私の顔を覚えて
昔から、人の顔を覚えられなかった。
目や鼻や口が見えないわけではない。それぞれの形はわかるのに、それらをひとつの顔として捉えられないのだ。
目を見ているうちに鼻が曖昧になり、口元へ視線を移すころには、それまで見ていた目の形が抜け落ちている。
だから、人の顔が頭に残らない。
きれいだとか、醜いだとか、そういう顔全体の印象も持てなかった。
そのぶん、俺は顔以外のものを覚えるのが得意になった。
上司は右肩を少し下げて歩く。隣の席の佐藤さんは、考え事をするとペンを三回鳴らす。近所のコンビニの店員は、「ありがとうございました」の「とう」だけ妙に声が高い。
三年付き合った恋人には、待ち合わせのとき、必ず赤い鞄を持ってきてもらっていた。
けれど、一度だけ、彼女は違う鞄で現れた。
駅前で一時間も俺を待っていたらしい。何度も目が合ったのに、俺は彼女だと気づかず、その前を通り過ぎた。
「顔を見ても、私だってわからないんだね」
そう言って、彼女は泣いた。
それから間もなく、俺たちは別れた。
人を好きになるのに、顔なんて関係ないと思っていた。
けれど、好きな人の顔を覚えられないということは、相手にとって、自分に顔がないのと同じなのかもしれない。
◇◇◇
口裂け女に出会ったのは、十一月の終わりだった。
その日は残業で、会社を出たのは夜の十一時を過ぎていた。
冷たい雨が降っていた。
終電に間に合わせようと、普段は使わない住宅街の路地へ入った。古い家々の明かりは消え、濡れたアスファルトの上で、街灯だけが白く滲んでいた。
路地の真ん中に、女が立っていた。
赤い傘を差し、膝まである白いコートを着ている。長い黒髪と、顔の半分を覆う大きなマスク。
俺が右へ避けると、女も右へ動いた。
左へ避けると、女も左へ動いた。
「あの、通してもらえますか」
声をかけると、女は傘をわずかに上げた。
マスクの上に、細い目が見えた。
「ねえ」
若い女の声だった。
「私、きれい?」
子供のころに聞いた噂が、鮮明によみがえった。
夕暮れの道に現れる、マスクをつけた女。
きれいだと答えれば、女はマスクを外して「これでも?」と聞いてくる。きれいではないと答えれば、その場で殺される。
普通と答える。
ポマードと三回唱える。
べっこう飴を投げる。
助かる方法はいくつも聞いたはずなのに、どれが正しいのかわからなかった。
「私、きれい?」
女が、もう一度尋ねた。
傘を打つ雨音に混じって、金属の擦れる音がした。
女の右手が、コートのポケットから出ている。
その手には、大きな鋏が握られていた。
「……わかりません」
ようやく出たのは、それだけだった。
女の首が、ゆっくりと左へ傾く。
「わからない?」
「俺、人の顔をうまく見られないんです」
「見えていないの?」
「目や鼻は見えます。でも、それをひとつの顔として捉えられなくて。きれいかどうかも、俺にはわかりません」
女はしばらく黙っていた。
やがて、赤い傘の柄を二度握り直した。
そして、耳にかけていたマスクの紐を外した。
女の口は、頬まで大きく裂けていた。
傷口の内側に、濡れた歯が並んでいる。裂け目の端から細い血の筋が顎を伝い、白いコートに赤い点をつくった。
「これでも?」
女の口が動くたび、傷が開いた。
吐き気が込み上げた。
恐ろしい。
そう思うことはできる。
けれど、その顔がきれいなのか、醜いのかは、やはりわからなかった。
「……わかりません」
正直に答えた。
女の目が細くなる。
鋏を握る指に力が入り、刃がわずかに開いた。
殺される。
そう思った。
だが女は、俺を殺さなかった。
鋏を下ろし、道の端へ寄った。
「行けば」
俺は女の横を通り抜けた。
すれ違った瞬間、雨に濡れた鉄のような匂いがした。
背後から鋏の音が聞こえた気がして、足を速めた。やがて歩いてはいられなくなり、駅まで一度も振り返らずに走った。
