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「憑依しちゃったみたいなの」シリーズ

「憑依しちゃったみたいなの」

作者: 蓼川すぐり

「なんていうの? 憑依しちゃったみたいなの」


ここ数ヶ月、お嬢様は確かに別人だった。今まで驕り高ぶり、権力と威圧と時に暴力的な方法で他者を従わせていた、悪名高いミスタファお嬢様。お嬢様のお父上は現国王の弟君で、王族の次に高い身分をお持ちである。そんなサディール家のご令嬢たるお嬢様は、これ以上ないほどに気位が高くわがままで、自分と自分の家族と王族以外のすべての下の人間のことを、心底見下しているような人であった。


自分の身分を利用して、どんなものでも手に入れようとするし、自分に従わない者には平気で圧力をかけ恫喝し、使用人が粗相をするとひどい言葉で叱責し、時には手を上げることもある。


そんなお嬢様のことを身分を差し引いて、個人的に好きだなんて人はきっと誰一人いなかった。ご両親も、サディール家のご嫡男であるお嬢様の兄君のことばかりで、お嬢様のことなんか少しも顧みなかったし、婚約者である王太子からは心底嫌悪されていたし、あんな人だから心からの友人なんているわけもなく、当然使用人からは恐れられている。あんな、お嬢様を大切に思う者など、誰もいなかった。


「セレには気づかれてしまったのね。そうなの、わたしは本当のミスタファじゃなくて、実は別人なのよ」

「……と、いいますと?」


そんなお嬢様が、ここ数ヶ月、奇妙だった。常に不機嫌で、怒りっぽく、陰気で、誰に対しても威圧的で、口も悪く、誰からも嫌われていたお嬢様。それなのに、ここ数ヶ月だけは、まるで別人のように振舞った。明るく、親切で、気味の悪いほどに謙虚で、常に笑顔で、誰に対してもやさしい。


ご両親や兄君に「わたし、心を入れ替えて頑張ります。今まで、散々ご迷惑おかけしまして申し訳ありません」と言ったかと思いきや、「今までひどいことして、本当にごめんなさい」なんて使用人に頭を下げて謝罪行脚なんておっ始める。友人とも言えなかった他のご令嬢たちには謝罪の手紙をしたため始め、婚約者である王太子から贈られてきた義務的な贈り物に心からのお礼の手紙を書き、また改めて登城、直接謝罪と感謝をひたすらに述べ、「きっと挽回してみせますので、どうかこの愚かな婚約者を見捨てないでくださいまし」と真摯に頭を下げた。


王太子の婚約者として、また未来の王妃としてふさわしくあろうと常に意識し、思慮深さや教養深さ、特に慈悲深さを必死に身につけた。お嬢様の悪評ゆえに婚約破棄の動きもあったため、それはまさしく三顧の礼の如くであった。


お嬢様は、別人のようだった。というか、完璧に別人だった。お嬢様の従僕である私にまでやさしく笑いかけ、「散々わがまま言って来て、本当にごめんなさい。それでも傍にいてくれて、心から感謝しているわ」なんて満面の笑みで言われたときには、もう辛抱ならなかった。呆然とした表情で、私が尋ねると、お嬢様は暫く逡巡したあと、白状したのだ。実は別人であると。そして、私がさらに尋ね、返って来た答えが冒頭のセリフである。てへぺろなんて言葉が聞こえて来そうなほど、可憐でかわいらしい表情で、そう言った。


「本当のミスタファは、どうもどこかへ行ってしまったみたいなのよ……でも、このままミスタファのままだったら、きっといつか……誰かから恨みを買って……えーっと、陥れられたり、ね? した……と、思うのよ。だけど、もうそんなことにはきっとならないわ。わたし、がんばるから!」


名誉挽回! 汚名返上! と息巻くお嬢様、もとい別人は、言っていることはなんとも奇怪であり、大変物騒であったが、その顔はなぜか希望に満ち溢れていた。


「セレも、今までミスタファにたくさん意地悪されてたんでしょ? もう大丈夫だからね、わたしは絶対そんなことしないんだから! それにしても、ミスタファって強引よね、元々あなたはとある貴族の落胤だったのでしょう? それを顔が気に入ったからって、強引に自分の従僕にして縛り付けて、それも意地悪を言ったり叩いたりしてただなんて……! ほんと、ひとのことを何だと思ってたのかなあ」


大丈夫よ、なんて、微笑み掛けられて、私は思わず、泣いた。





その後、偽のお嬢様……彼女の本当の名前は、ナオミと言うらしいのだが……ナオミは、持ち前の明るさと粘り強さで、あれだけお嬢様のことを毛嫌いしていた王太子に婚約者として認めさせた挙句、それどころかすっかり籠絡して、今ではそれはもう仲睦まじく過ごされているらしい。使用人からは慕われ、令嬢の友人も増えたという。王太子から婚約者として寵愛されるようになったこともあり、公爵家の家族の仲も少しずつよくなっていると聞く。特に兄君なんかは、それまでわがままでかわいくないお嬢様のことなんか見向きもしなかったのに、今ではシスターコンプレックスまっしぐらだそうだ。


