推論ゲーム
窓から吹いてくる風が、読んでいる本のページを捲ろうとしてくる。春の風がカーテンをなびかせて、心地よく頬を撫でていく。今日は少し暖かく、風が少し強い。風が涼しく感じられ、とても気持ちいいのだけれど、本を読むのにこの風の強さは少し邪魔だ。
そう思って部室の窓を閉めた。途端に風で揺れていたカーテンや書類が落ち着いて、部室が静けさを取り戻す。窓から外の景色を見てみると、運動部がグラウンドを走って汗を流していた。
この高校に入学してから、二週間が経った。新入生を迎え入れて、活気に溢れていた校舎も少し落ち着きを取り戻しているようだ。入学してからというもの、始めの一週間は部活の勧誘で騒がしく、それからも体験入部で多くの生徒が校内を駆け回っていた。そんな慌ただしい雰囲気も嫌いではないけれど、本を読むには少し落ち着かない。
読書の続きをしようと体を反転し、部室へと向き直る。一年生の教室が並ぶ、校舎四階の一番端の部屋。表札には資料室と書かれているこの部屋が、俺の所属している文学部の部室である。教室の半分程の広さしかない部屋の壁際には、硝子戸の付いた棚が並んでおり、室内をさらに狭めている。その棚の中には、経年劣化によって黄ばんでいる古そうな資料が保管されている。この学校や近隣地域の資料のようだ。
部室の真ん中には、二つの会議テーブルをくっつけて、それぞれの机にパイプ椅子を二つずつ設置してある。これは資料室を部室として使わせてもらう事になった時に、先生が用意してくれたものだ。部活を作るのに最低四人必要だったから、席は四つ用意されたのだけれど、部員は自分を含めて実質二名である。他の二人は部活を作るにあたって名前だけ貸してもらった、所謂幽霊部員である。
この高校では、全生徒が部活に所属しなくてはいけないという、古い慣習が未だに残っている。とは言っても、さすがにこのご時勢であるから、強制力は無いに等しい。この慣習から逃れるための、幽霊部員が集まっているような部活もある。先生方もそれは黙認しているようだ。
俺はどの部活に入部するか散々悩んだ挙句に、この新しく作られた文学部に入部することになった。その経緯は色々あったのだけれど、結果的には入部して良かったと思っている。帰宅しても特に何かしたい事があった訳でもないので、時間を潰せる何かをしたかった。遊びまわったり、お金のかかる趣味がある訳でも無かったので、アルバイトをしようとは思わなかった。そんな理由で何かしらの部活には入ろうと思ってはいたけれど、特に熱意もなかったので、先輩のいない新しい部活というのは気が楽だと思い入部した。何せ何をしていても何も咎められない。
読書の続きをしようと席に着いたところで、扉の外から部室に向かってくる足音が聞こえた。恐らくもう一人の部員だろう。この部活を作った人物であり部長である。足音の人物は、やはり部長だったようで扉がカラカラと音を立てて開いた。
「あぁ、良かった。広瀬君来てくれてたんだ」
まるでいつもは来ていないかのような言い方だ。一応この部活が設立されてからは、ほとんど顔を出しているというのに。設立されてから日も浅いので、俺が気が変わって来なくなるのではないかと不安なのだろう。俺がいなくなったら、この部活は実質一人になる訳だし。
「来てるよ。水崎さんは少し遅かったんだな」
「うん、少し用事があって」
水崎は鞄を俺の向かいの席に置いて、その隣へと座った。そのまま自分の鞄の中を探っている。恐らく本でも持ってきているのだろう。文学部というのが、どんな活動をするのかまだ正確に決まっている訳ではない。とりあえず明確な目標と活動内容が決まるまでは、各々が用意した本を読むという事にしている。
とは言え、一言二言喋って、はい終わりというのも何か味気ない。まだ知り合って日も浅い事だし、今後一緒に部活動を続けるにあたって交流を深めておくというのもいいだろう。というよりも、少し読書の小休憩でもしたい気分だった。
「この部活の今後の活動方針についてだけど、何か決まったのか?」
「うーん……」
ようやく本を探し当てたのか、水崎は鞄の中から本を取り出した。
「まぁ文学部というからには、部誌を作るものだよね。一学期が終わるまでに一冊、文化祭に一冊は作っておきたいかな」
「ちょっと待った。夏休みが明けてから、ほんの二、三か月もしたら文化祭だぞ。今学期中に一冊作ったとして、夏休み明けてからまた一冊なんて間に合うのか?」
作文や、入試時期に書いた願書の志望動機などでは文章を書いたことはある。けれど、自ら文章を書いたことの無い身としては、執筆にどれほどの苦労と時間が必要なのか想像することもできない。仮に間に合ったとしても、スジュール的に厳しいであろう事はさすがにわかる。
「夏休みに作ればいいじゃない」
「えぇ……」
