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私の顔を覚えて

作者: ジャク
掲載日:2026/08/01

 昔から、人の顔を覚えられなかった。

 目や鼻や口が見えないわけではない。それぞれの形はわかるのに、それらをひとつの顔として捉えられないのだ。

 目を見ているうちに鼻が曖昧になり、口元へ視線を移すころには、それまで見ていた目の形が抜け落ちている。

 だから、人の顔が頭に残らない。

 きれいだとか、醜いだとか、そういう顔全体の印象も持てなかった。

 そのぶん、俺は顔以外のものを覚えるのが得意になった。

 上司は右肩を少し下げて歩く。隣の席の佐藤さんは、考え事をするとペンを三回鳴らす。近所のコンビニの店員は、「ありがとうございました」の「とう」だけ妙に声が高い。

 三年付き合った恋人には、待ち合わせのとき、必ず赤い鞄を持ってきてもらっていた。

 けれど、一度だけ、彼女は違う鞄で現れた。

 駅前で一時間も俺を待っていたらしい。何度も目が合ったのに、俺は彼女だと気づかず、その前を通り過ぎた。

「顔を見ても、私だってわからないんだね」

 そう言って、彼女は泣いた。

 それから間もなく、俺たちは別れた。

 人を好きになるのに、顔なんて関係ないと思っていた。

 けれど、好きな人の顔を覚えられないということは、相手にとって、自分に顔がないのと同じなのかもしれない。


          ◇◇◇


 口裂け女に出会ったのは、十一月の終わりだった。

 その日は残業で、会社を出たのは夜の十一時を過ぎていた。

 冷たい雨が降っていた。

 終電に間に合わせようと、普段は使わない住宅街の路地へ入った。古い家々の明かりは消え、濡れたアスファルトの上で、街灯だけが白く滲んでいた。

 路地の真ん中に、女が立っていた。

 赤い傘を差し、膝まである白いコートを着ている。長い黒髪と、顔の半分を覆う大きなマスク。

 俺が右へ避けると、女も右へ動いた。

 左へ避けると、女も左へ動いた。

「あの、通してもらえますか」

 声をかけると、女は傘をわずかに上げた。

 マスクの上に、細い目が見えた。

「ねえ」

 若い女の声だった。

「私、きれい?」

 子供のころに聞いた噂が、鮮明によみがえった。

 夕暮れの道に現れる、マスクをつけた女。

 きれいだと答えれば、女はマスクを外して「これでも?」と聞いてくる。きれいではないと答えれば、その場で殺される。

 普通と答える。

 ポマードと三回唱える。

 べっこう飴を投げる。

 助かる方法はいくつも聞いたはずなのに、どれが正しいのかわからなかった。

「私、きれい?」

 女が、もう一度尋ねた。

 傘を打つ雨音に混じって、金属の擦れる音がした。

 女の右手が、コートのポケットから出ている。

 その手には、大きな鋏が握られていた。

「……わかりません」

 ようやく出たのは、それだけだった。

 女の首が、ゆっくりと左へ傾く。

「わからない?」

「俺、人の顔をうまく見られないんです」

「見えていないの?」

「目や鼻は見えます。でも、それをひとつの顔として捉えられなくて。きれいかどうかも、俺にはわかりません」

 女はしばらく黙っていた。

 やがて、赤い傘の柄を二度握り直した。

 そして、耳にかけていたマスクの紐を外した。

 女の口は、頬まで大きく裂けていた。

 傷口の内側に、濡れた歯が並んでいる。裂け目の端から細い血の筋が顎を伝い、白いコートに赤い点をつくった。

「これでも?」

 女の口が動くたび、傷が開いた。

 吐き気が込み上げた。

 恐ろしい。

 そう思うことはできる。

 けれど、その顔がきれいなのか、醜いのかは、やはりわからなかった。

「……わかりません」

 正直に答えた。

 女の目が細くなる。

 鋏を握る指に力が入り、刃がわずかに開いた。

 殺される。

 そう思った。

 だが女は、俺を殺さなかった。

 鋏を下ろし、道の端へ寄った。

「行けば」

 俺は女の横を通り抜けた。

 すれ違った瞬間、雨に濡れた鉄のような匂いがした。

