ウィーンの森
低い雲を抜けて降下した飛行機は、小雨模様のウィーン国際空港に着陸した。
ドイツ語のアナウンスの合間から、ヨハン・シュトラウス二世のワルツ『ウィーンの森の物語』が聞こえてきた。のびやかで陽気なそのメロディは、しかし、僕の心の奥深くに沈めておいた熾火のような感情に一瞬で火をつけた。
青春時代の終わりとともに別れを告げた故郷の街に、僕は五年ぶりに帰ってきた。故郷といっても、ウィーンに家があるわけでも、家族が住んでいるわけでもない。そこにはかつて、自分がいたかった場所があったというだけだ。そして、その場所への追憶は、不意に僕を暗くて深い後悔の森に引きずり込んだ。
「……大丈夫ですか」
頭上から聞こえた声に、僕はゆっくりと顔を上げる。キャビンアテンダントの制服を着た女性が、心配そうに僕を見下ろしていた。飛行機はすでにハンガーに到着していて、乗客はみな席を立っていた。
「ええ、大丈夫です。ありがとう」
僕がそう答えると、彼女は驚いたように息を飲んだ。
「アルバート・シュレーディンガー博士ですよね。ウィーンへはご旅行で?」
彼女の問いかけに、僕は頭をふった。
「いいえ、仕事です。それと……」
あのとき立てなかったあの場所は、いまどうなっているのだろう。それを確かめてみようと、僕は思った。
「なくしたものを、探しにきたんです」
*
ものごころがついたときから、僕はずっとその施設にいた。
親も家族も自分の家も知らない僕は、子どもはこういう場所で育つものだと思っていた。それが間違いだと知ったのは、六歳になった九月、グルントシューレに入学する直前だった。僕は親から捨てられた子どもだったのだ。悲しいという感情は湧かなかった。僕は、なにかを失ったわけではなく、さいしょから何も持っていなかったのだから。
僕は、外で遊ぶことよりも、本を読んだり勉強したりすることが好きだった。だから学校の成績はいつも良くて、グンルトシューレを卒業すると、迷わず進学校であるギムナジウムに入学した。どの科目も得意だったが、とくに数学の美しさと物理学の純粋さに惹かれた。学問の世界で生きていこうと心に決めた僕は、ギムナジウムを卒業するとすぐにウィーン大学に進学した。
僕が湯川泉美に出会ったのは、そのころだった。
ライラックの花が香るトラムの乗り場に、彼女は途方にくれたように立っていた。通学に使っているトラムで最近よく見かけるようになった少女で、黒髪とダークブラウンの瞳が神秘的な印象だった。
「パスをなくしてしまったの」と、彼女はたどたどしいドイツ語で告げた。
住所を尋ねると僕の暮らす施設の近くだったので、僕は彼女を家まで送りとどけた。迎えに出てきた彼女の母親は、僕をいぶかしげに観察していたが、事情を説明すると穏やかな笑顔を浮かべた。
「越してきたばかりで、事情がよくわからなくて、失礼しました。泉美、お礼を言いなさい」
えっと、とすこし詰まったあと、イズミは「ダンケシェン」と告げて深々と頭を下げた。
その日からイズミは、僕を見かけると笑顔で駆け寄ってきて、ギムナジウムでの出来事を喋ったり、あたらしく憶えたドイツ語を披露してくれたりした。きょうだいがいなかった僕には、イズミが妹のように思えたし、ひとりっ子だった彼女も、僕を兄のように思っていたようだ。
「アルバートお兄ちゃん」
イズミは、いつしか僕をそう呼ぶようになった。
僕とイズミは、よく連れだってウィーンの森に出かけた。
住んでいた場所から近かったこともあって、ハイリゲンシュタット公園やベートーベンガングは僕たちのお気に入りだった。
小川に沿った細道や白樺の疎林を、僕たちは手をつないで歩いた。春は草木の芽吹きに胸をときめかせ、夏はまばゆい深緑の木洩れ日を浴び、秋は落ち葉を踏む足音に耳を澄ませ、そして冬は積もった雪の白さに眼を細めながら。ときには足を伸ばしてカーレンベルクの丘に登り、風に吹かれながらブドウ畑の彼方にひろがるウィーンの街並みとドナウ川を眺めた。
そうして季節はめぐり、出会ったときは幼い少女だったイズミも、すこしずつ背と髪が伸びて、からだはきれいな丸みをおびていった。つぼみが膨らむように成長していくイズミを、僕はしだいに眩しく感じるようになっていた。
