満月に涙を託して、愛に泣いた
男が私の眼の前で泣いている――と言っても私の視界には男の背中しか見えない。小さな公園の、小さなジャングルジムの一番上に器用に腰掛け、男は空を見上げて泣いていた。
背中しか見えない私がどうして男が泣いていると分かるのか。それは男が泣いている姿を見るのが初めてじゃないからだ。
最初に発見したのはざあざあと雨が降る夜。私は運悪く切らしてしまったシャーペンの芯を買いに、近くのコンビニへと傘を差して向かっていた。
その日の道中とても不機嫌だった。必要な物しか買う予定がなかったのに、コンビニへ行くならと姉や母に私にとってはいらん買い物を押しつけられたら気分が急降下してもおかしくないだろう。その上歩くのが非常に面倒くさいと思わせる雨である。普段からそんなにテンションは高くない私のご機嫌メーターが一気にマイナスへとズドンと落ちても誰も文句は言わない(てか言わせない)
ぶつぶつ恨み言を呟きながら歩く私はまさに触れたら火傷するぜ状態。運悪くすれ違った人はもれなく私の顔を見て速攻に顔を逸らしてそそくさとその場を立ち去っていく。
更に気分は急降下――と同時に若干冷静さを取り戻した事もあり、コンビニへと到着した時には多少の燻りを残しつつもいつも通りの私がそこにいた。
店内に入れば頼まれた買い物と目当てのシャーペンの芯を手に取り、お菓子コーナーを覗いてから空いているレジへと持って行く。と言っても追加するお菓子はない。手持ちが寂しいので追加したくても出来ないのが現実だ(頼まれた買い物さえなければ追加できたのに、と恨んだ瞬間でもある)
会計を済ませてコンビニを後にすると同時に、耳に届くやる気のないありがとうございましたをスルーして、来た道を戻っていく。
ぴしゃんと撥ねる水溜りを回避するには街灯が少なく、眼を凝らしながら歩くしかないのが難点だ。それでも結構な確率で水溜りに足を踏み入れる事はなかったのだから流石私と褒め称えたいところである。
ふふんと鼻歌交じりに進む。ぱたぱたと傘にぶつかる雨音が耳に心地よく感じ始めた頃、私は足を止めた。
視線の先には水溜り。大きくなく、小さくなく、大人の男の掌を思いきり広げたくらいの水溜りがぽつんと待ち構えていた。さぁ、通れるかい?とにやにや笑って私に挑戦してくるのだから、これは逃げたら女が廃るというもので。結果――私は飛んだ。軽やかにジャンプした両足は踵だけ水溜りにはまり、ビシャン、と音を立てて弾けた。
ぱたぱたと鳴り響く雨を弾く傘の音だけが虚しく響く。足元を見るのが恐い。いや、寧ろ見たくない。しかし濡れた感触だけが鮮明にアウト!!と叫んでいる気がするのは気のせいか否か――いや、気のせいだ。問題ない――脳内の返答に頷き私は全てを無視して先を歩こうとした。だが、足は動けなかった。
誰かに見られていなかっただろうか、と無意識に動いた羞恥の視線が古びた公園を捉えたのだ。公園の敷地は狭い。ブランコと砂場とジャングルジムと、ペンキの剥がれきった古いベンチが二つ。それだけがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。公園を囲むように四方の隅に建てられている街灯はチカチカと点滅を繰り返しては光輝く誘蛾灯のようだ。
ここまではよかった。ここまでは普通だった。人気のない寂れた公園。それで終わる――筈だったのだ。
問題視されるのはジャングルジムの天辺に腰掛けた黒い物体。眼を凝らし、睨むように見据えたそれは朧気に力添えしてくれた街灯によって正体が暴かれる。人影だ。しかも見間違えでなければ大人の人影――男の体格に近いものだ。