◇◇◇
翌日の夜、女は駅のホームにいた。
赤い傘も白いコートも身につけていなかった。
黒い服を着て、柱のそばに立っていた。
最初は気づかなかった。
けれど電車を待つ俺の前へ来ると、女はマスク越しに尋ねた。
「私、きれい?」
昨日と同じ声だった。
「昨日の人ですか」
「どうしてそう思うの?」
「声が同じだから」
女はマスクを外した。
「これでも?」
「わかりません」
女は何もせず、到着した電車へ乗り込んだ。
俺は乗らなかった。
閉じていく扉の向こうで、女はずっとこちらを見ていた。
三日目は、コンビニの前に現れた。
髪が肩まで短くなっていた。
四日目は、マンションのエレベーターに乗っていた。
眼鏡をかけ、灰色のスーツを着ていた。
五日目には、声まで変えていた。
「私、きれい?」
低く掠れた声で尋ねられ、俺は答えに迷った。
姿も声も、それまでとは違う。
それでも女は、最初の夜に傘の柄を握ったときと同じように、質問する直前、鞄の持ち手を二度握り直した。
首を傾ける方向も同じだった。
「あなたですね」
俺が言うと、女は初めて笑った。
マスクの下で、裂けた口が横へ広がるのがわかった。
「顔はわからないのに?」
「仕草が同じです」
「服も髪も声も違うのに?」
「服や髪型だけで、その人が決まるわけじゃないでしょう」
女は黙り込んだ。
やがて、独り言のように言った。
「顔だって、その人のすべてじゃないのかもしれないね」
その日はマスクを外さなかった。
◇◇◇
女は、毎晩のように現れた。
危険なものだとわかっているのに、俺は次第に女を待つようになっていた。
女は必ず同じ質問をした。
俺は必ず、わからないと答えた。
それが終わると、ときどき、ほかの話もした。
「顔がわからないのに、どうやって人を覚えるの?」
「声や歩き方で」
「それだけ?」
「癖とか、匂いとか。よく使う言葉とか」
「好きな人も?」
「同じです」
「好きな人の顔も、覚えられない?」
「覚えられません」
女は少し考え、マスクの上から自分の口元に触れた。
「便利ね」
「不便ですよ」
「いいえ、便利」
その声には、はっきりとした苛立ちが混じっていた。
「あなたは、顔に騙されない」
「騙される?」
「人間は、口で嘘をつくから」
女は、周囲を行き交う人々へ目を向けた。
「私にはね、みんな同じ口に見えるの」
「同じ口?」
女はマスクの上から、口の端を指でなぞった。
「私と同じ。どこまでも裂けている」
「そんなふうには見えません」
「あなたには、まだ見えないだけ」
マスクの上で、女の目がかすかに笑った。
「私を見て、きれいだと言う人は、目では醜いと言っている。醜いと言う人は、私ではなく傷だけを見ている」
「だから殺すんですか」
「だって、どちらも私を見ていないでしょう?」
女は穏やかな声で答えた。
傘の陰では、鋏の刃が街灯を反射していた。
翌日から、女は姿を見せなくなった。
一日。
二日。
三日。
会わずに済んで安心するはずだった。
それなのに帰り道を歩くたび、俺は赤い傘を捜していた。
四日目の夜。
女は、小さな公園のブランコに座っていた。
雨は降っていなかったが、閉じた赤い傘を抱えていた。
俺は自分から声をかけた。
「今日は聞かないんですか」
女が顔を上げた。
「何を?」
「私、きれい、って」
しばらくの沈黙のあと、女は小さく笑った。
「聞いてほしいの?」
「そういうわけではありません」
「私はね、忘れられないの」
女はブランコを揺らしながら言った。
「私の顔を見て生き残った人は、死ぬまで忘れられない。夢の中にまで私が出てくる」
鎖が軋み、甲高い音を立てた。
「でも、覚えているのは傷だけ。みんな、裂けた口を私の顔だと思っている」
女がこちらを向く。
