表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼女は天才AI研究者  作者: 乾 碧
Prolog
2/4

研究対象は、あなたです #002


 教室は一瞬静まり返り、次いで、どよめきとも興奮ともつかない声の津波が空間を席巻した。


 男子生徒の多くは、未来のサイバーパンクSFから抜け出てきたかのような非現実的なまでの美貌と、その異次元的なまでの豊満なシルエットに、完全に魂を奪われている。


 一方、女子生徒たちの多くは、その氷のように理知的な雰囲気と、一切の物怖じをしない堂々とした物言いに、好奇と、あるいは畏怖と、そして微かな嫉妬が複雑にブレンドされた、値踏みするような視線を投げかけていた。


 担任に促され、未来は悠真の隣に用意されていた空席へと、一切の迷いも躊躇も見せない、プログラムされた軌道をトレースするかのような正確な足取りで歩み寄る。そして、着席するやいなや、そのガラス細工のように大きな瞳で真っ直ぐに悠真の目を見据え、宣告した。


「佐藤悠真、さん。状況認識及び事前のデータベースとのクロスリファレンス、そしてリアルタイムでの対象者プロファイリングの結果、あなたを私の現行研究プロジェクトにおける最優先協力候補個体、コードネーム『ターゲット・アルファ』、すなわちプライマリー・リサーチ・ターゲットとして正式に選定しました」

「…………へ? け、けんきゅ、たいしょ……『ターゲット・アルファ』……ですと?」


 悠真の口から、意味不明瞭なオウム返しが漏れた。


 未来は、その悠真の困惑した反応すらも、重要な初期サンプルデータとして収集するかのように、表情一つ変えずにタブレットを操作する。


「あなたの卓越したプログラミングスキル、特に現在開発中のゲームソフトウェア『Emotion Quest』において実装を試みているとされる『感情の多因子多階層モデルに基づく、キャラクターの動的行動決定AIシステム』は、私の研究テーマと極めて高いシナジー効果、及び技術的共鳴が期待できると判断されます。また、事前調査において収集されたあなたのいくつかの行動パターン、思考様式、及び潜在的感情表出プロファイルは、恋愛感情研究の被験者として、統計的にも特異的にも、非常に興味深い特性を示しています。つきましては、上記研究テーマの達成のため、あなたの全面的かつ能動的な協力を、ここに改めて強く要請するものです。これは命令ではなく、あくまで論理的かつ合理的な帰結に基づく、双方にとって有益な協力関係の提案です」

「ぜ、全面的って……具体的には、一体何をどう……協力すれば……」


 悠真が言葉を詰まらせ、視線を泳がせていると、未来は一切の感情の揺らぎを見せず、淡々と、しかし恐ろしく具体的な説明を続ける。


「主要なタスクは、あなたの生体反応及び心理状態に関する、多角的かつ継続的なデータ収集となります。例えば、あなたの心拍変動、皮膚電気活動レベル、表情筋の微細な活動電位、発話における声のトーン、ピッチ、周波数スペクトラムの変化などを、こちらの専用設計されたウェアラブルバイオセンサー群、及び環境設置型マルチモーダルセンサーネットワークを用いて、24時間体制……、は現実的ではないため、可能な限り長時間、リアルタイムでモニタリングし、記録します。収集された膨大な時系列データは、この研究専用デジタルノートシステムにセキュアに転送・統合され、感情の起伏、種類、強度、持続時間などを、多次元的に可視化、定量化し、その相関関係や潜在的パターンをディープラーニングによって解析します」


 その恐ろしく具体的な説明に、悠真は背筋が凍るような感覚と共に、自分の存在そのものが解体され、数値化され、分析されるかのような、一種のアイデンティティ・クライシスにも似た眩暈を覚えた。


「そ、それは……いくらなんでも……プライバシーとか、人権とか……そういうのは……」

「勿論、ヘルシンキ宣言及び関連する国内外の倫理規定、並びに個人情報保護法規は、最大限の厳格さをもって遵守します。収集される全てのパーソナルデータは、即座に不可逆的な匿名化処理を施した上で、本研究目的以外には一切使用しないことを、星野AI研究所の公式プロトコルに基づき、ここに誓約します。……ですが、より高精度かつ生態学的妥当性の高いデータを取得するためには、被験者の自然な日常生活における、可能な限り介入を排した、継続的な観察が不可欠であることもまた事実です。そして、場合によっては――」


 未来はそこで一度、まるで重要な変数を宣言するかのように、言葉を切り、その底なしの知性を湛えた瞳で、悠真の心の奥底まで見透かすように真っ直ぐに見据えた。


「――より複雑かつ高次の情動反応を誘発し、その発現プロセスと神経生理学的基盤を詳細に検証するための対照実験、及び積極的介入実験として、『デート』という、特定の社会的相互作用プロトコルの実行も、本研究のクリティカルパス上に不可欠な要素として組み込まれています」

「で、ででで、でぇぇぇぇぇぇとぉぉぉっ!?」


 悠真の、もはや悲鳴に近い絶叫が、春の陽気に満ちた教室の空気を激しく震わせた。


 その瞬間、背後の席からは、山田大輔の、もはやこらえることを諦めたかのような盛大な爆笑が、間髪入れずに炸裂する。


「ぶっはっはっはっ! ユーマ、お前、ついにモテ期を通り越して、人類未踏の学術的フロンティアに到達しちまったか! 『デートという行動プロトコルの実行』だなんて、どんなSFだよ! さすが俺が見込んだ親友、やることなすことスケールが銀河系レベルだぜ! 今日は赤飯炊いて祝ってやる!」