文学部って夏休みも活動するのか……。そこまで活動的にすると考えてるとは思わなかった。何せ部員は二人だ。活動できる幅は限られている。来たい時に来て、ゆったりと放課後を過ごす場所として、文学部があるのだと考えていた。水崎も設立者であり部長だとはいえ、そこまで本格的に活動すると考えていないだろうと踏んでいたのに。
「まだできたばかりで、部員も一年生だけでしょう。活動結果を残さないと部費も少ないだろうし、最悪存続すら怪しくなるかも」
「なるほど……」
「でも、とにかく一冊は作ってみないとね。文化祭までに二冊目を作るのが難しいとしたら、その一冊目を文化祭で発表しようと考えてるの」
是非ともその一冊目をそのまま文化祭に使ってほしい。部費はあって困るものではないけれど、おおよそ半年で二冊も部誌を作る対価としては高すぎる気がする。そんな俺の考えを見抜いたかのように水崎は言葉を続けた。
「大丈夫だよ。編集とか印刷とか、そういうのは全部私がやるし。広瀬君は原稿を上げてくれればいいから」
「そうか、何か悪いな」
「いいよ、私が言いだしたことだしね。できる事なら残る二人も部活に来てくれればいいのにな」
残る二人か。あの二人はそうそうここへは来ないだろう。他の部活と掛け持ちという形で入ってくれたので、あの二人にとって部活動の場はここではない。夏や文化祭の時期といえば、他の部活も忙しい頃合いだろう。そこに原稿を上げてくれと頼んだところで受けてくれるとは思えない。
「まぁまだ先の事だよ。近い内に細かく決めておくから、それまではこのまま活動していこう」
そう言って、彼女は机の上に先ほど取り出した本を置く。その本には、薄い茶色のベースに、黒猫が毬で遊んでいる絵が描いてあるブックカバーが付けられている。水崎がいつもつけているブックカバーだ。あれが付いているので、彼女が何の本を読んでいるのかはわからない。
「そうは言っても、何もしていないようなものだからなぁ」
「まぁ……そうだね」
そこで少しの間ができる。ここを会話の区切りにして、読書の続きでもと思ったけれど、どうも気分が乗らなくなってきた。今日は読書以外で文学部の活動でもしてみようか。でも何をしよう。
思案を巡らせている間に水崎は本を読み始めていた。仕方がないから、気分は乗らないが読書の続きでもしようと本に手をかけたところ、この間読んだ短編小説を思い出した。
「水崎さん、少しゲームでもしないか?」
開いたばかりの本を閉じて、水崎はこちらを向いた。
「ゲーム?」
「そう、文学部らしいゲーム」
俺の要領を得ない言い方に、水崎は小首を傾げる。わざわざ引き付けるほどの内容でもないので、さっさと内容を話すことにする。
「推論ゲームだよ。何か適当な会話か文章から、推論を重ねて何があったのかを考えるゲーム」
推論を重ねて、その結果が事実であるかどうかはどうでもいい。ただ、その会話か文章からどんな事があったのか、その可能性のひとつを筋道を立てて示すのである。
普段そこまで本を読んでいる訳ではないが、俺はミステリー小説をよく読んでいる。水崎が普段どんな本を読んでいるかわからないけれど、文学部を設立するくらいなのだから、ミステリーを読んだことが無いって事はないだろう。
「ふーん……推論ゲームか……うん、いいよ」
水崎は閉じた本を机の脇にそっと置いた。
「それで、お題は何にするの?」
「そうだな……折角だし適当に考えた文章にするより、実際に聞こえてきた会話とかにした方が面白いよなぁ……水崎さん、何かない?」
「言いだしっぺなのに私に投げるんだ。まぁいいけど」
水崎は、うーんと唸ると腕を組んで考え始めた。やはり、思いつくには少し時間がかかるかなと思っていたけれど、案外早く水崎は口を開いた。
「じゃあ『このまま放って置く訳にはいかない。誰か車を使える知り合いはいないのか』っていうのはどう?」
「わかった、いいよ」
俺はそう答えると、鞄からノートを取り出した。ノートの最後のページを開いて、先ほど水崎が言っていた内容を書き留める。
「『このまま放って置く訳にはいかない。誰か車を使える知り合いはいないのか』だよね。……ちなみにこれどこで聞いたの?」
「さっきよ。私体育館から出ていったところだったんだけど、体育館から校舎に戻るために連絡通路を歩いてる時に聞こえてきたの」
あと他には……と顎に手を添えて考え出す。
「男性の声だったわ。それと一人じゃなかった。恐らくだけど二、三人の人たちだったと思う」
俺はノートにその情報を書き込んでいく。体育館の連絡通路、二、三人の集団で、その内一人は男性。
「こんなところね」
「よし、じゃあ始めようか。……じゃあまずは、パッと見た感じ、この文章から何がわかるだろう」