父親が外交官だったイズミの家はいわゆる上流階級で、本来なら僕とは住む世界が違う子どもだった。イズミはいつも無邪気に僕を慕ってくれたから、僕はそのことに長いあいだ気付かないでいた。
僕がはじめてイズミの家に招かれたのは、彼女が十三歳になったときのバースディパーティだった。いちばんいい服を着て行ったが、盛装をした招待客と見比べるとひどくみすぼらしいものだった。歓談する人々の話題にも加われなかったし、イズミと父親が演奏するバイオリンソナタも知らない曲だった。
パーティに溶け込めないでいる僕に気を使ったのか、イズミの母親が話しかけてきた。 彼女は、僕の生い立ちや今の暮らしを聞くと表情を曇らせて言った。
「施設で育ったなんて、ほんとうにかわいそうだわ」
彼女に悪意はなかったのだろうが、かわいそうという言葉には、僕たちのような人間を無条件に見下す響きがあった。オードブルに伸ばしかけていた僕の手が、空中をさまよう。彼女はイズミを引き寄せると、言葉を継いだ。
「この子はまだ世間知らずだから、貴方とは話が合わないでしょう。無理して付き合ってもらわなくてもいいのよ」
イズミの年齢を思えば、それは母親として当然の心配だったのだろう。けれどその言葉は、彼女の思惑を超えて僕を深く傷つけ失望させた。
僕はカウチに腰を下ろして目を閉じた。リビングに満ちた空気そのものが、僕とイズミとの間にある大きな壁のように感じた。
「アルバートお兄ちゃん……」
耳元で、イズミの声がした。目を開けると、彼女が心配そうに僕を見ていた。
「どうしたの? 寂しそう」
「そうだね」と僕が答えると、イズミは目を輝かせてとなりに座った。
「じゃあ、イズミがずっといっしょにいてあげるね」
約束だよ、と言ってイズミは僕の小指と彼女の小指を絡ませた。
イズミはいつもそんなふうに、まっすぐな優しさを僕に向けてくれた。けれどそれは、純粋であるがゆえに、ときにはひどく残酷でもあった。
そう、あのときも、そうだった。
僕は、大学を卒業すると同時に施設を出て、国立歌劇場の近くにあるカフェでアルバイトをしながら仕事を探しはじめた。
後期ギムナジウムに通うようになったイズミは、以前のように自由に外出ができなくなり、僕たちが会える時間は少なくなった。そのかわりにイズミは、通学の帰路によくカフェに寄り道をしてきた。彼女は、アルベルティーナ広場に面したテラス席で、ショコラーデトルテをつつきながらメランジェを飲むのが好きだった。
秋の日の午後、イズミがいつもの席でメランジェを飲んでいると、不意に風にのってシュテファン寺院の鐘の音が聞こえてきた。彼女は、カップを両手で包み込むように持ちながら、目を閉じてその音に聞き入った。祈り、憧憬、あるいは思慕だろうか。僕にはうかがい知ることもできない心情が、イズミの横顔にかすかな陰影を浮かび上がらせていた。風に黒髪が揺れるたびに、その横顔は微妙に表情を変えた。僕は言葉を失い、彼女を見つめることしかできなかった。
鐘の音が止むと、イズミはひとつため息をついてから、口をひらいた。
「オーパンバルのデビュタントに出なさいって言われているの。アルバート兄さん、わたしといっしょに出てくれる?」
オーパンバルのデビュタントに出る、それはイズミが正式に社交界にデビューするということだった。僕は軽い眩暈をおぼえて、頭を振った。
「ああいうのは、恋人と行くものだよ」
「だから、アルバート兄さんといっしょに行きたいの。それとも、わたしじゃだめかな」
期待していなかったと言えば嘘になる。けれど、イズミの言葉と気持ちをどう受け止めればいいのか、僕にはわからなかった。
「ダンスなんてやったこともないんだ。無理だよ」
僕は、そう言ってその場をしのいだ。ダンスが踊れないというのはほんとうだったが、それ以上に、僕はイズミに気おくれしていたのだ。
けれどイズミは、僕の言葉を真に受けてしまった。僕を自宅に連れていくと、彼女はリビングのオーディオを操作した。大きなスピーカーから、ヨハン・シュトラウス二世の『ウィーンの森の物語』が流れ出した。
それからイズミは、僕の手をとってダンスの手ほどきをしてくれた。ナチュラル・ターン、チェンジ・ステップ、そしてリバース・ターン。イズミの柔らかな掌の感触と大人びた表情に、僕の胸は大きく鼓動を打った。
何回目かのターンを終えたとき、僕とイズミの視線が正面からぶつかった。イズミの白い頬が、あざやかな薔薇色に染まった。