 背後から鋏の音が聞こえた気がして、足を速めた。やがて歩いてはいられなくなり、駅まで一度も振り返らずに走った。


          ◇◇◇


 翌日の夜、女は駅のホームにいた。

 赤い傘も白いコートも身につけていなかった。

 黒い服を着て、柱のそばに立っていた。

 最初は気づかなかった。

 けれど電車を待つ俺の前へ来ると、女はマスク越しに尋ねた。

「私、きれい?」

 昨日と同じ声だった。

「昨日の人ですか」

「どうしてそう思うの?」

「声が同じだから」

 女はマスクを外した。

「これでも?」

「わかりません」

 女は何もせず、到着した電車へ乗り込んだ。

 俺は乗らなかった。

 閉じていく扉の向こうで、女はずっとこちらを見ていた。

 三日目は、コンビニの前に現れた。

 髪が肩まで短くなっていた。

 四日目は、マンションのエレベーターに乗っていた。

 眼鏡をかけ、灰色のスーツを着ていた。

 五日目には、声まで変えていた。

「私、きれい?」

 低く掠れた声で尋ねられ、俺は答えに迷った。

 姿も声も、それまでとは違う。

 それでも女は、最初の夜に傘の柄を握ったときと同じように、質問する直前、鞄の持ち手を二度握り直した。

 首を傾ける方向も同じだった。

「あなたですね」

 俺が言うと、女は初めて笑った。

 マスクの下で、裂けた口が横へ広がるのがわかった。

「顔はわからないのに?」

「仕草が同じです」

「服も髪も声も違うのに?」

「服や髪型だけで、その人が決まるわけじゃないでしょう」

 女は黙り込んだ。

 やがて、独り言のように言った。

「顔だって、その人のすべてじゃないのかもしれないね」

 その日はマスクを外さなかった。


          ◇◇◇


 女は、毎晩のように現れた。

 危険なものだとわかっているのに、俺は次第に女を待つようになっていた。

 女は必ず同じ質問をした。

 俺は必ず、わからないと答えた。

 それが終わると、ときどき、ほかの話もした。

「顔がわからないのに、どうやって人を覚えるの?」

「声や歩き方で」

「それだけ?」

「癖とか、匂いとか。よく使う言葉とか」

「好きな人も?」

「同じです」

「好きな人の顔も、覚えられない?」

「覚えられません」

 女は少し考え、マスクの上から自分の口元に触れた。

「便利ね」

「不便ですよ」

「いいえ、便利」

 その声には、はっきりとした苛立ちが混じっていた。

「あなたは、顔に騙されない」

「騙される?」

「人間は、口で嘘をつくから」

 女は、周囲を行き交う人々へ目を向けた。

「私にはね、みんな同じ口に見えるの」

「同じ口?」

 女はマスクの上から、口の端を指でなぞった。

「私と同じ。どこまでも裂けている」

「そんなふうには見えません」

「あなたには、まだ見えないだけ」

 マスクの上で、女の目がかすかに笑った。

「私を見て、きれいだと言う人は、目では醜いと言っている。醜いと言う人は、私ではなく傷だけを見ている」

「だから殺すんですか」

「だって、どちらも私を見ていないでしょう?」

 女は穏やかな声で答えた。

 傘の陰では、鋏の刃が街灯を反射していた。

 翌日から、女は姿を見せなくなった。

 一日。

 二日。

 三日。

 会わずに済んで安心するはずだった。

 それなのに帰り道を歩くたび、俺は赤い傘を捜していた。

 四日目の夜。

 女は、小さな公園のブランコに座っていた。

 雨は降っていなかったが、閉じた赤い傘を抱えていた。

 俺は自分から声をかけた。

「今日は聞かないんですか」

 女が顔を上げた。

「何を?」

「私、きれい、って」

 しばらくの沈黙のあと、女は小さく笑った。

「聞いてほしいの?」

「そういうわけではありません」

「私はね、忘れられないの」

 女はブランコを揺らしながら言った。

「私の顔を見て生き残った人は、死ぬまで忘れられない。夢の中にまで私が出てくる」

 鎖が軋み、甲高い音を立てた。

「でも、覚えているのは傷だけ。みんな、裂けた口を私の顔だと思っている」

 女がこちらを向く。