雨雲によって闇色が深く、街灯がなければ幽霊かそれとも、なんて普段なら考えないような思考回路が出番かと顔を輝かせる所だったが、そうならなかったことに安堵した。だが次に疑問が浮かぶ。こんな時間帯に雨が降る中、傘も差さずにこの人影は何をしているのだろう、と。
普段の私なら触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに接触するどころか視線を逸らしてみなかったフリをするだろう。でもその日の私は違った。人影が妙に気になって仕方なかったのだ。闇に慣れた両眼が捉えたまま引き剥がせないその姿に直感的に感じた何かがあったのだと思う。言葉に出来ない何かは私の足をその近くへと動かした。
ふらふらと揺れるように動いた身体に合わせて傘がくるりと一回転。パシャン、と水溜りに足を突っ込もうともう気にも留めなかった。目指すはジャングルジムの天辺に座り込んでいる人影のみ。それ以外には用はない。
あぁ、まるで誘蛾灯のようだ。ふと、そんな事を思う。もしも人影がそうだとするならば、私は我が身を焦がすと知りながらも抗えぬ誘惑に囚われた蛾なのだろうか。似合わない例えに酸っぱい梅干しを丸々一粒丸呑みしたような顔をしてしまったが、誰も見ていないので良しとする。
そんなこんなで縮めた距離は人影を人へと変化させた。それは男だった。後ろ姿しか見えない位置で見上げているから男が何をしようとしているのかはよく解らない。ただ、空を見上げて雨に打たれているという事実だけはよく解る。
見える背中は張りついた服が体の線の細さを強調している。どれだけの間そこで座っていたのかを主張しているそれに気付かない程私は馬鹿ではない。触れたら絶対に冷たさしか伝えて来ないだろうその背中を見ているのが辛くて、じりりと焼け焦げるような焦燥に口が勝手に動いていく。
「ねぇ、傘差さないと風邪ひくよ」
大きな音で存在を主張し、忠告を重ねた言葉は振り返ればなんとも滑稽なもので。傘を差しても風邪をひいてしまう程に濡れている事が眼に見えて分かる相手に対して私はなんという可笑しなことを言っているのだろう。無意識とは言え咄嗟に吐きだした自身の口が嫌になる。
後悔だらけの頭を抱えて相手の返事を見上げながら待っていた私に対して、振り返った背中が器用に見下す視線。それはゆらゆらと揺れて私を捕らえようとしている。いや、違う。揺れているのは視線ではなく、両眼にたゆたう海だ。それも、涙という名のしょっぱい海。
ポロポロと海の雫を零しながら、背中の主である男は私を見下していた。私はそれを見上げて、ただ、綺麗だと感じた。男の泣くその姿が、とても、綺麗だと純粋に感じていた。
今思えばどうして私はあの暗闇の中で男が泣いている事に気付けたのかが心底不思議である。男の両眼に浮かんでいた涙の膜は普通ならば分からなかったと思う。あの日は雨が降っていたし、男は私を見下す形だったから影で隠されていた部分は多い。なのに、男の両眼が私の両眼にくっきりと見えたのだ。
大きな水溜りを湛えた黒い瞳と、雨に隠して流した涙の跡。純粋に綺麗だと思えたそれを流す男を、私は幸か不幸か知っていた。
男は私の学校の先生だった。年は三十代後半。くたびれたスーツにキッチリとネクタイを締めた格好で教卓に立つ。教科は私の大嫌いな数学担当。そして、私のクラスの担任でもあった。
私と男の関係はそれだけで終わる。一年という枠が終われば私は学校を卒業する年齢だ。卒業してしまえば恩師と言う名の記憶の片隅にいる人に変換されて消えてしまう。男にとっても担任になった事のある一生徒という記憶で終わる筈だった。
