幻想の殺し屋
──その姿は誰も知らない。
だが、確かに存在している。
現代社会の裏に潜む数多くの犯罪集団の中で、そのように広まる噂があった。
曰く、死神。
あるいは『影にある穴』。
ある日突然、前触れもなくソレは現れ、無惨にも殺されることからそのような二つ名が付けられた。
殺されるのは決まって、国を敵に回した犯罪集団だった。より正確には、世界の平和を揺るがすほどの犯罪を計画した集団だ。
しかし、ソレはただ殺すだけであり、あらゆる証拠が現場に残っている。だというのに足取りは掴めない。
──何者かが現れて、殺して消えた。
その事実だけが残されている。
淡々と死を与えてそれっきり。
どのようにしてその計画を知るのか。
どのようにして組織の居場所を知るのか。
どのようにしてそこに現れるのか。
彼らは一体──何者なのか。
それを知るものはいない。
殺しを防ぐ殺し屋。
犯罪組織を殺す組織。
そのように恐れられる彼らは、公安に連なるものとも、偽善に塗れた殺人組織とも言われているが、実情はどれも違う。
その真実は決して知られず、ただ信条を元に守っているのだ。
そしてそれは、今もそのように──
────
「……っ、来るなぁっ!」
そう叫びながら銃を構える女がいた。
腰が抜けたように座り、目元には涙をためながら、それでも抵抗の意思を示す。
彼女の周りにはいくつかの死体。
それがつい先程まで笑顔を浮かべていた同胞であることを、彼女はどうしようもなく受け入れるしかなかった。
彼女の眼前、構える銃の先には一人の男がいた。黒いスーツに、すらりと伸びた背、乱雑に伸ばされた髪、咥えられた煙草──それらが異様に感じるのは、はたして恐怖によるものか。
そしてまた、彼の手にも銃がある。
同胞を葬り去った銃がある。
「なんで……どうして、どうやって……!」
狂乱に陥る彼女は、その中でも疑問に思っていた。
自分たちの計画がバレてしまったのはしょうがない。この場所がバレてしまったのも自分たちの責任だ。だが──この男はどうやって地下三階のこの部屋に侵入してきたのか──!
警備は万全だった。
いろんな策も講じていた。
逃げ切れる自信があった。
だというのに──!
「──手前の胸に手を当てて考えてみな。
もっとも、そんな時間は与えないがな」
男はそう吐き捨てて、引き金を引いた。
「──────ぁ」
女に引き金を引く余裕、勇気は無かった。なにしろ、その女が銃を持ったのはそれが最初で最後。今までは共に行動していた仲間がそういった汚れ仕事をしていたのだ。
──もう関係のない話だが。
その女の意識が完全になくなったのを確認してから、男は部屋の中央にある円形のテーブルへと歩き出す。
そのテーブルの上にはPCや携帯電話といった電子機器、そして、一枚の紙があった。
その紙を拾い上げ目を通す。
それは、この組織の計画がまとめられたものだった。
「新霊長の研究……くだらん。なぜ新たなもののために今を壊す。なぜ今ある平穏を破滅へと導く」
男の呟きには呆れと怒りが込められていた。
だが、いかにその計画が現実離れしているといってもそれを侮ることはできない。その男がここに派遣された以上、その計画が本当に世界を滅ぼす可能性があるからだ。
男はそのまま手にした紙をバラバラに破き、床へとばら撒いた。
そのまま帰ろうとしたとき──
「……あん?」
視界の隅に何かが映った。
──何かが蠢いた。
ソレは部屋の隅で、足を抱くようにして座っていた。少し俯いているが、その虚な目は確かにこちらを見ている。ぴくりともしないソレは、外見から見るに男の子供──少年だった。
警戒からすぐさま銃を構える。
それでも尚その少年は動かない。
いや、その少年は動けない。彼の首に巻かれているモノが、壁と繋がっているのが見えた。
そんな彼に敵意や殺意なんてものはなく、そも意思があるのかさえ曖昧だ。そのような少年に銃を向けるのは躊躇われ、構えを解く。
「おい」
返事はない。
