4月、新しい生活
4月。
年々、開花の遅れる桜が、今にも咲き出しそうな蕾を作る頃、私は福徳小学校へと異動となった。じきに満開となるであろう桜の側を走らせて、教職員用の駐車場へと車を止める。すでに数台の車が止まっていることから、一番乗りでない事が伺え、安堵の溜息が出る。
鞄を肩に引っ掛け、赴任案内を取り出す。
8:00に校長室と書いてあるのを確認し、腕時計を確認する。時間は7:30を回ったところだった。
少し早いだろうか?
いや、初日だし、早いくらいが丁度いいだろう。
気を取直して、赴任案内を鞄にしまい、まずは職員用の玄関へと向かった。
辿り着いた玄関の両隣にはプランターが置かれており、色鮮やかな花が咲いていたが、何の花なのかは、さっぱりわからなかった。
改めて、建物を見てみる。
若干、年季を感じさせるものの、老朽化が心配という程の古臭さは感じない。ごくごく平凡な小学校に見えた。
この学校で、新しい生活が始まるのだ。
私は密かに気合を入れて、建物の中へと一歩を踏み出した。
建物に入り、鞄とともに持っていた袋から、室内履きにしている黒のスニーカーを取り出し、履き替える。
ついでに、鞄から赴任案内を再び取り出し、校長室の場所を確認する。
さて、時間まで20分以上ある。
この時間に校長室に入るのは、校長にも迷惑かもしれない。5分前に部屋をノックするのが理想だろう。
私は、とりあえず、校長室の確認を行う事にして、職員用の玄関から、校長室に向かった。
玄関から校舎に入ると、すぐ職員室があった。
一度、顔を出すのもアリかもしれないが、ここは敢えてスルーする事にした。
どうせ、校長室で話をした後に行く事になるのだ。別に知り合いがいるわけでもないので、スルーしても構わないだろう。職員室の出入口は2カ所あり、どちらも引戸になっていた。引戸にはめ込まれた窓から、明かりが見える。腕時計を見ると7:40を回ったところだった。
基本的には生徒達は、8:45までに席に着く事になっているが、職員達の就業は8:00からだった。そこから、職員達による朝の打合せが行われ、連絡事項やその日の予定の確認を行うのだ。
もっとも、今は春休みの真っ只中なので、生徒達は学校には来ないし、打合せも始業式後の予定の確認や準備の進捗を報告しあう程度のものになるのだろう。
少なくとも、前の学校ではそんな感じだった。
こっそりと窓から中を覗くと、席がまばらに埋まっているようだった。そろそろ、他の職員もやってくる時間だろう。
職員室の二つ目の出入口を越えると、すぐ校長室があった。
ここで、しばらく待っているのもいいのかもしれないが、この先、続々と出勤してくる他の職員に会釈しながら待ち続けるのも面倒だ。
腕時計を確認する。
あと、10分程校舎を徘徊すれば、丁度いい時間になる。
私は、校長室の横にある階段を登り、2階へ逃げる事にした。案内に載っていた見取図によれば、校長室、職員室の上は家庭科室と理科室があるはずだった。
私は、階段を登り始めたところで、ふと足を止めた。
子供の笑い声が聞こえた気がしたのだ。
春休みのこんな時間に生徒がいる訳がない。気のせいだろうか?
声は上の階から聞こえた気がした。
訝しみながら、階段を登る。
2階に着いたところで、廊下を見渡してみたが、子供などどこにも見当たらなかった。当然だ。妙に納得しながら、念のため、家庭科室、理科室の前を通って、反対側の階段に向かい、3階も確認してみる事にした。
3階は、図工室と音楽室があったが、予想通りというか、なんというか、やはり子供の姿はどこにも見当たらなかった。
まさか…学校の怪談的なもの…?
いや、そんな事ある訳がない。幽霊なんて、存在する訳がないのだ。
…もし、幽霊が存在するのならば…、何故、彼女は…。
頭に痛みが走る。頭を振って、無理矢理、思考を切り換える。
きっと、気のせいだったのだろう。
私は、自分に言い聞かせるように結論付けて、時間を確認し、1階の校長室へと向かった。
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校長室の中は、入ってすぐに、テーブルを挟んで1人掛けのソファが2脚ずつ、計4脚並んだ応接スペースがあり、その奥には校長の席と思われる立派な机が置かれていた。
窓を背に、その席に着いていた男性が、この学校の校長なのだろう。少し白髪の混じった、中肉中背で人の良さそうな人物だった。
その席の横で、少し恰幅の良い厳つい顔をした中年が、まるで私を睨むように、こちらを見ていた。
どうやら、今年新たにこの学校に配属となる教師は、私1人のようだった。
「溝口先生ですね?さぁ、どうぞ、こちらに」
校長が立ち上がり、入口付近の応接スペースのソファを手で示しながら、近付いてきた。その後ろを厳つい中年が歩いてくる。
「溝口 雄大です。今日から、お世話になります」
とりあえず、近付いてくる2人に礼をする。
「まぁ、座ってください。私は、この学校の校長を務めます、山と言います。
溝口先生には、5年生の担任をやってもらおうと思ってまして、こちら、5年生の学年主任をお願いする黒田先生になります」
「黒田です。よろしくお願いします」
厳つい中年、改め、黒田先生がピシッとした礼をする。
「まぁ、立ち話もなんですから、どうぞ座ってください」
「失礼します」
促されるまま、ソファに腰を掛ける。
それを見て、山校長と黒田先生もソファに腰を下ろす。ちょうど、テーブルを挟んで対面で2対1になる構図だった。
「まぁ、細かい事は、この後、黒田先生から説明してもらいますが、まずは何か聞きたい事とかありますかな?」
山校長が、にこやかに話し掛けてくる。
「いえ、特には…。まだ、わからない事だらけで…、何がわからないかもわからない状態でして…」
私は、素直にそう答える。
そんな私を見て、微笑んでいた校長が、しばらくの沈黙の後、口を開いた。
「溝口先生は、昨年、色々あったと伺っています。まぁ、色々と考え込んでしまう事もあるとは思いますが、ここはちょいと田舎ですが、とても良い環境です。
自分や周りの事を見つめ直すには、ちょうど良い機会だと思って、気楽にお願いします。
困った事や悩み事があれば、我々を家族だと思って、なんでも相談してみて下さい。
解決はしないかもしれませんが、鬱屈した気持ちを吐き出すだけでも、随分と前向きになれるものです」
校長が、優しく話しかけてくる。
頭に痛みが走った気がした。
「ありがとうございます」
それ以上、何も言えずにテーブルを見つめ続ける事しかできなかった。