一度ついた悪評を払拭することは大変難しい貴族社会の中でさえ、最近では一目置かれ始めている。元々、尊い身分に加え、王太子妃になれるだけのスペックはあったのだ。それでも不安視されていたのは、高い身分であるということを差し引いても大変に傲慢であるという性格と、王太子が心底お嬢様を毛嫌いしていたことが大きかった。だが、その両方が、今ではすっかり解決されている。しかも王太子を始め、貴族の令嬢の友人という味方もいる。それにどういうわけか、王太子だけでなく他の貴族の子弟からも、何やら想いを寄せられているのだとか。


ナオミは、今までのお嬢様の総嫌われ状態から、一気に立て直し、今では国一番愛されている女性になっている。慈悲深いナオミは民にもやさしいらしい。孤児院や王立学校の訪問には大変に熱心らしい。今でこそ王太子の婚約者にすぎないが、既に公務の一環を担いつつあり、もはや王太子との成婚も秒読みで、果てはきっと慈悲ある博愛の素晴らしい王妃になるだろうなどと既に今現在から大変に期待が高いようだ。



まるで嫌われるために生まれてきたようなミスタファお嬢様と、国中の誰からも愛されるためにどこからかやって来たナオミ。


たとえ、元々はミスタファお嬢様のお身体であったとしても、本当に偽者なのはナオミの方なのだとしても、どんなに別人であっても憑依なんてものを誰も信じるわけがないし、何より皆が望んでいるのはどちらであるかなど、悲しいことに火を見るよりも明らかであった。


だから、私は、今はもう誰も思い出しても望んでもくれない、どこかへ行ってしまった、本当の、ミスタファお嬢様を、探しに行こうと思う。


「どうして、セレ? わたしの傍にいてくれないの!?」


ナオミには瞳に涙を溜めて必死に引き止められたが、私は何一つ心動かされなかった。たとえ、それがミスタファお嬢様の顔であっても、確かにミスタファお嬢様の身体であっても。ナオミは、ミスタファお嬢様ではない。私のミスタファお嬢様ではない。それ以上でもそれ以下でも、それ以外でもない。完全なる別人なのだ。


私を責めるように泣きながらナオミがなおも懇願するが、私は引くつもりもなかった。そんなナオミの肩を抱きながら、王太子がわあわあと泣きわめくナオミを慰めている。私を見るその目は、「たとえ従僕であろうと傍に男がうろちょろされると不愉快だ。彼女に従僕など必要ない。まったく忌まわしい。さっさとどこへなりとも行ってくれ」と隠すことなく語っていた。


未だ私を諦め切れないらしい強情なナオミのことは王太子に任せ、私は礼をして、さっさとその場を去った。



ナオミが王太子と結婚しようが、別の男を愛人に持とうが、慈悲深い妃になろうが、私にとってはどうでもいい。幸せになろうが不幸になろうが、生きようが死のうが、どうでもいい。公爵家もどうでもいい。私がお仕えしたのは公爵家ではない。ただひとり、ミスタファお嬢様だけだから。あの日、私が生みの母にも種提供をした貴族の男にも捨てられ、雨の中、道端で死にかけていた日。親に捨てられ、全てに絶望し、泥にまみれ薄汚かった私に手を差し伸べてくれたのは、世界でたったひとり、ミスタファお嬢様だけだった。白く、美しい手が汚れるのも気にせず、泥だらけで傷だらけだった私の手を絶望から引っ張り上げて言った。


「どうせ死ぬのなら、誰かの手によってではなく、自分の誇りのために死になさい」


そう言ったミスタファお嬢様の瞳の中にはぎらぎらとした強さと、ひとかけらの弱さがあった。そんなミスタファお嬢様の脆くも美しい瞳に、私は一瞬で魅入られた。


その日、私は自分に纏わり付いていた絶望と泥を落とされ、きれいな服を着せられ、あたたかい食事と、豪華ではないがやわらかいベッドを与えられた。お嬢様に拾われた私は、その日からお嬢様のためだけの、忠実な従僕になったのだ。