「あなたは、私の顔を覚えていない」
「すみません」
「謝らないで。だから、あなたを殺さなかったの」
女は立ち上がり、俺の前まで来た。
「顔を覚えていないのに、あなたは私だとわかる」
「仕草や声は覚えていますから」
「なら、顔も覚えて」
女はマスクを外した。
何度見ても、凄惨な傷だった。
「傷だけじゃなくて、私の顔を覚えて」
右目の下に、小さなほくろがあった。
その夜、初めて気づいた。
◇◇◇
それから、奇妙な変化が起き始めた。
女の目だけが、頭に残るようになった。
細く、目尻がわずかに下がっている。右目の下には、小さなほくろがある。
次に、鼻の形を覚えた。
女は会うたびにマスクを外した。繰り返し顔を見せられるうちに、輪郭や傷の形まで少しずつ記憶に残るようになった。
やがて、マスクをつけていても、見えているわずかな部分だけで彼女だとわかるようになった。
同時に、ほかの人間の顔も少しずつ見分けられるようになった。
昨日話した同僚が、翌日も同じ顔をしている。
当たり前のことが、俺には奇跡だった。
けれど、顔が見えるようになるにつれて、人の口元が気になり始めた。
笑うとき、誰もが不自然なほど大きく口を開く。
電車の窓に映る乗客の口が、実際より横へ長く伸びて見える。
街を歩いていても、マスクをつけた人ばかりが目につくようになった。
気のせいだと思った。
見慣れなかった顔を、急に意識するようになったせいだと自分に言い聞かせた。
◇◇◇
女と出会ってから、二週間が過ぎた夜。
駅前は大勢の人で混雑していた。
雨が降り、色とりどりの傘が歩道を埋めている。
その中に、女がいた。
黒い傘を差し、青いコートを着ている。髪は短く、眼鏡をかけ、顔を白いマスクで隠していた。
これまでとは、まるで違う姿だった。
それでも、一目でわかった。
「待って」
俺が呼びかけると、女は足を止めた。
人混みの向こうから、ゆっくりと振り返る。
「どうして、私だとわかったの?」
「顔でわかりました」
女の目が大きく開く。
「私の顔を覚えたの?」
「はい」
見えているのは、眼鏡の奥の目だけだった。
それでも、そのわずかな部分が、記憶の中にある彼女の顔と確かにつながっていた。
女は人混みを抜け、俺の前へ立った。
「なら、答えて」
首を左へ傾ける。
「私、きれい?」
以前の俺なら、わからないと答えただろう。
けれど、今は違う。
俺は彼女の目を知っている。
問いかけるとき、少しだけ怯えた目をすることも。
寂しいとき、傘の柄を二度握ることも。
笑う直前、右の頬をわずかに引きつらせることも知っている。
「きれいです」
俺は答えた。
女は、ゆっくりとマスクを外した。
頬まで裂けた口が現れる。
「これでも?」
「はい」
「怖くないの?」
「怖いです」
「それでも、きれい?」
「俺が覚えたのは、その傷だけじゃありませんから」
女はしばらく俺を見つめていた。
やがて、裂けた口で笑った。
その笑顔を、俺は心からきれいだと思った。
「ありがとう」
女が囁いた。
「これで、やっと私じゃなくなる」
「どういう意味ですか」
女は答えなかった。
代わりに強い風が吹き、視界が白く揺らいだ。
思わず目を閉じる。
再び開けたとき、女はいなかった。
慌てて周囲を見回した。だが、黒い傘も青いコートも、人混みのどこにも見当たらない。
さっきまで女が立っていた場所だけが、雑踏の中にぽっかりと穴を開けたように見えた。
呼び止めるべきだったのか。
追いかけるべきだったのか。
答えが出ないまま、その場に立ち尽くした。
足元に、血のついた白いマスクと、大きな鋏が落ちていた。
まるで、誰かの忘れ物のようだった。
けれど、それだけが、あの女が確かにここにいた証拠だった。
拾う気にはなれなかった。
俺は一度だけ女の消えた先へ目を向け、それらを残したまま家へ帰った。