「うっっっさいわ、大輔! 少しは空気を読め! これはそういうチャラついた話じゃ断じてない! 彼女は、あくまで……あくまで研究なんだと、そう言ってるだろうが!」


 そんな悠真の必死の抗弁も虚しく、クラスの人気者である鈴木美咲(すずきみさき)も、好奇心と興奮で目をランランと輝かせながら、未来へと詰め寄っていた。


「ミライちゃん、すごーい! さすが天才AI研究者! 恋愛感情の研究なんて、ドキドキしちゃう! 私もね、そういうの、すっごく興味あるんだ! 何かお手伝いできることないかな? 恋愛の悩み相談とかなら、私、結構実績あるのよ?」


 未来は、美咲の熱烈な申し出に対し、僅かに眉を動かすという、彼女にしては比較的大きな反応を示した。


「『恋愛の悩み相談』……。興味深いオファーです、鈴木美咲さん。あなたの持つ経験則に基づく感情パターンデータベース、及び他者への共感アルゴリズムは、本研究における比較対照データ、あるいは感情モデルのチューニングにおいて、有益なリソースとなる可能性が示唆されます。現時点ではプライマリー・ターゲットである佐藤悠真さんのピュアな反応を優先的に観察する必要がありますが、研究フェーズの進捗によっては、改めてあなたの協力を正式に要請するケースも想定されます。その際は、よろしくご検討ください」


 そして、未来は再び、その射抜くような視線を悠真へと戻す。その瞳は、まるで悠真の感情の深層をスキャンしているかのようだ。


「繰り返しますが、これは、AIの自律的進化、ひいては人類の精神活動の根源的理解を促進し、より豊かな未来社会を構築するための、極めて重要かつ先進的な研究プロジェクトなのです、佐藤くん。あなたの主体的な協力は、この壮大な試みの成否を左右する、代替不可能なファクターであると、私は確信しています」


 悠真は、未来の、一点の曇りもない、あまりにも真摯な、そして一切の個人的な欲望を感じさせない純粋な研究への情熱と使命感に、ただただ圧倒されそうになるのを感じていた。


 戸惑いや羞恥心、そして未知への恐怖は勿論ある。しかし同時に、自分の持つ特異なスキルや、自分という存在そのものが、これほどまでに真剣に、かつ論理的に求められているという事実に、心の奥底で、これまで感じたことのない種類の、微かで、しかし確かな高揚感が脈打つのを自覚していた。


 特に、「プログラミングの話なら……」と、自分の得意とする土俵で、この規格外の天才少女と何らかの形で渡り合えるかもしれないという、技術者としての本能的な興奮が、彼の背中をそっと押していた。


「ま、まあ……その……協力、できることが……仮に、万が一、億が一……あるというのであれば……ぜ、善処は……やぶさかでは……ない……と、思う……おそらく……きっと……」

「論理的思考に基づく、前向きなご返答と解釈します。感謝します、佐藤くん。では、早速ですが、初期パラメータ設定のための最初のデータ収集プロトコルを開始します」


 未来はそう宣言すると、タブレットを流麗に操作し、悠真の目の前にいくつかの質問項目をクリアなフォントで提示した。


「第一問。現時点において、特定の一個体に対し、社会通念上『恋愛感情』としてカテゴリー分類される、特殊かつ持続的な精神状態、あるいはそれに伴う顕著な神経化学的反応を、明確に自覚、あるいは保持していますか? Yes/No/不明、のいずれかでお答えください」

「い、いません! 断じて! ノーです、ノー!」

「第二問。『恋愛感情』とは、あなた自身の内省的観測、及び既存の知識体系に基づく論理的推論において、どのような情報処理プロセス、あるいは、どのような特性を持つ心理的状態、もしくは観測可能な物理現象であると定義、あるいは仮説構築しますか? 具体的なキーワード、または簡潔な文章表現による自由記述を求めます」

「そ、それは……その……ひ、非常に……予測困難で、非合理的で、時に自己矛盾を孕む……一種の、高度なバグに近い精神的擾乱というか……ああ、もう! 俺にそんな哲学的な定義を求めるな!」


 悠真の顔面が、みるみるうちに茹でダコの如く真っ赤に染まっていくのを、未来は表情筋ひとつ動かさずに冷静に観察し、その一挙手一投足、発話内容、声のトーンの変化、視線の動き、瞬きの回数に至るまで、恐るべき速度と精度でタブレットに記録していく。その姿は、もはや研究者というよりは、未知の生命体を解析する異星の調査官のようだ。


 教室のあちこちからは、大輔の肩を震わせる笑い声と、美咲の「頑張って、悠真くん……!」という小さな応援の声、そして他のクラスメイトたちの、好奇と若干の呆れが入り混じった生暖かい視線が、容赦なく悠真に突き刺さる。


(この子は……この星野未来という少女は……本当に、心の底から、純粋に、研究のためだけに、こんな途方もないことを……?)


 悠真の胸の内に、戸惑いと、ほんの少しの畏敬と、そしてこれまでに経験したことのない、名状しがたい奇妙な感情の波紋が、静かに、確実に広がり始めていた。


 それは、彼自身がまだ明確には認識できていない、新たな人間関係と、未知なる心の冒険の始まりを告げる、微かな、しかし確かな予兆だったのかもしれない。


 春霞の空から、まるでこの奇妙な出会いを祝福するかのように、これから始まる波乱万丈の物語を暗示するかのように、数多の桜の花びらが、開け放たれた教室の窓から、はらはらと、しかしどこか意図を持った軌道を描いて舞い込み、未来の漆黒の髪と、悠真の少しだけ俯いた視界の隅を、淡く、そして鮮やかに彩った。新しい出会いと、前代未聞の研究の幕開けを、高らかに、そしてどこか可笑しみを含んで、告げるかのように。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