「一番わかりやすいのは、運転手を必要としているってことね。運転手を求めているという事は、免許を持っていないということで、話し手は学生でしょうね。『誰か車の使える知り合いはいないのか』っていうのは、彼らの誰も免許を持っていないとわかっているからの発言だと考えると、彼ら全てが学生である可能性が高いわ」
「そうだな」
もしも、彼らの中で免許を持っている人が居るとして、それは恐らく学生ではないということになる。何故なら季節はまだ四月で、十八歳になった先輩がいたとしても、免許を取るには時間が足りない。つまり、今の時期に免許を持っていて、なおかつ校内に存在する人物となると、来訪者か先生かだ。そして、来訪者も先生も、学校に来るときは大抵車を使っている。彼らの中に免許を持っている人がいないとなると、彼らは全員学生だということになる。
「あとは……『このまま放って置く訳にはいかない』ってことは、何かしらの不祥事が起きたって事かしら」
「あぁ、そういう事でいいと思う。その不祥事が今起きたことなのか、前々から起きていた問題が、無視できないレベルにまで大きくなったのか、それはわからない。ただ、その問題は近いうちに解決しなければいけないものだろうね」
「そうね、運転手を求めているところから、事の解決に乗り出そうとしているのがわかるもの。まだ先でいいのなら『このまま放って置く訳にはいかない、いずれは何とかしないとな』とか、そんな風に言うと思う」
うん、と頷くと、俺はノートに今出てきた情報を書き込んでいく。
「彼らは生徒であり、とある問題を抱えている。そしてそれは近いうちに解決したい問題だ。そこで解決するために『誰か車を使える知り合いはいないのか』という言葉に繋がっていく。じゃあ、なんで車が必要なのかを考えてみよう」
「普通に考えるのなら、彼らが目的地としている場所が遠いからじゃないかしら」
「しかし、それなら車でなくても良い気がするよ。電車やバスで移動したっていい訳だから」
「彼らの友達に、車によく乗せてくれる友達がいたとしたら? それなら車で移動というのが習慣になっていて、電車やバスよりも車で移動しようとするんじゃないかしら」
そう言って、彼女は自分で気づいたように、あぁでもと自分で訂正した。
「それなら『車を使える知り合いはいないのか』なんて言い方はしないか。だってその前提なら、車を使える知り合いに心当たりがあるはずだから」
「そうだな。だから、彼らも普段から車を使っての移動には慣れてないんだ。けれど車を必要としている。電車やバスではできない事が、車でしかできないことがあるからこそ、車を求めているんだろう」
「電車やバスではできなくて、車ならできることかぁ」
水崎さんは天井を見上げながら、足をプラプラさせている。彼女の考える時の癖なのだろうか。
「電車やバスが通っていないところに行きたいのか、大きめな荷物を運びたいかだろうな」
「私もそう思う。他に車でなければならない、他の理由って思い当たらないもの」
一応他にも考えてみるが、簡単に思いつくのはそれくらいだ。では、どちらの理由で車を使いたがっているのだろう。
「ならこれは、荷物を運ぼうとしていると考えられる」
さきに結論を言葉としてだす。一瞬で、このどちらがより可能性が高いかと考えた時、経緯を考えるより先に答えがでた。答えがでてから、途中経過を考えるのは順序が逆だけれど、たまにこういう事がおきる。案の定、水崎がそれに対して突っ込んできた。
「待って、それだけ言われてもわからないよ。何でそう考えるの?」
俺はコホンとひとつ咳払いして時間を稼いだ。その間に、省いていた経緯を、言葉で説明できるように、頭の中で組み上げていく。
「電車やバスで行けないところは限られている。ここの町はそんなに田舎じゃない。大抵の場所は電車やバスを駆使すれば辿りつけるよ」
「それはそうかもしれないけど、県外だったり、バスさえ通っていない辺鄙な場所に行きたいのかもしれないじゃない」
言いながら、水崎は鞄の中からペットボトルを取り出していた。どうやら、レモンティーのようだ。俺はどうも紅茶というのが得意ではない。
「彼らは運転手を探している。今までに行った事がある場所ならば、当然そこへ連れて行ってくれる運転手に心当たりがあるはずだ。けれど、彼らには心当たりのある人物はいないらしい。つまり辺鄙な場所に行きたいと仮定した場合、彼らにとって、そこは行ったことの無い場所だということになる。行った事の無い場所に、それでも行かなければならないのだとしたら……」
それから、少しの間考える。水崎も、それを察して黙っていた。ある程度考えが纏まったところで、俺は口に出す。
「彼らが抱えている問題が、そんな所に行かないと解決しないものなのか。それとも、彼らにとって無視できなくなるような事が、その行ったことのない地で起きているという事になる。そんな問題は……ちょっと思いつきそうにないな」