イズミといっしょに踊りたい、彼女の隣に立っていたい。僕は、心からそう思った。
けれど、僕たちが揃ってオーパンバルに出ることはできなかった。イズミは順当にオーディションに合格したが、僕は不合格だった。ダンスの稚拙さではなく、出場にふさわしくないというのが、その理由だった。イズミは、アルバート兄さんといっしょでなければわたしも出ないと言い張って両親を困らせたらしいが、結局は他のパートナーと組んで出ることになった。僕は、あふれそうになる悔し涙を、唇をかみしめてこらえた。
オーパンバルが間近に迫ったある日、僕のもとにジュネーブにある欧州素粒子物理学研究所への採用が決まったという知らせが届いた。僕は、イズミに黙ったままで出発の準備を済ませた。
そして、イズミのデビュタントの日に、僕はウィーンを発つことにした。イズミの家を訪ね、白いドレスに身を包んで黒髪に銀のティアラを付けた彼女に、僕は別れを告げた。
「アルバート兄さん、ジュネーブに行っちゃうって、ほんと?」
「ああ」
「どうして、いままで話してくれなかったの?」
僕は、答える言葉がみつからなかった。どう話してもイズミを傷つけ、なにを言っても嘘になりそうな気がした。
「欧州素粒子物理学研究所か。アルバート兄さん、学者になるんだ」
もちろん研究所に入れたからと言って、すぐに学者になれるわけではなかった。博士号を持たない僕のようなものは、とくにそうだった。
僕があいまいにうなずくと、イズミはダークブラウンの瞳をまっすぐに僕に向けた。
「じゃあ、わたしも学者になるわ。そしたら、またアルバート兄さんといっしょにいられるよね」
こんなときですら、イズミはやはりイズミだった。僕にはもう、逃げるように彼女の家をあとにすることしかできなかった。
飛行機がウィーン国際空港を離陸したとき、僕は生まれてはじめて、大事なものと大事な場所を失ったのだと思った。
研究所に入所した僕は、ひたすら仕事に打ち込んだ。
博士号持ちの研究員たちの間で、僕はのし上るためのあらゆる努力をした。遊びには見向きもせず、寝食を惜しんで勉強をした。所内の有力者に近づいてコネを作り、同僚や先輩を押しのけたり出し抜いたりもした。僕に対する風当たりは強くなったし、政治家だの物理屋だのと僕を悪く言う声も多くなったが、歯を食いしばって耐えながら成果を上げ続けた。
それはまるで、失ったなにかを忘れるために、あるいは届かない何かを追いかけるために、全力で走り続けるような日々だった。イズミはときおり手紙をくれたが、返事を出さないままでいるうちに、いつしか手紙はこなくなっていた。
そして入所から三年がすぎたとき、僕はついにひとつの研究チームを任された。それからほどなく、僕の研究チームは画期的な実験に成功した。それは素粒子物理学のみならず理論物理学の理論を書き換えるほどの成果だったから、マスコミにも大きく取り上げられ、記者会見が行われることになった。
会見が終わりに近づいたころ、ひとりの女性記者が挙手をして立ち上がった。ミディアムショートの黒髪と、好奇心に満ちたような大きな瞳が印象的だった。日本人の名前を名乗った彼女は、明快な言葉で質問をしながら、ダークブラウンの瞳を僕に向けてきた。イズミとよく似たまっすぐな眼差しが、僕の心の奥深くを射抜いた。
「アルバート兄さん」
僕に呼びかける声が、耳の奥にこだました。
――イズミ、僕は……。
白いドレスを着て銀のティアラをつけたイズミの姿が、僕の脳裏にあざやかによみがえった。
――君とおなじ場所に立てたのだろうか。
司会者が記者会見の終わりを告げる声が、遠くに聞こえた。
*
ジュネーブでの記者会見を終えた僕は、休む間もなくウィーンへの出張を命じられた。この街に本社をおく富裕層向けのファンドが、僕の研究に出資したいと言うのだ。僕は当然のように、そのプレゼンを任された。
空港から地下鉄とトラムを乗り継いで、予約しておいたホテルに向かう。
初冬にさしかかったウィーンの街は、陰鬱な曇り空の下にあった。バロック様式の古いビルが建ち並ぶ石畳の街路を自動車と辻馬車が行き交い、舗道のマロニエ並木はその葉を黄色く染めていた。
翌日に行われた投資顧問会社でのプレゼンは順調に進み、パールホワイトの髪とオッドアイが印象的な若い女性のオーナーは多額の出資を約束してくれた。