「あなたは、私の顔を覚えていない」

「すみません」

「謝らないで。だから、あなたを殺さなかったの」

 女は立ち上がり、俺の前まで来た。

「顔を覚えていないのに、あなたは私だとわかる」

「仕草や声は覚えていますから」

「なら、顔も覚えて」

 女はマスクを外した。

 何度見ても、凄惨な傷だった。

「傷だけじゃなくて、私の顔を覚えて」

 右目の下に、小さなほくろがあった。

 その夜、初めて気づいた。


          ◇◇◇


 それから、奇妙な変化が起き始めた。

 女の目だけが、頭に残るようになった。

 細く、目尻がわずかに下がっている。右目の下には、小さなほくろがある。

 次に、鼻の形を覚えた。

 女は会うたびにマスクを外した。繰り返し顔を見せられるうちに、輪郭や傷の形まで少しずつ記憶に残るようになった。

 やがて、マスクをつけていても、見えているわずかな部分だけで彼女だとわかるようになった。

 同時に、ほかの人間の顔も少しずつ見分けられるようになった。

 昨日話した同僚が、翌日も同じ顔をしている。

 当たり前のことが、俺には奇跡だった。

 けれど、顔が見えるようになるにつれて、人の口元が気になり始めた。

 笑うとき、誰もが不自然なほど大きく口を開く。

 電車の窓に映る乗客の口が、実際より横へ長く伸びて見える。

 街を歩いていても、マスクをつけた人ばかりが目につくようになった。

 気のせいだと思った。

 見慣れなかった顔を、急に意識するようになったせいだと自分に言い聞かせた。


          ◇◇◇


 女と出会ってから、二週間が過ぎた夜。

 駅前は大勢の人で混雑していた。

 雨が降り、色とりどりの傘が歩道を埋めている。

 その中に、女がいた。

 黒い傘を差し、青いコートを着ている。髪は短く、眼鏡をかけ、顔を白いマスクで隠していた。

 これまでとは、まるで違う姿だった。

 それでも、一目でわかった。

「待って」

 俺が呼びかけると、女は足を止めた。

 人混みの向こうから、ゆっくりと振り返る。

「どうして、私だとわかったの?」

「顔でわかりました」

 女の目が大きく開く。

「私の顔を覚えたの?」

「はい」

 見えているのは、眼鏡の奥の目だけだった。

 それでも、そのわずかな部分が、記憶の中にある彼女の顔と確かにつながっていた。

 女は人混みを抜け、俺の前へ立った。

「なら、答えて」

 首を左へ傾ける。

「私、きれい?」

 以前の俺なら、わからないと答えただろう。

 けれど、今は違う。

 俺は彼女の目を知っている。

 問いかけるとき、少しだけ怯えた目をすることも。

 寂しいとき、傘の柄を二度握ることも。

 笑う直前、右の頬をわずかに引きつらせることも知っている。

「きれいです」

 俺は答えた。

 女は、ゆっくりとマスクを外した。

 頬まで裂けた口が現れる。

「これでも?」

「はい」

「怖くないの?」

「怖いです」

「それでも、きれい?」

「俺が覚えたのは、その傷だけじゃありませんから」

 女はしばらく俺を見つめていた。

 やがて、裂けた口で笑った。

 その笑顔を、俺は心からきれいだと思った。

「ありがとう」

 女が囁いた。

「これで、やっと私じゃなくなる」

「どういう意味ですか」

 女は答えなかった。

 代わりに強い風が吹き、視界が白く揺らいだ。

 思わず目を閉じる。

 再び開けたとき、女はいなかった。

 慌てて周囲を見回した。だが、黒い傘も青いコートも、人混みのどこにも見当たらない。

 さっきまで女が立っていた場所だけが、雑踏の中にぽっかりと穴を開けたように見えた。

 呼び止めるべきだったのか。

 追いかけるべきだったのか。

 答えが出ないまま、その場に立ち尽くした。

 足元に、血のついた白いマスクと、大きな鋏が落ちていた。

 まるで、誰かの忘れ物のようだった。

 けれど、それだけが、あの女が確かにここにいた証拠だった。

 拾う気にはなれなかった。

 俺は一度だけ女の消えた先へ目を向け、それらを残したまま家へ帰った。


          ◇◇◇