まさか声が出ないのか。はたまた言葉を知らないのか。だとすれば──彼はどうしてこんな所にいるのか。
裏社会において、いわゆる奴隷といった買われた人間の存在は珍しくない。腐った金持ちであれば持っていて当然とも言える。
ともすれば──この少年もそうなのか。
少年へ歩み寄る。
警戒は解かず、されど殺意は持たず。
そのまま少年の前に座り込み、依然目を見つめられながら、男は少年へ問うた。
「……なら、俺と来るか」
……その男は殺し屋である。
だが世間一般に言われるモノとは違い、彼が所属している組織は認知されないモノ──いわば幻想の殺し屋だった。
故に、その心構えも普通の殺し屋とは大きく異なる。
殺しに特化した人間だとか、そういったものではない。無情に殺しを重ねる悲劇のヒーローでもない。慈悲も思いやりもあり、同情だって覚えてしまう。
だからこそ、男は少年の身を案じた。このままでは行くあてもない、死に行くしかない彼を心配したからこそ、男はそのように問いかけた。
では、少年の答えは──
「………………」
唖然とした沈黙が少し流れた後、少年は手を伸ばした。ゆっくりと伸ばされた右手は、目の前に座る男の左腕に触れた。
それが何を意味するか、問うまでもない。
男はその行動に対して薄く笑みを浮かべ、腰に付けていたナイフを手に取り、少年の首に巻かれているモノを断ち切った。
────
──幻想の殺し屋。
それは、世界を守るために設立された組織である。現代の闇──裏社会において、犯罪計画は常日頃存在しており、日々規模を拡大している。そしてそのような計画の中には、本当に世界を滅ぼす可能性を持ってしまうモノもある。
そんな計画と組織を事前に潰すために存在しているのが、彼ら幻想の殺し屋だ。
しかし、彼らは普通ではない。
彼らが動員されるのは、世界を滅ぼす計画がされた瞬間だ。その瞬間に彼らは計画犯の元へと派遣される。
それは常人には理解できないものであるが故に、突然現れた、と言われているのだ。
そんなことが可能なのは、彼らの所属が次元の高いところにあるからだ。
そう──彼らの雇用主は世界そのものであり、必然、所属も世界ということになる。
世界の平和を維持する……とまでは行かなくとも、世界を崩壊から守る、ファンタジーめいた組織。
それが、幻想の殺し屋の正体だ。
────
「あぁ、着いたぜ」
黒いスーツを着た背の高い男は、隣を歩く少年へそのように伝えた。
彼らの眼前には絢爛な館。
森の木々に囲まれた洋館があった。
その館こそは、彼ら幻想の殺し屋の本拠地である。 人気のない山の中腹に建てられた隠れ家……にしてはデカいものであり、殺し屋の拠点としては豪華なものだが、それによる問題はない。
なにしろ、幻想の殺し屋の構成員は全五名であり、その五名もまた幻想なのだ。
認知されることはない。
気づかれることはない。
そんな人たちが住んでいる館も、必然他の人からバレる心配はない。
男は少年と共に、館を囲むフェンスの門を開く。そしてそのまま玄関へと向かったとき──
「……その子、誰?」
庭にあるテラスの方から声が聞こえた。
そちらを見ると、テラスには一人の女が座っていた。ティーカップを片手に、目線は少年へと向けられている。
「なんだ、一人でティータイムか、黒猫?」
「……質問に答えて。
それと一人じゃない。さっきまで『ハリ』がいたけど、派遣された。『行きたくない』って泣きながら」
「そうか、あいつは仕事サボってたからな。いい気味だ」
黒猫──そう呼ばれた制服姿の女性は、凛とした態度のまま男と会話する。
彼女こそは構成員の一人。
最年少にして最新のメンバー。
首周りで整えられた黒髪に高校生らしい制服。黒いタイツを履いており、黒いインナーが首から指先まで覆っているため、顔以外の肌が見えない。
そんな彼女は普段はツンとした性格で、スンとした表情をしているが、情に弱かったりする愛らしさから、仲間内では『黒猫』と呼ばれている。