ウィーンでの仕事は、これで終りだった。ジュネーブ行の便は明日の夕方だから、まる一日の自由な時間ができた。
僕は、かつて働いていたカフェに立ち寄って、窓際の席でモカを注文した。イズミのお気に入りだったテラス席は、秋の終わりとともに片付けられていた。
モカを飲み終えたとき、シュテファン寺院の鐘の音が聞こえてきた。その音に背中を押されるように、僕はカフェを出た。
トラムに乗って、僕はその場所に向かう。ウィーンの森のすぐ近く、あの日、大事なものをなくした場所――イズミの家だ。
そこにイズミがいるのかどうか、いたとしても会うかどうか、僕の心は定まっていなかった。あれから五年、とうに二十歳をこえた彼女は、新しい恋をして僕のことなど忘れてしまっただろう。あるいは、すでに結婚して家庭を持っているかもしれない。そう思いながらも、僕の中にかすかな期待はあった。もしかしたらイズミは、まだあの約束をおぼえてくれているのではないか……。
けれど、イズミの家で僕を待っていたのは、厳しい現実だった。そこにはもう、だれも住んでいなかった。玄関には入居者を募る看板が掲げられ、雑草が生えた庭の木にはクモが巣をかけていた。
僕があの日になくしたものは、やはりもう二度と手の届かないものになっていたのだ。だが、それで良かったのかもしれない。僕は、麻酔を打たれたように何も感じなくなった心に、そう言い聞かせた。
気がつくと、僕はウィーンの森に来ていた。
昨日までの曇天が嘘のように、空は晴れ渡っていた。かつてイズミといっしょに歩いたハイリゲンシュタット公園やベートーベンガングは、あのころと同じたたずまいでそこにあった。
舞い散る落ち葉も、せせらぎの音も、鳥の声も、なにもかもがあの日のままだった。そう、失われたものなどないのだ。僕には、もともとなにもなかったのだから。
けれど、そう思えば思うほど、僕の胸は苦しくなった。足をとめて、太いマロニエの幹にからだをあずける。もう、どこに向って歩けばいいのかわからなかった。うつむいて目頭を押さえる。いくらこらえても涙があふれた。
そのとき、澄んだ秋の風が、季節はずれのライラックの香りを運んできた。
「アルバート……兄さん?」
なつかしい声が、たしかにそう告げた。僕は、弾かれたように顔を上げた。
涙でにじんだ並木道に、彼女は立っていた。ファーの付いたキャメルの上着に、白いふんわりとしたスカート。長く伸びた黒髪が、風に揺れて流れる。ダークブラウンの瞳が、大きく見開かれていた。
彼女――イズミは、僕に駆け寄ると、抱きついて胸に顔をうずめた。甘い香りが、僕の鼻孔をくすぐった。
イズミは、あのときの約束を忘れていなかった。日本に帰国した両親のもとを離れて、働きながらウィーン大学で物理学を勉強しているのだと、声を詰まらせながら話してくれた。
「あのころのわたしは、背伸びをしているだけの、なにも知らない、なにもできない子どもだった。いろいろ経験して、それがわかったわ。今ならたぶん、アルバート兄さんと同じ場所に立てると思うの」
僕は、目を閉じておおきく息を吸い込んだ。かすかに土と落ち葉のにおいがまじった空気とともに、かつてイズミとともに過ごした日々と、これから訪れるであろう日々が、僕の中に一気に流れ込んできた。
不意に、耳の奥にウィンナ・ワルツが鳴り響いた。夜明けの森に響く狩人の角笛が、早朝の小鳥のさえずりが、オーケストラによって奏でられ、僕たちを舞踏会に誘う。ああ、これは……。
「イズミ、聞こえるかい、『ウィーンの森の物語』が」
僕の腕のなかで、いつもそこにいて欲しい人が、そっとうなずく。
僕は、イズミの手をとった。あのころ毎日のように触れていた少女の手は、やわらかくてすこし冷たい大人の女性の手になっていた。
イズミがくるりとターンをする。彼女の白いスカートがふわりと膨らんだ。
「僕といっしょに踊ってくれないか。これからも、ずっと」
ようやく言えたその言葉に、イズミは笑顔で「はい」と答えた。
そこは、僕たちだけのオーパンバルになった。森を抜ける風はオーケストラが奏でるワルツで、舞い散る木の葉はデビュタントのカップルを祝福するゲストたちのダンスだ。
そして……。
僕とイズミは、さいしょのステップを踏み出した。