なのにあの日を境に私は時折夜の散歩と称して古びた公園の前を通り掛かる。泣いている男の姿を求めて、ジャングルジムの上を見上げるのだ。
男は私が公園に顔を出す時に必ずそこにいた。いつものように空を見上げ、いつものように声無く泣いている。私が敢えて音を立てて近づいているにも関わらず、男は空だけを見上げて私を見下そうとはしない。
泣いている事が分かるのに、私には何もできない。その涙を見ることすら、許されない。許されているのは夜空を瞬く星や月だけ。それがなんだか嫌で、いつもちょっかいを掛けるように声を掛けた。
「こんばんは。今日も暇人なんですね、先生」
「雨降ってるのにどうして傘差そうとしないんですか?」
「曇り空見たって月は出てきませんよ?」
沢山のどうでもいい言葉を並べて男の意識を私へと向けようとする。滑稽と笑いたくば笑え。私だって正直笑いたい。どうしてこんな事をするのか。どうしてこんな事をしようと思ったのか。理由なんて見えてこない中で、止めるという選択肢だけが一向に浮かばないのだからしょうがない。
そんな言い訳ばかりの私に男はいつも一度だけ視線を落とし、綺麗な涙を見せてくれる。その瞬間が私は凄く好きだった。でもたったの一瞬だけ。すぐにまた空へと視線は逆戻り。後はどんなに声を掛けても男はなんの反応も示さず、私を無視している。
最初の頃は苛立ちと共にその場を立ち去っていた。だけどだんだんとその苛立ちは諦めに変わり、気付けば相手の反応なんて気にせずに言いたい事を言って、時間の許す限り男の傍にいた。
ジャングルジムの上に年配の男が一人。ジャングルジムの傍に年若い女が一人。見る人が見ればあまりにも危ない二人と思われることだろう。しかし実際には教師と生徒――なだけである(それもまたある意味で危ない関係になりそうだが、それは丸無視で問題なし)それに時間帯が夜ということもあって古びた公園に足を運ぶような物好きは男と私以外いなかった。
だから誰にもこの時間を咎められる事はない。男と私だけの、秘密の時間。ふわりと胸に湧きあがる温もりはきっと、幼心に感じるような小さな小さな秘密と言う名の宝物を抱きしめた時のそれだろう。年齢的にはもう子供じゃない!!だなんて言いたくはなるけれど、大人でもないのは事実で。どっちつかずの中途半端な年齢ほど難しいものはないのだとしたり顔で内心頷いてみたり。
男にとっては秘密の時間と言うよりも一人の時間を邪魔されるだけの最悪な時間と言えるのかもしれない。私に声を掛けられるのすら厭うているのかもしれない。でもそんなのは男の思う事であって、私の思う事じゃないからどうでもいい。文句があるなら口に出すか態度で示してくれれば私だって男の時間を邪魔したりはしない――筈、だ。多分、きっと、いや、多分――前言撤回、無理だ。
男には悪いが私はこの時間が酷く気に入っている。とても綺麗な男の泣き顔を一瞬でも見れる、傍にいられる、この時間が私の宝物になってしまったのだから仕方がない。これからも私は時折この場所に訪れるし、男の泣き顔が見たいという欲を抱えながら男の傍にいる。教師と言う立場の男の傍ではない。ただ泣いているだけの一人の男の傍に、私はいる。
見上げた視線の先に男は未だ空を見上げていた。既に挨拶は交わした後だから、もう私を見る事はないのだろう。そうと分かっていて、いつも通りにどうでもいい事を話しかけるつもりの私は、けれど、今日に限って話題が一つも湧いてこない。