「……そうね」
水崎も、そのケースに当てはまる問題がどんなものか、考えているようだ。他の可能性を考えながら、一応は納得してくれたようだった。
「それにしても……意外かも」
「うん?」
まだ考える姿勢を変えず、水崎さんは続ける。
「広瀬君って、思考が深いのね。私の印象は、何かもっとこう……うん」
「……」
うん、で誤魔化された言葉はなんだったのか。そんな短い間で、酷い印象を持たれるような事をやらかした記憶はないのだが。まぁ、俺が水崎に抱いている印象も、ただのイメージでしかないからそういうものかもしれない。
「他に、まだ考えられることはあるかしら」
「これまでの推論が妥当だとしよう。そうならば、彼らは車を使って荷物を運ぼうとしている。それは、電車やバスでは運べないものだ」
これまで自分の言った事を忘れないように、一々言葉に出していく。そして、自分の言った事をノートに書き込む。
「普通に考えるなら、荷物が大きいって事だよなぁ。どれくらいの大きさなら、車を使ってでも運ぼうとするだろう」
「電車やバスだと非常識になる大きさ……例えば教室にある机くらいの大きさなんてどうだろう。私だったら電車に乗せようとは思わないけど」
掃除の時間などで、机を運んでいる時の事を思い出す。机は軽いから、まだ運べるけれど、ある程度重量があるとしたら電車に乗せようとは思わない。
「俺もそうだな……背負う事ができたり、抱えられるくらいの大きさならば、電車を利用してもいいと思うけど」
「ある程度、重さも関係してくるとは思うけど……」
水崎は想像で何かを持ち上げているのか、手がひょいひょいと上下している。考えていると体も一緒に動いてしまうのだろうか。
「まぁでも、小さくて重いものっていうのもそうないだろ。ボーリングの玉だって、車を使って運ぶほどでもない」
それでも相当疲れるとは思うが、一々車を探すほどの労力でもないだろう。
「だから、水崎さんの言う通り教室の机からそれ以上の大きさだと予想できる」
ひょいひょいと動かしていた手を止めて、水崎さんは頷いた。
「でも、そんな大きいものってなんだろうね。それを必要としている問題も、ちょっと予想がつかないかな」
ここまで推論を重ねてきたが、それは俺も思っていた。そもそもここまで出していた推論も、こういう可能性もあるってだけで、事実である可能性なんて低いだろう。事実からは大きく脱線していて、変な方向に話が進んでいるのかもしれない。けれど、これはゲームだ。間違っていたらいたで、それでいい。
ふぅ、と一息ついて、改めてノートを見直していた。これ以上得られる情報はないのだろうか。今までの推論が正しかったと仮定してみた場合、何か今までの情報を違う角度から見ることができるのではないか。
と、ここでほんの少しの違和感に気付いた。
「これ、何で知り合いを探しているんだろうな」
「え?」
水崎は何を言っているのと言いたげにこちらを見てくる。
「何でって、自分達で運転ができないからに決まっているでしょう?」
「いやそうなんだけどさ、もし水崎さんが車で運んで欲しい荷物があるとしたら、誰に頼む?」
「それは……」
ほんの十秒ほど考えてから、
「両親に頼むかな。そもそも車を持っている知り合いなんていないし」
「うん、俺もそうだ。彼らがパッと思いつく範囲で免許を持っている知り合いはいない。なら、最初に思いつく免許を持った人物は両親だ。けれど、彼らは両親には頼もうとはしていない」
一体それはどういうことなのだろうか。
「勿論、両親と不仲で頼めなかったり、車を持っていない、免許の無い親もいるかもしれない。しかし、彼らは複数いる。全ての親が免許を持っていないなんて事はそうそうないだろう」
単に言い方の問題で、彼らにとって知り合いとは親も含まれているのかもしれない。けれど、少しの違和感があるのは確かである、と思う。
「でも、それだと親には知られたくない物を運ぼうとしているってこと?」
「もしくは場所が、だな。親に知られたくないっていうのは、言い変えれば、場所にしろ荷物にしろ後ろめたい事情があるってことだ」
「後ろめたい事情って……?」
ふむ、事情か。自分で言っといて何だけれど、それを絞るのは可能性が多すぎて難しい。けれど、偉そうに言っておいて、わかりませんでは格好がつかない。ここは、
「その前にちょっとトイレ」
という事にして誤魔化そう。まぁ用を足したいところでもあったし、ちょっと頭を休憩するのもいいだろう。
「……」
トイレのために席を立ったが、彼女の視線が心なしか冷たい。彼女からしたらお預けを喰らった気分だろう。しかし、それで我慢できなくてはクイズ番組を見ることはできないぞ。
