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銀狼王に捧ぐ炎  作者: 伊藤影踏
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第一話 高原にさす光

闇を裂く閃光。薄絹を張った窓はがたがたと風雨に震え、雷鳴がルイグンの胸をやけに騒がせる。戦場の喧騒が蝿のように耳にまといつく。帝国の兵士たちは皇帝の行宮に近づくにつれて抵抗を激しくしてはいたものの、狼の戦士たちの敵ではない。しかし、何か嫌な予感がする。ルイグンは焦っていた。一刻も早く皇帝の首級を挙げたい。そして、この湿って重苦しい空気から逃れたい……。

ルイグン自ら双牙の短刀を振るって敵を跳ね除け、行宮の扉を打ち破る。闇に光る双眸でとらえた光景に言葉を失った。

行宮の中で震えていたのは、皇帝ではなかった。やせ細り、まとったぼろの隙間から薄汚れた毛皮を覗かせ、怯えて皆で抱き合いながら一様に弱々しい目の光を返す、彼らは狼の同胞だった。

引き連れた戦士たちもその光景を目にして動揺をあらわにしていた。なぜ。卑劣な。皇帝はどこに。ざわめきの中立ち尽くしていたルイグンがはっと鼻先をあげたのと、遠く号令が聞こえたのは同時だった。無数の弦鳴り。真新しい行宮に容赦なく火矢が浴びせられる。火薬の臭い。とにかく彼らを助けて脱出しなくては、と駆け寄って抱き起こそうとすると、骨と皮ばかりで軽いはずの体は頑として動こうとしなかった。

「どうした、逃げないと!」

覗き込んだ顔の、深い絶望にぎゅっと肝を絞られる心地がした。その顔は牙を見せてうっすらと笑っていたのだ。

「……いいんです、王様、……死なせてください……」


「……ッ!」

夜具を跳ね除けて飛び起きる。窓の外では雨が降り続いているが、もはや戦場のざわめきはない。石造りの王宮、いつものルイグンの寝室だ。荒い息をつくと舌から喉にかけてひりつくように渇くばかりで、少しも体にこもった熱が散らない。ルイグンは低く呻いて寝台を降り、水差しから盆に水を移して鼻先を突っ込むようにして飲んだ。

彼らを助け出すことは結局できなかった。あっという間に火が回り、兵をまとめて退却するところを横から突かれ、散々な敗走となった。四つ足をついて山道を駆け、騎馬兵を撒くためには、怪我をした戦士を置いていかねばならなかった。国境を越えてもしつこく追ってきては略奪を繰り返す帝国兵をどうすることもできず、このまま我が国も滅ぶのか、と思いかけたところ、帝国の都で政変が起こったことを知らされた。それでどうにか追撃を指揮していた将軍も兵を収めて都に帰り、狼の王宮には恭しく国書を捧げた使者がやってきて和平を結ぶこととなったのである。

(情けない限りだ)

寝台に腰を降ろし、ルイグンはうつむく。どんなに爪や牙が鋭くても、風雪に耐える毛皮を持っていても、鼻や夜目がきいても、四つ足をついて走るのが早くても……それだけでは人間に勝つことはできない。政変のおかげで助かりはしたが、あのまま滅ぼされていてもおかしくなかったのだ。

和平はひとまず表向きは対等な形で結ばれ、義兄弟の契りを交わすためにルイグンは帝国の公主を娶ることとなった。使者のもたらした情報によれば、明日その公主が到着するという。ルイグンは重いため息をつく。いったいどのような女が来るというのだろう。ただ、災いを引き連れてこないことを祈るばかりだ。


雨に洗われた夏空は高く澄んでいた。ルイグンは夜明けとともに目覚め、朝食が済むやいなや大挙してやってきた女官たち総出で毛並みを整えられ、一張羅を着せつけられ、冠を載せられた。いつもは大事にしまってある刺繍の長靴に足を押しこむと、堂々たる王者の姿だと女官に褒めそやされる。長靴は窮屈で綾衣は重く、冠の重みで頭がぐらぐらしそうだ。帝国下りの絹を狼の体に合うよう西域風に仕立てた晴れ着は公主の目にどう映るのだろう。着ているルイグン自身がぎこちない思いでいるというのに。