◇◇◇
翌朝、目が覚めると、完全に人の顔を見分けられるようになっていた。
鏡に映る自分の顔が、ひと目で自分だとわかる。
テレビに映るアナウンサーも、駅ですれ違う人々も、全員が違う顔をしている。
世界には、こんなにも多くの顔があったのか。
会社へ行くと、同僚たちの顔もわかった。
上司には太い眉があり、佐藤さんは左の頬に小さなえくぼがあった。
「おはようございます」
佐藤さんが笑いかけてきた。
その口が、頬まで裂けた。
赤い傷の内側に、歯がびっしりと並んでいる。
俺は椅子から立ち上がった。
「どうしたんですか?」
佐藤さんは、裂けた口を動かしている。
背後から上司が声をかけてきた。
「顔色が悪いぞ」
振り返る。
上司の口も裂けていた。
周囲の社員たちが、次々にこちらを見る。
全員の口が、耳元まで大きく裂けている。
俺は椅子の背に掛けていたコートをつかみ、会社を飛び出した。
通行人も、警察官も、泣いている子供も、みんな同じ口をしていた。
女の言葉がよみがえる。
――私にはね、みんな同じ口に見えるの。
――あなたには、まだ見えないだけ。
あの言葉は、たとえではなかった。
彼女は俺の目を治したのではない。
自分と同じものが見えるように、俺の視界を変えたのだ。
駅前の人混みをかき分けて走る。
無数の裂けた口が、俺を見て笑っている。
その中に、一人だけ、顔の見えない少女がいた。
制服姿の少女だった。
目も鼻も口もあるはずなのに、その顔だけが、以前の俺が見ていた人々のように曖昧だった。
どうして、彼女だけ。
そう思った瞬間、足が勝手に少女を追い始めた。
止まろうとしても、身体が言うことを聞かない。
少女は人気のない地下道へ入っていく。
俺も、そのあとを追った。
コートのポケットで、硬いものが鳴った。
手を入れる。
指先が、冷たい金属に触れた。
昨日、道に残してきたはずの鋏だった。
息を呑み、反対側のポケットを探る。
今度は、湿った布が指にまとわりついた。
血のついた白いマスク。
いつの間にか入っていた。
考える間もなく、右手が鋏を握り、左手がマスクを顔へ押し当てた。
地下道の途中で、少女が振り返った。
俺を見るなり、怯えたように立ち止まる。
頬に、焼けるような痛みが走った。
マスクの下で、口の両端が裂けていく。
温かい血が顎を伝った。
助けを呼んでくれ。
逃げてくれ。
そう言うつもりだった。
けれど、裂けた口から出たのは、自分のものではない女の声だった。
「ねえ」
少女の肩が震える。
「私、きれい?」
少女は泣きそうな顔で俺を見つめた。
「……わかりません」
その答えを聞いた瞬間、鋏を握る手が止まった。
「わからない?」
「私、人の顔をうまく見られないんです」
少女は震えながら答えた。
「目や鼻は見えるけど、それがひとつの顔に見えなくて……きれいかどうかも、わかりません」
身体を縛っていた力が、ふっと緩んだ。
今なら、鋏を捨てられる。
少女を逃がし、誰にも会わない場所へ行くこともできる。
そう思った。
だが同時に、別の感情が胸の奥から湧き上がった。
この少女なら、いつか俺の顔を覚えてくれる。
傷だけではなく、俺自身を見つけてくれる。
その考えが、自分のものなのか、呪いに植えつけられたものなのか、もうわからなかった。
赤い傘を差した女が、何度も俺の前に現れた理由を、ようやく理解した。
あの女は、ただ俺に呪いをかけたのではない。
自分の代わりを見つけたのだ。
俺は鋏をポケットへ戻した。
そして、少女が逃げていくのを黙って見送った。
もう追いかける必要はない。
姿が見えなくなっても、少女の足音だけは頭の奥に響き続けていた。
呪いが、彼女の居場所を教えてくれる。
明日の夜になれば、また会える。
俺は赤い傘を買うため、雨の降る街へ歩き出した。