名前を持たない彼らは、そのように互いをあだ名で呼び合っていた。
「こいつは仕事ついでに拾ったんだ。行くあてもない子供を放っておけるほど無情じゃあないんでな」
「こんなところにまで連れてきて、その子が危険じゃない保証はあるの?」
「安心しろ、服をひん剥いて確認済みだ」
「……かわいそう」
そう言いながらも黒猫は少年を見つめる。
頭からつま先まで、一通り吟味して──
「……面倒と責任は、貴方にあるから」
手元のティーカップに目線を戻してながらそう言った。男はそれに、分かってる、とだけ返事をして、少年と共に館へ足を踏み入れた。
────
「……なるほど」
男が少年を館の一室──男の部屋に通してからしばらく、少年とコミュニケーションを図ろうとして分かったことがある。
──この少年は、言葉を知らない。
より正確には、相手が何を言っているかは何となく分かるものの、少年が言葉を発することはない──発することができない。
教育をまともに受けてこなかったのはもちろん、今までにしたコミュニケーションも一方的なものだったのだろう。
相手が命令し、少年はそれに従う。
そのように、一方的な。
「……よし、ここにいる間は言葉を学んでもらう。心配はいらない。俺が何を言っているのかが分かれば、後はそれを視覚的に当てはめていくだけだ」
椅子に座らされた少年はその言葉を彼の中で飲み込んで、小さく頷いた。
具体的に何をするかは分からないが、この人に従えばいいのだろう──と。
「とはいえ、今日のところはもう休むとしよう。……そうだな、まずは飯にしよう。お前、何か食べたいものはあるか?……って言っても答えられないよな」
適当に見繕うか……と男は小さく呟きながら部屋の扉を開ける。その後を少年はついて行こうとして──何か忘れていることに気づいた。
「…………ぁ」
そんな、小さな音が出た。
小さい、けれど確かな少年の声。それを男は聞き届けて──
「……そういえば、まだ名乗ってなかったな。
確かに名前はとうの昔に捨てたが、黒猫のようなあだ名はある」
少年自身も気づかなかった疑問に、男は当然のように答える。
「──リーベル。
それが、今の俺の名だ」
────
そうして、男と少年の日々は始まった。
「そうだ。やはり、お前にしてみればそう難しくはなさそうだ」
机に開かれる小学生用の漢字ドリル。
そのドリルに向き合う少年。
少年の側で教える男。
まずは数字から、と勉強を始めたものの、一通りはすぐに覚えた。もっとも、ここから常用漢字が四桁字あるのだが……全てを覚えるものでもないのは確かだ。
男がこのように言葉を教えているのには理由がある。それは、いつか少年が一人で生きていかなくてはならないからだ。生きていく上で言葉は必要である、という当然の理由だ。
そして当然のことだからこそ、この上なく大切なことでもある。
「この調子ならすぐに覚えられそうだな。今度からは算数も用意しておこう」
見た目とは裏腹に教育熱心な男だった。
これからの方針も決まり、ついいつもの癖で胸ポケットにある煙草に手を伸ばすが──やめておこう、と男は手持ち無沙汰になるのだった。
◇
「……じゃあ、今日はよろしく」
少年が館に来てから二週間ほど。
その日は珍しく男の部屋に黒猫が来ていた。
男が派遣されたこともあり、少年の面倒を見る役目を任されたのだ。
「よろしく、おねがい、します」
拙いながらも挨拶を返す少年。
ここ数日の勉強の成果か、日常会話ができる程には言葉を話せるようになっていた。
そんな少年の前には算数ドリルが開かれる。
並べられた問題を解きながら、分からないものは黒猫へと質問を投げかけていた。
「あの、ここ……」
「……あぁ、これは公式を使うの。
知ってる? 上底の下底を足して……」
黒猫はそのように問われた質問には返答しているが、基本的に少年は一人で問題が解けるため、無言の時間が続く。
部屋に置かれたベッドに腰を掛けながら、黒猫は問題に取り組む少年を眺める。