お嬢様は決してやさしいひとではなかった。自分にも他人にもとても厳しいひとだった。ほんの少しでも粗相をすると、厳しく叱責されたし、時には叩かれたときもある。お嬢様は本当に厳しいひとだった。少しの間違いも許さない。でもそれは、お嬢様が誰より誇り高いひとだったからだ。やさしさや、甘えというものを知らないひとだった。誰も、お嬢様にそれを教えてやらなかった。少しの間違いも許されなかったのは、本当はお嬢様の方で。幼いお嬢様は勉強や習い事を必死に頑張っていたが、それをご家族が褒めたことは一度もなかった。お嬢様がお生まれになったのは、「誇り高い」公爵家だったからだ。求められるものは大きく、少しでも間違えれば足元を掬われてしまう。やさしさや甘えは許されなかった。お嬢様にとって、自身の誇りだけが、全てだった。お嬢様を立たせ、生かしていたのは、王弟一家の公爵家の令嬢であり、王太子の婚約者であるという、その誇りだけだった。お嬢様にとって、誇りこそが何よりも大切なものだった。


あの日、あの時の言葉が、私に言ったものではなく、お嬢様が自分に言い聞かせていたものだったと私が知るのはずいぶん後になる。誰よりも真面目で、自分にも他人にも厳しく、気位が高い、そして可哀相なほどに不器用なお嬢様。誇りだけが、本当は脆く不器用やお嬢様を支えていた。そんなお嬢様が、いつか誇りよりも大切なものを見つけられますようにと、私はずっと傍で願って来た。



……それなのに。何が原因で、捻れたのかはわからない。ある日、お嬢様はどこかへ消えてしまった。別人の魂をその身体に残して、どこかへ行ってしまった。皆、本当のミスタファお嬢様のことを思い出してもくれない。誰もが忘れてしまった。それどころか、今のお嬢様が本当のお嬢様ではないことに、ご家族も王太子も、誰一人気づきもしない。それが、今まで誰もミスタファお嬢様のことを、ちゃんと見ていなかったという証拠であろう。


たとえ、たとえだ。本来のお嬢様がどんなに皆から嫌われていて、そしてナオミがどんなに皆から愛される器であったとしても、だ。あれは、お嬢様の身体だ。お嬢様の人生だったはずだ。すべてがうまくいって、皆が幸福であって、まるで物語の大団円のようであったとしても。それでも。


本当のお嬢様はどこへ行ったというのだ? 本当のお嬢様が、どうして、消えなくてはならなかったのか? どうして、その先も続くはずだった人生を奪われなくてはならなかったのか? たとえ、本当のミスタファお嬢様を皆が望んでいなかったとしても、それでもお嬢様が人生を奪われるだけの悪いことを本当にしたというのだろうか? 嫌われ者のお嬢様を犠牲にするのは当然のことだとでもいうのだろうか? 私は、それが悲しくてならない。


たとえ、皆がミスタファお嬢様を忘れても、私だけは忘れられるわけがない。あの日、あの時、私の汚れた手を救い上げてくれたのは、たったひとり、ミスタファお嬢様なのだ。決して、ナオミではない。たとえ、皆がミスタファお嬢様を望まなくても、私は心からあのお方を、あのお方だけを望んでいる。私にとって、ミスタファお嬢様だけが、すべてだったのだから。



だから、皆が忘れた本当のミスタファお嬢様を、私は探しに行こうと思う。当てもない、どこにいるかも分からない。お嬢様の魂は、もう既に死んでいるかもしれない。それでも、私は、私だけはこのままお嬢様を諦めない。あの日のお嬢様の言葉のように、私は、私の誇りのために死にたいと思う。いや、私の誇りよりも、大切なもののために。



我々の宗教観では、肉体を捨てた魂は精霊になるのだという。私はあまり敬虔な信者ではないし、あまり学もないので、詳しくは知らないが。けれど、数多のしがらみによって縛り付けられていたあの肉体を捨てたあと、もしも本当にお嬢様が精霊になっていたのなら。必ず見つけ出して、今度は私がその手を引きたい。誇りよりも大切な、ミスタファお嬢様の手を。そして、お嬢様に対して、私は、こう問いたい。



お嬢様、誇りよりも大切なものは、見つけられましたか?



あの日のように、互いの手をぎゅっと握りしめて。



悪役令嬢にも大切なものが、それまでの人生で築きあげてきたものがあるはずだよなあ、譲れない、負けられない何か誇りのようなものが。それを悪なのだから当然のようにあっさり切り捨てられる物語上の正当性のようなものに、ひどく恐れを感じてしまいます。物語の悪役にとって誇りや大切なものを拾い上げてくれるような、そんなキャラクターが他に存在してくれれば少しは救われるのかなあと、そんなことを思って書きました。

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[良い点] 文がとても綺麗で読んでて気持ちよかったです。 [一言] ミスタファお嬢様に味方がいたことにほっとしました。 セレがお嬢様に救われたシーンではつい泣いてしまいました。 読んでよかったなと思え…
[良い点] 「私」の感じた、「ミスタファお嬢様」の死のおぞましさのようなものが感じとれてぞわりとしました。 自分は不完全で理解されないプライドやこだわり、信念のあるキャラクターを贔屓してしまうたちな…
[一言] こういうのに賛同してしまう辺り、自分は主人公全てが嫌いなのかもしれない。
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