉集ですか?」
校長の読んだ歌に反応する。確か、万葉集に出てくる歌だったはずだ。
「ええ、ご存知でしたか?」
「はい。たまたま知っている歌でしたから。
黄昏時の歌ですよね?」
「ええ、昔は外灯などなかったので、このくらいの時間になると、先程の溝口先生のように、人の顔の識別が難しかったそうです。それで、『誰そ彼』。
すなわち、あなたは誰ですか?と訊ねる頃合いだという事で、『誰そ彼』から『たそがれ時』と呼ぶようになったと言われてます」
そう言って、校長は微笑む。
「ちなみに昔は、そんな時間を狙って、他所者や魑魅魍魎が、紛れ込むと考えられていました。
だから、それらの侵入を防ぐために『お晩でございます。いまお帰りですか?』と、相手が誰であるか確認する風習があったそうですよ」
「…魑魅魍魎…ですか?」
「そう。黄昏時は、魑魅魍魎が動き始める時間と考えられていましたから…。
魔に逢う時と書いて、逢魔時、大きな禍を蒙る時と書いて、大禍時。
すべて、この時間帯の事です。
昔から、この時間帯は、不吉な時間とされていたようですね。
さて、…そんな不吉な時間帯に、体育館に用ですか?」
「実は、入学式の準備の時に、車の鍵を落としてしまったようで…。今から、探しに行くところなんです」
私は、頭を掻きながら答える。
「そうでしたか。それは災難でしたね」
「校長先生は、外で何を?」
「私は、そろそろ門を閉めたいので、残っている子供達に帰るように促すところですよ」
なるほど、校庭に目をやると、まだ数人の子供達が走り回っているようだった。
「じゃ、私は子供達に声を掛けてきます。体育館の施錠は、忘れないようにしてくださいね」
校長は、そう言って踵を返し、子供達の方へ歩き出す。
「あ、そうそう。溝口先生、…くれぐれも…気をつけて」
校長は、振り返る事なく、そう付け足して、去って行った。とても意味深に聞こえたが、引き止めて聞く事は出来なかった。
私は、気を取り直して、体育館に向かった。
靴を脱ぎ、扉の南京錠を開ける。
運動する訳ではないし、鍵がすぐ見つかると思っていたので、体育館シューズは持ってこなかった。
体育館の扉を、ガラガラと音を立てて開ける。
中は、すっかり暗くなっていたが、真っ暗闇という訳ではなかった。
電気をつけると、また昼間の篠宮少年のように子供が寄ってくるかもしれない。外からの夕陽と携帯の明かりがあれば、鍵を探すだけなら、問題ないと判断し、扉を開けっ放しにし、電気は点けない事にした。
シンとした静寂の中に、昼間並べた椅子が並んでいた。私は、椅子の合間を縫って、舞台へと向かった。
ワックスが掛けられている床を、靴下で歩く感触がやけに気持ち悪いものに感じた。
(くれぐれも…気をつけて)
不意に校長の言葉が脳裏に浮かぶ。
途端に、暗い体育館が不気味なものに見えてくる。
(…先生、多分、好かれやすいと思うから…)
校長の言葉に続いて、昼間の篠宮少年の言葉まで浮かんでくる。
そもそも、そういうのを信じる性質ではないのだが…、校長と言い、篠宮少年と言い、一日に二度も意味深な感じで言われると、つい気になってしまう。
先程とは、まるで印象の変わってしまった体育館の舞台が、…やけに遠く感じた。