背中に冷たい視線を感じながら部室から出る。この学校の教室は一階毎にA~Gの7クラスの教室がある。A~Dクラスから階段を挟んでE~Gクラスがあり、階段の目の前にトイレがある。この資料室はGクラスの隣にあるので、トイレまでそこそこ距離がある。考えながら歩くにはちょうどいいだろう。
何か紐解くワードはないだろうか。もう一度、ゲームの言葉を思い出してみる。『このまま放って置く訳にはいかない。誰か車を使える知り合いはいないのか』。そして彼らは最低ニ、三人の集まり。何か後ろめたい事情のある物か、場所に運ぼうとしている。
このまま、か。このままにしておけない、大きな荷物を運ばなければいけない問題。後ろめたい場所とは一体どんな所だろう。人に知られたくない場所となれば、かなり限られている。そこを複数人で行っていて、大きな物を運ばないといけなくなった。……ちょっとわからないな。となれば、後ろめたい物か、知られるとまずい事情を抱えた物であるのが妥当であろう。これは可能性が高いというだけであって、後ろめたい場所でないという否定はできないが。
では後ろめたい物、もしくは事情を抱えてしまった物と考えよう。『このまま放って置く訳にはいかない』から、大きな物を運ぶ。しかも複数人が関わる事情で、だ。個人の事情でない、彼らが全員関わっていて、そして物を運ばなくてはいけなくなった事情。あぁそうか。
何となく思いついたところで、気が付くとトイレを終えて資料室まで戻ってきていた。考えがある程度まとまったところで、資料室のドアを開けて中に入る。そこでは水崎が推論ゲームで使っているノートと睨めっこしていた。
「おかえり。それで、続きなんだけど……」
俺をトイレに見送った時に反して、水崎は少し楽しそうな表情に見えた。……何か怖いな。
「あぁ、事情に関する事だったね。まずは……」
そう言いながらノートを見ながら話そうとする。
「最初の言葉、『このまま放って置く訳には』って……おい」
そのノートには可愛らしい猫のイラストが描かれていた。机を見ると、さっきまで無かった水崎の筆箱が出されている。俺が考えて帰ってくるまでの間、自分なりに考えもしないで落書きして遊んでいたようだ。憎々しげに水崎を見ると、彼女は満足そうにニヤけていた。
「……『このまま放って置く訳には』ってところなんだけど、さっき俺は後ろめたい場所に物を運ぼうとしている可能性があると言った。でもここはその可能性を捨てよう。だから、後ろめたい物か事情を抱えた物を運ぶという方で考えてみた」
言いながらノートに描かれた落書きを見る。よく見るとこれ、ボールペンで書かれている。折角シャーペンで薄く書いて、消したあと跡が残らないようにしていたのに。
「複数人が関わっていて、なおかつ物を運ばなくてはいけなくなった理由。彼らがそこで何をしていたのかは知らないけれど、事故で何かを壊してしまったんだ。だから、彼らはそれを隠そうとしている。それが後ろめたい物であり事情だ」
水崎の顔を覗くと、そこには呆れた表情がはっきりと読み取れた。そして彼女ははっきりと言った。
「それはないよ、広瀬君」
「どうして?」
「だってそうだとするとおかしいもの。彼らは隠そうとして、物を運ぼうとしているのでしょう? なら、それはまだバレていないってことになるわ」
「でも、いずれは見つかってバレるじゃないか」
「知らんぷりしてればいいじゃない。そうすれば犯人はわからないでしょう?」
なるほど、それもそうだ。考えすぎて視野が狭くなっていたのかもしれない。けれど、ここは一応反論しておく。
「彼らは証拠を残したのかもしれない。彼らが物を壊したとバレる証拠があれば、見つかった時点で彼らが犯人だとわかるよ」
「そしたら彼らは証拠を残したという自覚があるってことね。なら、その証拠を消そうとするのが普通じゃないかしら。わざわざ壊した物を運ぶなんて目立つ行動したがらないと思う。ましてや、それは大きい物なんだから。それに証拠を消すのなら日が経ってからじゃなく、壊してしまった時点で行動すると思う」
「そうだな……」
証拠を残してしまった自覚があるのは間違いはないだろう。自覚がないのなら、水崎が言ったように知らんぷりをしていればいい。俺の推論を押し通すのならば、証拠はその壊した物自体に残っていなければならない。だから、運ばなくてはいけなくなった。……苦しいな。壊した物に彼らだとわかる痕跡が残っていたとしても、その場でそれを消そうとするだけだろう。水崎の言う通り、わざわざ本体を運ぶ必要などない。
ここまでか、と半ば諦めつつもノートを見る。窓の外からは未だにグラウンドを使っているであろう運動部の掛け声が聞こえてくる。窓から外を見てからそこそこ時間が経ったというのに、元気な事だ。体力に自信のない俺には到底できそうにない。……運動部?
