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終焉の山院にて、聖母は囁く

作者: 八衛門

 礼拝堂の扉は重たく、開けるたびに長い呻き声を上げる。かつて数百の修道士たちが賛美歌を捧げたはずの空間には、今、蝋燭の光がまばらに揺れ、壁のフレスコ画は煤けて剥がれ、足元には冷たい石の床が広がるばかりだった。

「こちらへどうぞ」

 エイダの声は優しく、どこか夢見がちで、足音ひとつさえ礼拝堂の空気を乱すことを恐れているようだった。礼拝堂の奥、主祭壇の前に、それはあった。

 一枚の大きなキャンバス。絵画の表面は黒い布で丁寧に覆われており、その前には銀の燭台と香炉、そして枯れかけた白い花が供えられていた。

「これが、黒き聖母の……?」

「はい。毎朝、ここでお祈りをします。今日も、よく聞こえました」

 エイダは布の前にひざまずき、両手を胸元で組むと、静かに目を閉じた。

 ヴェロニカはその様子を無言で見つめながら、胸ポケットから命令書を指先で確認した。「破壊せよ」と記されたその文言の鋭さが、今、どこか遠いもののように思えた。

 香の匂いが鼻腔を満たす。甘く、そしてどこか濃密な香り——ラベンダーとも乳香とも違う、不思議な香気。ふと、耳の裏に風が触れたような感覚が走った。


《──赦しを、乞いなさい》


「……今、何か……」

 ヴェロニカは言葉を飲み込んだ。

 エイダは微笑みながらうなずいた。

「はい。お優しい声です。きっと、あなたもすぐに分かります」

「これは幻聴よ。心理的暗示か……催眠だわ」

ヴェロニカは自分に言い聞かせるように呟いたが、その言葉はどこか力を欠いていた。

「わたしが初めてこの声を聞いたのは、七歳のときでした。夜、熱でうなされていたとき、耳元で“母が呼んでいる”って……」

 エイダの顔には陶酔にも似た安堵が浮かんでいた。そのとき、礼拝堂の奥の扉が軋み、もう一人の男が現れた。

 ボサボサの髪と皺の深い顔、手には空の聖杯。衣の端には葡萄酒の染みが乾いた跡がある。神官服の形は守られているが、その精神は既に役目を放棄していた。

「おや、また新しい“聞こえる”人が来たのか」

 乾いた声。嘲りを隠そうともしない。男の名はサルヴァ。かつてはこの修道院の主任神官だったという。

「私は回収者、ヴェロニカ。あなたが……?」

「信仰なき神官さ。礼拝の時間には祈る。だが信じてはいない。信じたせいで、何もかも失ったからな」

エイダが顔を伏せた。その背中が震えている。

「その絵画の“声”は本物かもしれん。だが、それが神の声だとは限らん。お前は、自分の頭の中に語りかける囁きを信じるのか?」

 ヴェロニカは答えられなかった。声が本当に聞こえたのか、それとも……彼女自身が、どこかでそれを“望んだ”のか。心の奥底に沈んでいた何かが、あの絵の前で揺らぎ始めていた。

「エイダ、あなたは何故その声を信じられるの?」

 少女はそっと目を開け、ヴェロニカの手を取った。

「この世で、唯一わたしを“許す”と言ってくれたのは、聖母さまだけだったんです」

 その瞬間、ヴェロニカの指先に、微かな温もりが走った。まるで……絵の奥から血が流れ出しているかのように。


 修道院の地下へと続く石段は、蝋燭の明かりでも奥まで照らせぬほど暗く、空気は古びた書物と冷たい鉄のような匂いに満ちていた。足を踏み入れるたび、ヴェロニカの足元で石板がわずかにきしみ、彼女の呼吸音さえも湿気を帯びて響く。エイダの案内で向かったその先に、禁じられた名のある男がいた。

「堕ちた修道士、バルナバです。けれど、あの人は“聞いた”ことがあるのです。わたしの他に、唯一……」

 地下の祈祷室。灯火の届く範囲にだけ、粗末な寝具と書見台。祈祷書のページは破かれ、代わりに貼りつけられた手書きの紙には、奇怪な曲線と“聖語に似た何か”が書き殴られていた。

 その中心に、バルナバは座していた。痩せた体に、まだ力は宿っている。何かを視ているような目。だが視線の先は、この現実ではない。

「……女の声が、また聞こえてきたか。あの絵は、眠りを浅くするんだよ」

 彼はヴェロニカに目を向けた。

「あなたが最初に、あの絵に祈った者ですか」

「違う。私が最初に“答えをもらった”者だ。祈るだけなら、皆やっていたよ。だが応えたのは、私にだけだった」

 ヴェロニカは紙片のひとつに目をやった。文字ではなく、螺旋状の円と、中央に逆さまの聖母像らしきものが描かれている。視線を落とすと、額に冷たい汗が滲むような不快感が走った。