男に聞きたい事は沢山あるのに、私が話したい事はもうないのだ。どんな事でもいい。それこそ今頭上に広がる空の話だっていい。学校でしてしまったミスや、友達の話題、家族との夕食の風景等々、なんでもいい。いつも通りに話せばいいだけのそれが、今日の私には出来なかった。
どうしてできないのだろう、と男を見上げながら悩む。背中は振り向かない。私を見ようともしない。それが凄く悔しくて、辛かった。
今こうして傍にいるのに、位置の違いが生んでいる距離が酷く遠く感じられて、下唇を噛み締める。もっと傍に行きたいのに、来る事を拒まれているような、そんな感覚。一方的な距離感だと言われてしまえばその通りなのかもしれないけれど、だからってはいそうですかと頷けるほど物分かりのいい私じゃない。
距離があるのなら縮めればいい。ただそれだけのことだと分かっていて、行動に移せなかったのはきっと恐かったから。傍に行こうと動いた瞬間に、男が距離を置くように離れてしまうんじゃないかって、不安になっていたんだ。
今のこの距離だから男は私の存在を受け入れている。その背中に触れる事も、顔を見られる事もない距離だからこそ、男は許容してくれている。そんな気がしていたのだ。
一度不安に足を取られてしまえば抜け出す事は難しく、明確な光が無ければ前にも進めず、ひたすら沈んでいくだけ。救いを求めて伸ばした手なんて誰も引き上げてくれやしない。唯一救いを与えられる存在こそが悩みの種なのだからなおのことだ。
そんな男との距離を縮めたいと思う私は一種のマゾなのだろうか。いや、意味が若干違うような気もするが、表現するとそういった意味に近いというか、なんと言うか。ともかく、私はこの距離を縮めたいと思っている。それだけは確かな事で、その方法は私の脳味噌をどれだけ捩じり絞っても出てきやしない事だけは分かりきっている。
ジトリ、と見上げた視線の先にいる男はいつもと変わらない。私の事なんて見ようともしないまま泣いているのだろう。悔しい、ただそれだけに囚われてしまう私だって泣いてしまいそうだ。じわり、意味もなく滲みだした涙が男とお揃いになりそうで慌てて俯いた。
万が一にも男に見られてしまったら、どう言えばいいのかなんて解らない。有る筈のない万が一を恐れて俯くなんてどんな乙女だと突っ込みたい気持ちを抱きながら、今日はもう帰ってしまおうか、なんて考えた時、ありえない奇跡が起きた。
「……今日は静かなんだな」
「え?」
頭上から降ってきた声についうっかり、私は顔を上げてしまった。男が私を見ている。その眼に涙は浮かんでいない。頬に跡が若干残っているだけだ。それを残念とも安堵ともとれる二律背反的な気持ちで見ていたが、ハッと気付いた様に慌てて私は顔を俯かせた。
泣いている顔を見られた。万が一にもあり得ない瞬間を、まさか自分から作ってしまうなんて。羞恥に染まる赤い顔こそさらに見られたくないと思いながらも、初めてこの時間の中で声を掛けられた事に私の心は喜びに震えていた。
例えるならば懐かなかった猫にほんの少しでも興味を持ってもらえて嬉しい飼い主の気持ち、だろうか。よく解らない例えだと思うが、要は相手からも関心を向けられた、という事実が嬉しいのだ。しかも、いつも長々と話しかけていた私の声をちゃんと男は聞いてくれていたのだ。こんなにも嬉しい事はない!!
喜びに震える心臓を押さえるように強く両手を押し付ける。落ちつけ落ちつけと頭の中でグルグルと言い聞かせて、バクバク鳴り響く音をどうにか下げようとした時、耳元にスタンと着地する軽やかな音が届く。
男がジャングルジムの上から飛び降りたのだろうか。それとも別の人物がこの公園にいたとか?