と、そこで席を立って窓からグラウンドを確認した。そこにはどこぞの運動部がトラックを走っている。しかし、利用しているのは彼らだけで、道具も何も使ってはいない。再び机に置いてあるノートに目を通す。そこにはこう書かれていた。『体育館の連絡通路』。
「どうしたの?」
俺の行動に水崎は疑問を投げかける。俺は思いつくままに言葉にした。
「水崎さんは、あの言葉を聞いたのは体育館から出ていったところだったと言っていた。なら彼らは体育館の中にいた訳ではない。彼らが体育館に用事があったのなら、校舎からの連絡通路で水崎さんとすれ違っているはずだ。そうなら水崎さんは彼らを見ていることになる。けれど水崎さんは『恐らく二、三人』と曖昧な事を言っている。これは水崎さんが彼らを見ていないという事だ。校舎から体育館の連絡通路で、目撃することすらなく声だけ聞こえてくる。彼らは一体どこにいたのだろう。体育館の近くで、連絡通路からは外れた場所……体育館倉庫だ」
「確かに私は彼らの事をこの目で見た訳ではないわね」
次々と湧いてくる疑問を、俺はただただ口にする。
「彼らは一体何故そんなところにいたのだろう。学校生活で基本的に体育館倉庫に立ち寄る用事なんてない。体育館で活動している運動部が使用する道具は、体育館内の倉庫にしまわれている。体育館倉庫は基本、外で行うスポーツの器具や大道具をしまう場所だ。けれど、グラウンドはどこぞの運動部が走っているだけで、何も器具が使用されている様子はない。他に人がいる可能性があるとすれば掃除だが、水崎さんが体育館を出たのは放課後で、とっくに掃除の時間がすぎている。そもそも掃除の担当場所で体育館倉庫なんて聞いた事が無い」
体育館倉庫が怪しいとなると、いつ問題が起きたのかというのも解決してくる。
「わざわざ体育館倉庫で、どこかで起こしてしまった問題の解決案を出そうと話し合いをするだろうか。そんなの学校でしなくてもいいじゃないか。なら何故そこで話し合いをしていたのか。それは今そこで問題を起こしてしまったからだ」
「私が連絡通路を通っていた時点で、彼らは何か問題を起こしていた……それでも、彼らはその場から逃げることができたはずじゃないの?」
「何か証拠を残してしまい、しかもそれはそこから運ばないと誤魔化せないようなもの。一体どんなものだ」
体育館倉庫は、人気のない場所だ。そんなところに放課後に、複数人で集まった理由。現時点で問題を起こしてしまい、そしてそれは運ばなくては誤魔化せないようなもの。運ばなくては、彼らが犯人だと示してしまうもの。
「――人だ。彼らは人を、詳しく言うのなら怪我人を運ぼうとしている」
「……広瀬君、本気で言ってるの?」
「これが事実だと言い張るつもりはないよ。あくまでこれはゲームだからね。でも、人に怪我をさせてしまったのなら、証拠を消す事はできない。本人が証人となるのだから、知らんぷりをすることもできない。だから病院にその怪我人を運ぼうとした。けれど人目から隠しながら怪我人を病院に運ぶには無理がある。そこで、知り合いに車を頼もうとした」
あくまでゲームと自分で言っておいて、自分の顔が強張っていくのを感じる。それは水崎も同じようだ。本気で言っているのかと聞いてはいたが、彼女の顔には冗談を聞いているような微笑みはない。
「そうだとすると広瀬君。その怪我人は」
「運ばなくてはならない状態。少なくともそこから動けないほどの怪我、尚且つ助けを呼べない状態だと考えると意識を失っている可能性が高いだろう」
そんなはずはないと言いたげに、でも! と強い口調で彼女は主張する。
「それなら、何で先生を呼ばないの? そんな状態で放って置いたら危険だなんて、誰だってわかるのに! そうだ、それに病院に連れて行ったところで、結局怪我をさせた人はバレるじゃない!」
「口止めができる関係だったら……被害者が加害者に責め立てる事が難しい、そんな関係なのかもしれない。例えば虐められていたとか。無理に口裏を合わせようとさせるのかも」
