二
「ただいまー。洋海来たからー。上がってもらうからー」
「お邪魔します」
俺は玄関を開けると、中に向かって声を張った。
俺ん家は戸建て4LDK。12年前に父ちゃんが頑張って購入した。現在進行形でローン返済中。父ちゃん、ご苦労様です!
俺と洋海が靴を脱いでスリッパを履き、リビングの扉をカチャリと開けた途端、弟の健司郎が「北斗お帰りー!」と叫びながらドタドタドターー! っと突進してギュウッと抱き付いてきた。
ゴフッ。小学六年生男子の加減無しの体当たりは結構キツイものがあるぜっ。
健司郎と、俺と、高校二年生の兄ちゃん。
俺は三人兄弟の、真ん中である。男兄弟にサンドされて揉まれて育った俺は、個性的な喋り方を含め、言動がガッツリ男前に育ったのだ。
「ただいまー、健司郎。今日は洋海が来てるからなー、ご挨拶しなさい」
「洋海くん、こんにちはー!」
よしよし。可愛いぞ〜。
俺は抱き付かれていた腕をやんわりと引き剥がし、健司郎の頭を撫で撫でしてやった。そこへ母ちゃんが「洋海君、いらっしゃ〜い」とニコニコしながら寄って来た。
笑顔が通常の二割り増しだな、母ちゃん!
素敵男子大好物の母ちゃんは、爽やか美形男子の洋海が家に来ると明らかにテンションが上がるのだ。
「早智子さん、こんにちは。お邪魔します」
洋海は柔らかな微笑みを浮かべながら、折り目正しくぺこりと頭を下げた。
……下の名前で呼んでみせてからの礼儀正しい挨拶、プラス爽やかスマイル。この主婦キラーめっ。洋海のあざとさレベルの高さには毎度恐れ入るぜ!
ちなみに俺の父ちゃんが80〜90年代漫画好きと察した洋海は、某バスケ漫画を借りて読んで「こぐれせんぱいが3ポイント決めるシーンが一番好きです」と感想を宣い、父ちゃんからの「こいついい奴」認定も既にもぎ取っている。ホント恐るべし。
案の定、洋海スマイルにノックアウトされたらしい母ちゃんが用意した、スペシャルバージョンの紅茶とお菓子を乗せたトレーを受け取り、俺は「宿題やるから、しばらく集中させてね〜」と二人に声を掛け、洋海と共に二階の俺の部屋へ移動した。
俺は座卓の上にトレーを置くと、座布団を二つ敷いて腰を下ろし、自分の理科のノートを広げ、洋海の理科のノートを借りてパラパラと目を通した。
えーと……あ、あったあった。こっからここまで、ね。二、三ページってとこだな。おしっ。
俺はカチカチとシャーペンの芯を出し、早速写し始めた。
洋海は優雅に紅茶を堪能している。
十分程度でノートは写し終わった。ふぅ、と息を吐くと、俺も紅茶に口をつけた。ん、ちょっとぬるくなっちゃったな。
俺は写し終わったノートを読み返しながら、ポツリと呟いた。
「そっかそっか。擬態、だったんだな」
「ん? 何のこと?」
俺の呟いた独り言を洋海が拾ってくれたので、今日下校途中に思った事を説明してみた。
「擬態。『動物が自分の身を守るために体の色や形を自然や他の生物に似せて溶け込む、成り切る』こと。……何だかさ、ホントは結構ドライなのに普段は笑顔で愛想よくしてる洋海がさ、まるで擬態してるみたいだ、とか、さっき勝手に思ったんだよね」
洋海は俺の言葉を聞いて、クスリ、と笑った。
「なるほど。相変わらず面白い事言うね、北斗は」
「そうか〜?」
洋海に褒められたので俺はへへへ、と笑いながら皿の中のお菓子を一つ摘んで頬張った。ノートも写し終わったし、お菓子美味いし、洋海に褒められたし、今俺はすこぶる幸せだ。
「でも、ちょっと、惜しい、かな」
「うん?」
俺はお菓子をもぐもぐ咀嚼しながら、キョトンと洋海に視線を向けた。惜しい? 何が?
「北斗の言ってるのは隠蔽擬態の話、だよね。うん。それは確かにそうなんだけどね。……実は擬態の中には更に、攻撃擬態、っていうのもあるんだよね」
はあ? 何の話? なんか授業ではそこまで習っていない、専門用語使われた! 難しくて意味わからねーぞ。
洋海は俺を見てふふ、と悪戯っぽく笑った。
「ほら、僕昆虫とか、そーいうの結構好きだからさ。たまたま知ってた言葉使っちゃっただけだから。北斗はわからなくて大丈夫だよ。まだ……ね」
んんん?