あくびを嚙み殺しながら回廊を歩いていくと、曲がり角の向こうで話し声がする。彼らもルイグンの足音に気づいたらしく、話を打ち切って角から顔を出した。

「やあ、兄上。おはようございます」

「おはようございます、ルイグン様」

その姿を見て、ルイグンはむっと顔をしかめる。

「マルクン、それに叔父上まで……まだそんな格好で。今日は公主を迎える日だぞ」

「そうでしたっけ?」

袖なしの軽装に簡素な下穿きを身につけただけで、赤みがかった毛皮の手足や白い胸の毛をあらわにしたままのマルクンがとぼけてみせる。叔父のジグハも似たような姿で、こちらはやや気まずげに苦笑してすらりと伸びた鼻面を掻いた。

「今だけ勘弁してもらえないか。まだ慣れてないんだ、朝から着込んでたら肝心の公主様の前で倒れてしまうかもしれないからね」

「まったく……」

昼までにちゃんと着替えるようにと厳しく言いつけ、その場を去る。ルイグンだって軽装で執務が許されるものならそうしたかった。

執務室に落ち着き、代わる代わる現れる臣下から話を聞いては指示を与えているとあっという間に昼を過ぎた。さすがに肩が重い。首の後ろをもぞもぞと掻いているとようやく礼服に着替えたジグハが現れる。

「ルイグン様、そろそろ準備を」

「ああ。……叔父上、礼服なのだからちゃんと襟を整えてくれ」

「いや、どうも首の周りが苦しくてね……わかったよ、ちゃんとするさ」

油断も隙もない。礼服を着込むことを嫌がる王族は少なくないが、ルイグンがきちんと威儀を正せば表立って逆らう者はそうそういない。しかしジグハとマルクンだけはどうにも扱いかねた。ふたりとも優柔にルイグンの命をかわそうとする。ルイグンとは性格が正反対なだけにどうしていいのかわからなかった。

王城の外に出ると群臣が立ち並んでおり、礼服姿のマルクンも澄ました顔で門の前に用意された席についていた。その隣の席に腰掛ける。

「兄上、花嫁はどんな女でしょうね」

そわそわした態度を隠さないマルクンに、ルイグンはむっつりと押し黙る。マルクンは尻尾を揺らしながら小さく笑った。

「人間の美醜はよくわかりませんが、兄上の威儀を損なうようなことは勘弁願いたいですね」

「……別に、花嫁がどうであれ俺は俺だ」

自分に言い聞かせるようにそう呟く。ルイグンが揺らいではならないのだ。この結婚は新たな戦いとなるかもしれないのだから。

風に乗ったかすかな音を拾い、ルイグンは大きな三角の耳をひくりと動かす。同時にマルクンも耳をそちらに向けた。

「……公主、来駕——!」

先触れの声を合図に楽隊がざわめき、太鼓を打ち始める。さざなみの音色がしだいにひとつの拍子を刻み、うねるような響きとなって花駕籠を迎えた。ルイグンは立ち上がる。

赤い帳を下ろした花駕籠にはほんの数人の侍従が付き従うのみで、花駕籠そのものの細やかな装飾とはどこか不釣り合いだ。ルイグンは違和感を覚えたものの、きしんで止まった花駕籠の前に慌ただしく乗降台が用意され、帳が開かれるのを見て慌てて進み出、ひざまずく。台にそっと体重をかけた、おもちゃのように華奢で小さな靴。精巧な刺繍が軽やかな裳裾から見え隠れする。ルイグンは何故だかうろたえて、そらした視線の先、影がわずかにかしいでよろめく。とっさに手を出して支えた。袖から覗く灰色のこわい毛皮に、また鋭い爪に、小さなひとは息を呑んだようだった。

「……ありがとうございます」

やさしい、愛らしい、金の鈴を振るような……。その声が、この狼の国にもたらされた光の、はじめの一筋だった。

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