それならば体育館倉庫にいた理由もわかる。他にもある可能性は、と考えていると、水崎さんは勢いよく立ちあがった。
「私、確認してくる!」
「ち、ちょっと待って、俺も行くよ!」
これはゲームだとずっと割り切っていた俺だけれど、一抹の不安が無い訳でもない。体育館倉庫は所詮学校内にあるのだし、確認するだけならそんな苦労のかかる場所でもない。ここまで一応結論を出して、水崎を不安にさせた責任を取るくらいはしてもいいだろう。
扉を開けたまま飛び出した水崎の後を追う。すぐに追いかけたはずなのに、廊下に出ている水崎は、もう階段に差し掛かろうとしていた。とんでもない速さに驚くが、驚いている場合ではない。もし、俺の推論が正しかったのなら、そこにいる連中の素行がいいとはとても思えない。もし、その現場に出くわしてしまったのなら、水崎に危険が及ぶかもわからない。
運動は得意ではないけれど、走らない訳にはいかないだろう。
◇
翌日の放課後、資料室の前に立つと中から人の気配を感じた。恐らく水崎が先に来ているのだろう。ノックをしようとしたけれど、部員が部室に入るのにノックをするのは他人行儀だと思いそのまま入った。
よう、とか一声かけて中に入ると、水崎は席に着いてルーズリーフに何かを書いていた。一区切りつくと、ペンを置いてこちらに顔を向ける。
「来てくれたんだ、広瀬君。今ね、今後の活動内容について考えていたんだけど」
それをルーズリーフに書き込んでいたのだろうか。中身を除くのも憚られたので、尋ねることにした。
「それで、どんな活動にしていくんだ」
「月報を作ろうと思います。掲示板に貼らせてもらうのか、フリーペーパーの形式にするかは決めていないけど」
「待ってくれ水崎さん。部誌に続いて月報なんて作ってる余裕なんてないだろ。それに俺たちは文学部だろう? 新聞部じゃあるまいし、月報はおかしいんじゃないのか」
正直、楽に放課後を過ごせるだろうと踏んで入部していたので、あまり文学部としての活動に興味があった訳ではない。最低限の事はやるつもりだったけれど、毎月ノルマがあるというのは気が進まない。
「文章と触れ合っていくのが文学部としての方針だよ。だから月報でもおかしくないよ。うちの学校に新聞部はないから活動内容が被っている部もないし、それに……」
水崎の顔がこちらに向くと、少し悪戯っ気のある笑みを見せる。
「広瀬君、なかなか面白そうな記事書けそうだしね。掲載内容は自由にしようと思うから、どんな記事を書いてもいいよ。部誌については、文化祭での発表だけにしようと思う」
そうしてルーズリーフをこちらに差し出してきた。見ると、月報の形式の下書きを書いていたようだ。まぁ紙一枚の、半分を一か月で書くだけならそれほどの苦労も無いだろう。俺は活動内容を考える気はないから水崎に任せるしかない。活動したくありませんでは入部した手前、勝手が過ぎるので、言う事を聞くしかないだろう。
「しかし、また何で月報なんてものを」
「昨日の事でね。昨日のあれは、あんまり良い事では無かったけど、広瀬君の意外な一面を見れたという意味では良かったよ。あれだけの文章から紐解ける能力があるのだから、文学部としてそれを活かした方がいいに決まってるよ。ううん……」
そう言って水崎は頭を振る。
「私が、もっとそういう所を見てみたいのかも。私は途中からほとんど聞いているだけだったもの」
「そんなこと、ただ偶然が重なっただけでしか」
「いや、私はすごいと思ったよ。それが事実と違っていたとしてもね。何かの考察を書くにしろ、出来事を書くにしろ、広瀬君がどんな所まで考えが及んでいるのか知りたかった。だから月報として書かせたかったのかな」
昨日の一件で、随分と買われたものだ。俺としては、そんな大したことをしていたつもりもなかったのだけれど。
「まぁでも、理由は何にせよ活動方針は決めておきたかったからね。これでいこうよ!」
「あぁ、まぁ別にいいけど」