「この絵は……いったい、誰を描いた?」

「“マリア”と呼ぶには、あまりに人間的だった。彼女はかつて、我々の中にいた。信者を集め、“神”の言葉を語った。奇跡を起こした。それは確かに、現実だった」

「異端だったと、記録にあります」

「異端……それは“神より近い者”を否定した者たちの言葉さ」

 彼の語りには、狂気というよりも深い信念が宿っていた。

「ある日、彼女はこう言った。『私は絵になる。私の声を、永遠に聴きなさい』と。

 そして、修道院の画工たちは彼女を描いた。黒衣の中に白き顔を浮かべ、まるで眠るように。……だが、その日から、絵の前に立った者たちは皆、己の罪を囁かれ始めたんだ」

「それを、神の声と信じたのですか?」

「いや、“自分自身の声”だと思った。だが、あの絵は違う。もっと深いところにある……人の魂の根を撫でるような声なんだ」

 ヴェロニカは言葉を失った。

 そのとき——

「マリアさま、笑ってるね」

 振り返ると、そこに見知らぬ少年が立っていた。白い寝間着、素足、青い瞳。年の頃は八つか九つ。見覚えのない顔だが、どこか懐かしさを感じさせる雰囲気を纏っている。

「誰だ?」

 ヴェロニカが詰め寄ると、エイダが小声で囁いた。

「……リュカ。修道院の奥の部屋から出てきた子。ずっと話さなかったけれど……今、初めて喋った」

 リュカは絵の方へ向かってゆっくり歩くと、祈るように手を組み、微笑みながら目を閉じた。

「聖母さまの中に、灯がある。誰かを待ってる。ずっとずっと、待ってるんだって」

 バルナバが、目を伏せて呟く。

「……その声は、“待ち人”のためのものだ。だが、誰が待たれているのかは、まだ誰にもわからない」

 絵画にまつわる真実は、さらに深く、静かにその輪郭を広げ始めていた。


 その夜、修道院には一睡もできぬ重たい空気が満ちていた。

 霧はいつにも増して濃く、回廊の蝋燭はまるで見えぬ風に吹かれ、絶え間なく揺れていた。壁に貼られた聖句の紙片は湿気を吸い、ふやけて剥がれ、足音すら水底に沈むように重たく響いた。

「……声が、強くなっている」

 エイダは絵画の前にひざまずき、両手で耳を塞いだまま呟いた。

「聖母さま、どうか、どうか……」

 その背後、ヴェロニカは静かに絵画を見つめていた。黒布の下から漏れるわずかな光——それは錯覚か、現実か判別のつかぬ輝きだった。まるで夜の中で星の瞬きを見ているかのように。

「“赦し”ではないわ……これは、“命令”よ」

 囁きはもはや、心の深部を直接撫でるかのようだった。誰にも聞かれていないはずなのに、「赦されるには……血が要る」と甘い声が耳の裏で滴り落ちる。叫び声が響いたのは、そのときだった。

「目を! 目を潰せば……あの声は止まるの!」

 修道女の一人が、狂ったように自らの顔を爪で引き裂こうとしていた。エイダとヴェロニカが駆け寄った時、すでに彼女の眼球は血で染まり、喉元から悲鳴ではない笑い声が漏れていた。だがその直後、信じられぬことが起きた。

 裂かれたはずの目が、静かに光を帯びて元通りに戻っていく。まるで絵画がそれを癒したかのように。

「……奇跡、だと……?」

 ヴェロニカの口から思わず漏れた言葉に、背後から乾いた声がかぶさった。

「奇跡と狂気は、紙一重だ」

 サルヴァだった。夜明け前の青白い光の中で、彼は初めて司祭としての衣をきちんと着込んでいた。赤い帯、白い外衣、そして聖具一式を揃えて。

「私は十年、信仰を捨てていた。だがな……この絵の前に立って、わかったんだ」

「何を?」

「祈るしか、もう方法がないということだ」

 彼は主祭壇の前に立ち、十字を切り、初めてまっすぐに目を閉じた。その祈りの姿に、エイダもまた合わせて言葉を重ねた。

「母さまは怒っていない。わたしたちが、忘れてしまっただけ。だから、今……呼んでいるんです」

 そのとき、リュカが絵画の前に進み出た。彼の瞳は、まるで鏡のように絵の反射を映し出し、ゆっくりと口を開いた。

「“彼女”が……目を覚まそうとしてる。だから、声が聞こえるの。誰にでも。もうすぐ、全部、始まるって」

「何が始まるの?」

ヴェロニカの問いに、リュカはただ微笑んで、囁いた。

「“見ること”が、始まる」

 その瞬間、絵画がわずかに震えた。黒布が、風もないのにふわりと持ち上がりかけた。

「だめっ!」

 エイダが叫び、覆い布を抱きしめるように押さえ込んだ。

「まだ、早い……。母さまは、今はまだ、完全には……!」

■作家コメント

あなたが何かを信じるとき、それは“声”として届きますか?

それとも“沈黙”の中に、誰かの想いを感じますか?

この物語は、信仰の形と、人がそれを信じる理由を問うために書きました。

「黒き聖母」の声が、あなたの心の奥に届きますように。

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