 翌朝、目が覚めると、完全に人の顔を見分けられるようになっていた。

 鏡に映る自分の顔が、ひと目で自分だとわかる。

 テレビに映るアナウンサーも、駅ですれ違う人々も、全員が違う顔をしている。

 世界には、こんなにも多くの顔があったのか。

 会社へ行くと、同僚たちの顔もわかった。

 上司には太い眉があり、佐藤さんは左の頬に小さなえくぼがあった。

「おはようございます」

 佐藤さんが笑いかけてきた。

 その口が、頬まで裂けた。

 赤い傷の内側に、歯がびっしりと並んでいる。

 俺は椅子から立ち上がった。

「どうしたんですか?」

 佐藤さんは、裂けた口を動かしている。

 背後から上司が声をかけてきた。

「顔色が悪いぞ」

 振り返る。

 上司の口も裂けていた。

 周囲の社員たちが、次々にこちらを見る。

 全員の口が、耳元まで大きく裂けている。

 俺は椅子の背に掛けていたコートをつかみ、会社を飛び出した。

 通行人も、警察官も、泣いている子供も、みんな同じ口をしていた。

 女の言葉がよみがえる。

 ――私にはね、みんな同じ口に見えるの。

 ――あなたには、まだ見えないだけ。

 あの言葉は、たとえではなかった。

 彼女は俺の目を治したのではない。

 自分と同じものが見えるように、俺の視界を変えたのだ。

 駅前の人混みをかき分けて走る。

 無数の裂けた口が、俺を見て笑っている。

 その中に、一人だけ、顔の見えない少女がいた。

 制服姿の少女だった。

 目も鼻も口もあるはずなのに、その顔だけが、以前の俺が見ていた人々のように曖昧だった。

 どうして、彼女だけ。

 そう思った瞬間、足が勝手に少女を追い始めた。

 止まろうとしても、身体が言うことを聞かない。

 少女は人気のない地下道へ入っていく。

 俺も、そのあとを追った。

 コートのポケットで、硬いものが鳴った。

 手を入れる。

 指先が、冷たい金属に触れた。

 昨日、道に残してきたはずの鋏だった。

 息を呑み、反対側のポケットを探る。

 今度は、湿った布が指にまとわりついた。

 血のついた白いマスク。

 いつの間にか入っていた。

 考える間もなく、右手が鋏を握り、左手がマスクを顔へ押し当てた。

 地下道の途中で、少女が振り返った。

 俺を見るなり、怯えたように立ち止まる。

 頬に、焼けるような痛みが走った。

 マスクの下で、口の両端が裂けていく。

 温かい血が顎を伝った。

 助けを呼んでくれ。

 逃げてくれ。

 そう言うつもりだった。

 けれど、裂けた口から出たのは、自分のものではない女の声だった。

「ねえ」

 少女の肩が震える。

「私、きれい?」

 少女は泣きそうな顔で俺を見つめた。

「……わかりません」

 その答えを聞いた瞬間、鋏を握る手が止まった。

「わからない?」

「私、人の顔をうまく見られないんです」

 少女は震えながら答えた。

「目や鼻は見えるけど、それがひとつの顔に見えなくて……きれいかどうかも、わかりません」

 身体を縛っていた力が、ふっと緩んだ。

 今なら、鋏を捨てられる。

 少女を逃がし、誰にも会わない場所へ行くこともできる。

 そう思った。

 だが同時に、別の感情が胸の奥から湧き上がった。

 この少女なら、いつか俺の顔を覚えてくれる。

 傷だけではなく、俺自身を見つけてくれる。

 その考えが、自分のものなのか、呪いに植えつけられたものなのか、もうわからなかった。

 赤い傘を差した女が、何度も俺の前に現れた理由を、ようやく理解した。

 あの女は、ただ俺に呪いをかけたのではない。

 自分の代わりを見つけたのだ。

 俺は鋏をポケットへ戻した。

 そして、少女が逃げていくのを黙って見送った。

 もう追いかける必要はない。

 姿が見えなくなっても、少女の足音だけは頭の奥に響き続けていた。

 呪いが、彼女の居場所を教えてくれる。

 明日の夜になれば、また会える。

 俺は赤い傘を買うため、雨の降る街へ歩き出した。


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