けれど、あまり期待されても困る。昨日の事は、本当に偶然が重なっただけの事だと思う。
昨日、俺と水崎は体育館倉庫まで走って行った。倉庫の中に入ると、そこには確かに倒れている生徒がいた。そしてそれを困惑した様子で囲っていた数人の生徒。最後、何の考え無しで俺は虐められていたのかもしれないと結論を出した。実際、俺の出した推論から考えられる状況からは、まぁ有り得なくもない可能性だったと思う。
けれど、事実は違った。やはり推論は推論でしかなく、確固たる証拠がなければ数ある可能性のたった一つでしかないのだ。その可能性を潜り抜けて体育館倉庫まで辿りつき、そして実際に人がいたのだから、昨日の俺は本当に幸運だったのだと思う。
水崎は慌てて倒れていた人物に近づいた。大丈夫ですかと懸命に声をかける水崎を横目に、俺は倉庫内を見渡した。俺の予測が当たっていれば、人に怪我をさせた状況にあったという事だ。何か凶器は持っていないか、場は殺気立っていないかと警戒していたのだが、俺の目に入ってきたのはアルミ缶と一升瓶だった。アルミ缶のラベルを良く見ると、ジュースでは無く酒らしい。そこで俺は察した。
察したところで力が抜けた。よく臭いを嗅ぐと倉庫内はアルコールの臭いで充満している。どうやら宴でも開いていたようだ。振り返ると、そこには同じく察したであろう水崎がこちらを見ていた。
そう、事実とは鍵の壊れた体育館倉庫を隠れ家として、宴会を開いている連中がいたというだけの事だった。だけの事と言える程、軽い問題でもないのだけれど、怪我人がいるのではないのかと思っていた俺たちは拍子抜けをした。この場を見つかった彼らは勿論、俺たちも冷静さを失っていたといってもいい。
話を聞けば、最初はここを溜まり場にして遊んでいただけだったそうだ。その内菓子やジュースを持ち込むようになり、罪悪感やスリルを肴に酒を飲んでみたのが今日だったのだという。しかし、飲みなれていない連中もいて、エスカレートして止められなくなった挙句に泥酔。放って置くこともできずに困っていたそうだ。
彼らは三年生だった。この事が教師にバレたら将来に関わる大事だ。それはもう必死な形相で内密にしてくれと懇願された。これも事件ではあるけれど、想像より事が軽かったので拍子抜けし、冷静さを失い、なぜか安心感すら感じていた俺たちは、もうここに侵入しない事を約束させて秘密にする事にした。冷静さを取り戻した今となって考えると、彼ら酔っ払いと同じく俺たちも酔っ払っていたのかもしれない。
俺の出した推論なんて、結局事実を当てたとは言い難い結果となった。けれど、水崎はその経緯を過大評価してくれたみたいだ。そんな期待される程の人間ではないと言い張りたかったけれど、いずれ現実を知る事になるだろうから、俺は黙っている事にした。
「よし、それじゃあ早速記念すべき文学部月報第一号をどんな風にしたいのか、会議しようと思います!」
席に座れと手で促すので、俺は素直に向かいに座った。昨日読んでいた小説の続きでも読みたかったのだけれど、これが終わらなければ読ませてくれなそうな雰囲気だ。
昨日から考えていたのか、ペラペラと提案を出してくる水崎にうんうんと適当に頷いて返事する。入部した経緯が経緯だけに、こんな事になるとは思ってもいなかったけれど、そんな後悔するような事にはならないのかもしれない。
ボーっとしていたら、ぽこんと軽い衝撃受けて我に返る。
「ちょっと、聞いてるの?」
見ると、水崎の手にはペンが握られている。これで頭を叩かれたのだろうか。気が付くと目の前にあるルーズリーフには提案の破片であろう単語がつらつらと並べられていた。
「あぁ聞いてる聞いてる」
「じゃあ何て言ってたのか言ってみてよ」
そのままルーズリーフの単語を見続ける。そこから導き出される水崎が話していた内容とは。昨日、あれだけ幸運に恵まれていたのだ。きっと今日だって運が良いに違いないであろう俺は、幸運に身を任せることにした。