“……見た目から見るに八、九歳あたりだと思うけど……”
最近学び始めたにしてはよく出来ているな、と感心していた。
そんなことを思いながら過ぎていく時間。
少年も疲れが溜まったのか、ペンを置き、首をゆっくり回した時──少年の目線が壁棚に置かれた写真へと向けられた。
黒猫もつられて目線を向けたその先には、男と一人の女性が写った、ツーショットの写真が置かれていた。
「あぁ、あれは……」
そこまで言って、その先を本当に言っていいのか分からず口を閉じる。
黒猫はその写真のことを知っていたが、同時にむやみに広めるものでもないことも知っている。だが──
“……ま、少しならいいか”
疑問符を浮かべる少年へと、簡単に伝えることにした。
「あいつ──リーベルにも恋人がいたの。
私も詳しくは知らないけど……あいつがここに来たのも、その恋人が関わってるみたい」
────
そして、少年が来てから一ヶ月ほど経ったころ。
──その日は珍しく曇天だった。
人が出払った静かな館の中で男と少年はいつも通り、部屋で勉強をしていた。
ペンを持ち、問題を解き、言葉を覚える──いつものように過ごしていた、はずだった。
「……ぅ、ぁ……」
少年から小さくうめき声が漏れた。
鼓動を抑えるように胸に手を当て、痛みに耐えるように歯を食いしばる。
「どうした」
その異変を男は見逃さない。
苦しそうにする少年の肩を掴む。
その少年には、涙が浮かんでいた。
そして──
「ごめん、なさい……」
それが何に対する謝罪なのかは分からない。
どういう意味か、と男が問おうとして──
「────!」
瞬間、部屋の窓が割れた。
飛び散るガラス片、乱反射される光。
──その向こうに、何かがいる。
対応する時間も与えられぬまま、その何かが部屋へと入ってくる。
そして──そのまま、世界は暗転した。
視界が消える最後に見えたのは、少年の目に浮かぶ涙だった。
────
「………………」
──目を開く。
そして、すぐに理解した。
最後の記憶は、部屋の窓が割れて何かが入ってきたこと。そこで意識を失い、今、目を覚ました。
手は後ろで繋がれ身動きが取れない。
身につけていた武器も無くなっている。
しかるに──男は、拉致されていた。
更に驚くべきは、今いる部屋から見える景色だ。目の前にはガラスの壁が一面にあり、街を見下ろせるようになっていた。おそらくはビルの中。それも最上階近いだろう。
「やあ、気がついたかい?
──名もなき殺し屋さん」
そのガラス壁の前に置かれた椅子には、若い男が座っていた。こちらを見ながら、心底から愉快だ、とでも言わんばかりに。
その若い男を無視して周りを見渡す。
部屋の中には武装した人間が数人立っていた。
そして──
「────!」
拘束されたまま横たわる、少年がいた。
「いやぁ全く……こんな愛玩人形がここまで働いてくれるとは思わなかった。君のような殺し屋も、子供には弱いんだねぇ」
「……人形?」
若い男は少年をそのように呼称した。
愛玩人形、と。
「気づかなかっただろう? 私が持てる全ての技術を使ったからねぇ。文字通り中身を視ないと分からない。分かる筈がない。
もはや人形と呼ぶことすら正しくない。より的確に、最新的に言うならば、デザイナーベビー、と言った方がいいだろう」
微笑と共に紡がれる言葉。
その言葉を、男は理解する他ない。
……なるほど、人形。あるいはデザイナーベビー。であれば、何か位置情報を送るようなものが体内にあっても不思議ではない。
──そして、何より重要なのは。
「こいつは、そのことを知っているのか」
「いや、知らないよ? だって、まともに話したことないからね。彼という個人、人格さえ無かったはずだ」
……そうか。
少年は、文字通り何も知らなかった。
何よりも、自分自身を知らなかった。
それはあまりにも──。
「さて、ここからは君の話をしよう。
捕えたはいいものの、私も君が何なのか量りかねている。まぁ、その人形が側にいる時点で推測はできるが。