どっちなのか分からずに未だ冷め止まぬ興奮も手伝って私の涙はますます溢れて止まらなくなる。パニック症状を起こす一歩手前のような感覚にどうしよう、どうしようと焦りながらも滲みだす視界をクリアにしようと瞼を一度だけ閉ざして開いた。
するりと伝うしょっぱい水の感触はついと伸ばされた無骨な親指によって拭われる。
息が、止まるかと思った。不意に触れた感触の柔らかさに、拭われた涙が親指の腹の上を濡らしていくことに、その手の持ち主に、私は呼吸の仕方を一瞬だけ奪われてしまう。
「どうして泣く?」
淡々と降り注いだ言葉。教卓から聞こえてくる無機質な声とは違い、戸惑いが大きく滲んだそれに、私はまた、泣いてしまう。
男が私に「気付いてくれた」から、それが嬉しくて、泣いてしまうのだ。そう言ってやりたくてしかたなかったけれど、言ってしまうのは勿体なくもあって、私は笑って「秘密ですよ」と震えた喉で突き返した。
それから私が泣きやむまで男は傍にいてくれた。流れ落ちる涙を何度も拭いながら、ただ黙って私を見つめてくれた。私の中で生まれる嬉しいという気持ちはとめどなく溢れ、零れ、笑みを絶やさぬまま、けれどそれを見せられぬまま、俯いたままで宝物の時間を終わらせてしまうのだけれど、それでよかったのかもしれない、と思うのは次の日の事だ。
泣き腫らした瞼を朝からずっと冷やし続けてどうにか人前に出ても気付かれないくらいには納まったと思っていた私に、男は――先生は学校ですれ違いざま、小さく私に囁いた。
「今日は泣くなよ」
その一言に思わず振り返った。先生の背中は私を振り返ることなく遠ざかっていくけれど、何故か、距離が縮まっているような、そんな気がして――無意識に綻んだ唇はへにゃりと情けない、とても幸せな笑みを刻んだのだ。
あれからも私は夜の散歩を止めずに、寧ろ頻度を増やして公園へと通った。向かう度に男に会えるわけじゃなかったけれど、暫く待っていれば男は私の立っているジャングルジムの近くまで来てくれる。それが嬉しくて、幸せで、私は笑って男を迎え入れるのだ。
その後はいつも通りの定位置に納まる。男はジャングルジムの上で空を見上げ、私はジャングルジムの下で男を見上げる。距離が遠いと感じていたのは過去の事。今では丁度いい距離感を保っているのだと感じられる。
その証拠に私が「傍に言ってもいいですか?」と問い掛ければ、男は黙ってこちらを見下し、手を差し伸べてくれるのだ。
両眼から零れる綺麗な雫をそのままに、私を隣へと導こうとしてくれるその手が愛しくて。じわりと滲む胸の奥を抑えながら私はその手を取ってジャングルジムを登るのだ。
登った後は隣に腰掛けるんじゃなく、男の背中に自分の背中を合わせて後ろを陣取る。そうして互いの顔を見せないまま、見上げた空はとても綺麗だった。
瞬く星の光が祝福してくれているような、輝く満月の優しさが降り注いでいるような、そんな気持ちになるのはきっと私だけじゃない筈、だなんて、一方的に思うことくらい許されるでしょう。
今まで見た夜空の中で一番綺麗だと思うこの瞬間を両眼に焼き付けて、私はゆっくりと瞼を閉ざした。
「綺麗、ですね」
静かに、静かに、囁くように落したその声に男は答えない。けれど、反応を示す様に私を導いた手が強く、私の手を握りしめてくれる。
そう言えば登る時に繋いだ手がそのままだった、と今更ながらに気付いて、でも、手放せないその手の温もりに私はほんの少しだけ、泣きたくなった。
「――月が、とても綺麗ですね」
震えた声が響く。伝わらなければいいと願いを込めて。叶わないと分かっていながら、それでも望んだたった一つの願い事。男は汲み取ってくれたのか、何も言わない。それが寂しい、だなんて身勝手にも程があるけれど、それでもよかったと思うのだ。
私の中にいつの間にか芽生えていた想いが、伝わらなくていい。ただ、傍にいる事を許されるこの時間が、宝物が、失わなければ、それでよかった。
「月が、本当に、とても綺麗です」
足掻くようにもう一度だけ許して、と想いを寄せる。この言葉の意味を男は知っているだろうか。有名な言葉だから知っていてもおかしくない。でも、今だけは知らないフリをして。叶うだなんて思っていないから、想うだけの時間を、どうか、許して。
「――そうだな。月がとても綺麗だ」
淡々と、淡々と、男が返してくれた言葉に意味なんてきっとないのだと、そう、想う。けれど強く握り直された繋がれたままの手が、優しくも残酷な答えを導くから。
するりと零れた涙が男に見られなくてよかった、と、私は心の底から思って、笑った。