何だろう。なんかひっかかる言い方されてる気がするが……ま、いっか。俺、難しい話苦手だからなぁ。多分、聞き直したところで理解できまい。はい、終わり終わり〜。
俺は紅茶を飲みながら、何とは無しに窓の外に目を向けた。
「空が高くなったなー」
上を見上げながら、俺はポツリと呟いた。こんな風に空が高くなると、夏が終わるんだなあ、と感じる。そういえば最近は、朝晩は随分と涼しくなってきたしな。
「空が高くなる? ってどういうこと?」
隣に座っていた洋海が首を傾げた。
俺は洋海に伝わるかどうかわからないけど、もう少し具体的に説明してみる。
「なんか、雲の位置が高くなる感じ。夏の雲はもくもくしてて、境目がハッキリしてるんだけど。秋になると、雲がもっとぼやけたみたいになって、すうって透き通ったみたいになって。それで、空が遠くなるみたいで……高くなる」
うーん。自分で言ってても、感覚的すぎてわかりづらいと思うんだけど。
俺は昔から論理的に説明するのが苦手で、自分が直感として感じたイメージを他人に理解してもらうのは、いつも難しかった。
だが、いつだって洋海は、そんな俺の感覚的で曖昧な言葉を、丁寧に拾ってくれるのだ。俺はそんな洋海のさらりとした優しさを、出会って以来、隣で何度も味わっていて……何度も救われたような心地を覚えてきた。俺はこの、あまり他人に興味が無く合理的でありながら、俺の心の機微に耳を傾けてくれる、優しい幼馴染が。ずっと大好きだった。
「ふぅん……なるほどね……」
俺の言わんとした事が伝わったのかどうかはわからないが、そう言ってしばし、空を見上げている。
洋海の横顔、綺麗だなぁ……
空を見上げている、洋海の横顔。そんな洋海の横顔を見上げている、俺。
初めて会った時はむしろ俺よりも、身長低かったんだけどな。中一位で追い付かれて、気が付いたら追い越されていた。中学三年間における男子の成長速度は目を見張るものがあって。背がどんどこ高くなっちまって、声がどんどこ低くなっちまう。
まだ成長期途中で、完成された男性の肉体には成り得ていない、どこか中性的な不完全さもあるのだが。しかし俺よりも頭一つ分高くなった身長や、肩幅や、背中のラインや、腰の位置などの骨格は、明らかに男子のそれ、で。
四年前に見惚れてしまった可愛い少年は、柔和な雰囲気を身に纏い、柔らかく微笑む綺麗な青年に成長した。
もう洋海のことを女の子と間違えそう、などと思うことは、二度と無いだろう。
俺は見上げていた洋海の横顔から視線を外し、俯きながら、そっと唇を噛み締めた。
望むと望まざるとに関わらず、変化していく姿。
それは成長、という、喜ぶべきものであると同時に、少し寂しさを覚えるものでもあるのだった。
四年前に握り返された、あの柔らかく温かかった、小さな右手の感触は、もう変わってしまったのだろうか。俺はあとどの位、屈託無く洋海の隣に居る事が出来る?
そもそも三月には卒業、だし。
まだ高校がどこになるかとか、ハッキリとは決まってねーけど……でもまあ、別々になっちまうだろうなぁ。
俺と洋海では成績に開きがある。仕方ない。
俺はハァ、と息を吐いた。
はい、やめやめ〜。先の事とか、不確かな事を今うだうだ考えても仕方ない。
俺は気持ちを切り替えると、努めて明るく、洋海に声を掛けた。
「洋海、この後どーする? 帰る? まだいる?」
「もう少しいようかな。今日は塾も無い日だし」
「そうか? なら俺、お茶のおかわり貰ってくるから。ちょっと待っててー」
「お構い無く」
俺は洋海にニコリと微笑みながら、空になっていた茶器を手早くトレーに乗せ、立ち上がった。
部屋を出てトントントン、とリズム良く階段を下り始める。制服のプリーツがふわり、と広がりかけて階段が視界から消えたのを、「危ねっ」と、一旦足を止めて手で押さえ。 一瞬ひやりとした俺はふぅ……と安堵の溜息を吐いて、トレーをしっかりと持ち直し。 今度はゆっくりと、慎重に、階段を下った。