しかるに、君は──突如現れては殺しだけをする、『幻想の殺し屋』、なのだろう?」
「………………」
「図星かな。それとも怖くなった? 安心してよ、君がどうなるかは、何が起こっても変わらない。
──殺すとも。私の仲間が、そうされたようにね」
そう言うと、若い男は右手を上げた。
それが合図とでも言うように、周りにいる武装した人間が、こちらへ銃口を向けた。
男の命は握られている。
あの若い男がやれと命じれば、そこで男の命は終わりを告げる。
……だが。そんな状況を以ってしても、彼には一切の恐れがなかった。それどころか、その顔は平生そのもの。
「……少年が人形であることは分かった。俺がその殺し屋であることも認めよう。
だが、それでお前はどうする? デザイナーベビーが造れたところで、成せることなぞたかが知れているだろう」
「……いいだろう。どうせこれで最後だ、教えてやる。まず、そのデザイナーベビーは言葉通りの意味ではない。私が造っているのは新たな人間──新霊長だ。我ら人間に置き換わる、より善い生命、その誕生を見届ける!」
……馬鹿げている。
そんなものは認められない。
より善いものを目指すこと自体は否定しない。けれど、そのために今の平穏を乱すことは決して許されるものではない。
そして──そんなもののために生まれた少年が。
「そいつは随分と大胆な計画だな。
実現性というものが全くない。ともすればそれは、夢物語というものではないのか?」
「たとえ夢物語であろうと、叶うとも。
そのためにここまで来た。そのために殺してきた。そのためにこんなゴミのような社会を見てきたのだから。
──既に道は見えている。
感謝するよ、名も知らぬ君。君と共にいたそいつは、初めて自我を確立した個体だ。もはや我が計画は手の届く距離にある」
若い男は高揚したように言う。
夢が叶うと、願いが叶うと。
目を輝かせるその若い男は、まるで無邪気な子供のようだ。実際、その計画は成功するのだろう。
──だからこそ、その計画が遂げられることはない。
「そいつは良かったな。だが、その前に最後の関門があるらしい──そいつは最後にしておけ、黒猫」
「────!」
それは、刹那の出来事だった。
若い男が一歩足を踏み出した瞬間──その後ろに、女が現れた。音はなく、まるで、死神の如く。
「動かないで」
若い男に首元に添えられたナイフ。
少しでも動けば容赦はしない──とでも言うように、黒猫はナイフを握る。
「仲間か……!」
一転して命を握られた男は、すぐさま周りを見る。
男は拘束している、武装した人間も用意した。であれば、まだこちらが優勢だと。
「…………は、」
だが、そこには死体しかなかった。
より正確には──拘束された男と、もう一人の見知らぬ男以外の死体が。
その見知らぬ男は、今まさに拘束を解こうとしていた。
「なんだ……何なんだ、お前らは……!」
「殺し屋だよ。君の言った通りのな。
そしておめでとう。こいつらが派遣されたということは、君の計画は本当に実現可能だったようだ。もっとも──永遠に叶うことはないがな」
その言葉が最後の言葉。
ナイフを持つ黒猫はそれで終わりと判断し、若い男の喉を掻き切った。そのまま、その命は終わりを告げた。
────
「……館が壊れてる時は、何かと思った」
「私と黒猫さんはちょうどいませんでしたからね。帰ってきて唖然とする黒猫さんの顔を見た時は、つい写真を撮りたくなりました」
館への帰路、男と黒猫、そしてスーツを着たガタイの良い男が肩を並べて歩いていた。
スーツの上からでも分かる筋肉量。短く整えられた髪にメガネをかけた姿からは、温厚さが溢れている。
そんな男のあだ名は『非常勤重役』。仕事量が少なく、館へ来ることも少ないことから、そのように呼ばれている。本人的は不名誉なようだ。
そしてその非常勤重役の背中では、少年が眠っていた。幸いにも、怪我はなかった。
「ですが実際、かなり危なかったのでは? 今回は派遣されたから良かったですけど、そうでなかったらあのまま死んでいたでしょう」
「それならそれで受けいれるさ。それより──そろそろ起きてもいいぞ」
「!」
その男の言葉の後、少年がゆっくりと起き上がった。背中から降りて、少し俯く。
その手は震えていた。
それでも意を決して言葉を発する。
「……ごめん、なさい。僕の、せいで」
今回男が連れて行かれたのは僕のせいだ、と少年は謝罪をする。だが、男は既に分かっている。それは決して少年がわざとやったものではなく、対処のしようがなかったものだと。
「気にしてないさ。お前が生きていればそれでいい。それより──これで、お前は晴れて自由の身だ」
「え────」
「ちょうどいい機会だ。いずれ聞こうと思っていたが、今聞いておこう。
──お前は、何になりたい」
……いずれ、聞くことではあった。
男は殺し屋。少年といつまでもいられる訳ではない。なにより、そんなことは男自身が許さない。
だから言葉を教えた。
少年の人生がこの先には待っている。
──なりたいものになれる。
──やりたいことを、やっていいのだと。
問われた少年は、少し考えて、男を見つめながら答える。
「──あなたに、なりたい」
────
館の二階にあるテラスに男はいた。
“──あなたに、なりたい”
少年にそう言われた後、男は少年の身柄を非常勤重役に預けた。
非常勤重役はその実、教師を兼任していた。
俺のようになりたいのなら、まずは世界を知るべきだ──男はそう言って少年を学校に行くように促した。
男のようになるとは、つまり殺し屋になるということ。それを否定する訳ではない。だが、道を選ぶのはまだ早い。
少年には自由がある。
まだ知らない世界がある。
男のようになりたいと言うのは、世界を知った後でも遅くない。
「………………」
少年はそれに頷いた。
衣食住は非常勤重役が用意してくれるし、生活費や教育費は男が負担することになった。
文字通り、少年の人生が始まった。
男は柵に腕を置きながら、空を見る。
雲一つない晴天。
深い青色の空は、地平の先まで続いている。
そんな空が、思い出を刺激する。
──俺には愛した女がいた。
この組織に入る前、互いに運命を共にした相手がいた。
けれど、彼女は死んだ。
原因は色々あるが、最たるものは彼女元来の体の弱さだった。
病気を患い、体を蝕み──それでも尚、痛みに負けず自由に歓喜を見出した、太陽のような人だった。
そんな彼女が病に臥した時、側にいた俺へ言葉を残した。
“──愛した青空を、守ってほしい"
……あぁ、守ったとも。
君のようにやれることを全てやって、誰もが自由を喜べるように。
この青空がどこまでも続くように。
そんな世界が壊れることのないように。
だから、君も──
「……なんて、ただの夢だ」
でもそうであったら、それはどんなに良いことだろう。
優しく穏やかな風が吹く。
長い髪をさらっていく。
なんだか寂しく感じて、胸ポケットの煙草へと手を伸ばす。
ライターで火をつけて、一息吸ったところで──
「……なんだ。できたじゃないか、禁煙」
それが、一ヶ月ぶりの煙草であることに気づいた。
実に少年に出会ってから今まで、煙草というものに手を伸ばすことはなかった。
久しぶりの煙草の味を噛み締めながら、もう一度煙を吐く。
……それはまるで、日常に戻ったような。
あの少年との日々は思い出となり、二度と実感することはないのだと思い知る。
────だが、それでいい。
少年は自由を手に入れた。
であれば、俺がするべきことは変わらない。
遥かな君。愛した君。
君たちが自由を喜んでいるのなら──
「俺は──その自由を守り続けよう」
読んでいただきありがとうございます。
余談ですが、男の『リーベル』という名前は、一度だけ名前が出た『ハリ』という女性が名付けました。
『ハリ』は館の管理、園芸などを担当している──といった設定もあったり。
残念ながら出番は無かったようです。




