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ラベンダーよ。おお、ラベンダーよ!

作者: jima

『愛しい貴方がこの手紙を開くのはオヌマン帝国領に馬車が入った頃と思います。

今、私の胸は去って行った貴方への思いで溢れています。貴方はどんな顔色でそこにおられるのでしょう』



果てしなくラベンダーの花畑が広がるその道を馬車はひたすら東へと向かう。

すでに敵国オヌマン帝国の領地深く我々の部隊は侵入している。

鮮やかな紫色のラベンダーが私の故郷のその花よりさらに甘い香りで咲き誇っている。

その濃紺の絨毯は目に映る地面すべてに広がり、まるでこの世の果てまですべてを覆い尽くしているかのようだ。

私は美しさと同時に蒸し暑さを感じ、深呼吸をした。




一旦手紙から顔をあげ私は眼を閉じた。ラベンダーの姿と香りで思い出す。

浮かんでくるのはつかの間の平和であった日々、私の家の一場面だ。

私は妻が入れてくれたオヌマン特製のラベンダーティーを庭先の安楽椅子で啜る。柔らかで甘い風味が私の鼻腔から全身に広がった。

庭では6歳の息子に向かって妻のマーガレットが話している。


「パブロ、この壺を見てご覧なさい。大きいでしょう」

私の祖父…東ロームで最強の武闘派と言われた彼がその晩年にオヌマン帝国から仕入れた大きな壺が軒先に並べられている。


「はい、母様」

パブロが自分の背丈よりも大きな壺を見上げながら頷いた。


「ここにコップ一杯の水を入れたらどうなりますか?」

妻が傍らのバケツから小さなコップで水をすくいあげ、壺に差し入れた。底の方でチャポンと小さな音が聞こえる。


「小さな音がするだけです。母上」


「そうです。『努力』とはそういうものです。けれど」

マーガレットは別の壺にまた一杯の水を注ぐ。すでにほぼ満水状態であったこちらの壺からは水があふれ出て、地面を濡らした。


「母上、そちらからは水がこぼれ出ました」

パブロが指さす。


マーガレットが微笑んで頷いた。

「どんなに大きな壺でも毎日少しずつ水を溜めていけば、いつかは外に溢れ出ます。でも、それまでその頑張りは外から見えないし、自分でも感じ取ることは難しいのですよ」

マーガレットが息子の頭に優しく手をのせる。

「眼に見える成果が出なくても積み重ねなさい。努力するとか頑張るというのはそういうことです。わかりますか、パブロ?」


「はい、母上。よくわかりました」


そう、マーガレットは昨日家庭教師の課題から逃げ出したパブロを易しく諭しているのだ。

私はマーガレットの『心地よいお説教』を耳に、また一口ラベンダーティーを飲み込んだ。






私が妻マーガレットの手紙を読み始めたのは彼女の予想通り敵国オヌマンの地に足を踏み入れた頃だった。

手紙は彼女の手作りであるサンドイッチのその下に隠すように置かれていた。

それはまだ本日未明の頃、コンスタンペルの我が家を出るときマーガレットがバスケットごと手渡してくれたものだ。彼女は私の昼食時間がおおよそこの地点この時刻であることを予想していたのだろう。聡明なマーガレット、私は彼女を深く愛している。例え彼女の出身地が敵国オヌマンであろうとも、彼女がその帝国の王室出身であろうとも。





「貴方…いいえ、バージル将軍閣下。いってらっしゃいませ」

潤んだ瞳で私を見つめた後、彼女は跪いて美しい祈りの言葉を私に捧げる。

「私の青い祈りが貴方の命に届きますように」


それから私たちは抱擁をして、朝焼けの屋敷の前で別れた。

我が東ローム帝国軍、私が率いる「無敵バージル旅団」の出陣である。






『思えば貴方との出会いは10年も前、政略結婚ですけれど、私はそんなに割り切れるほど賢い女ではなかったのです。強い意思を秘めて貴方のもと、この東の国に嫁いできました。

貴方は私の予想をまるで裏切り、優しくて思いやりのある方でした。思いもかけず結婚生活は幸せで戸惑ったものです。今日この日が来るまでは』





そう彼女は10年前の和平の後、その証として敗戦の敵国オヌマン帝国からやってきた花嫁だった。

王からこの縁談を命じられた時、私は耳を疑った。

私はオヌマン帝国を打ち破った張本人であった。その仇敵とも言える私の元にオヌマンの姫君が降嫁するという。

我が王からすればそれはある意味ではオヌマンへの報復であったろうし、別の意味では平和に向かう道筋の象徴であったかもしれない。私に断る選択肢はもちろん無かった。


だが結婚生活は予想に反して平和で幸せで、私は美しく優しいマーガレットを心から愛した。数年後には息子のパブロも生まれ、いつまでもこの日が続けば…と思える穏やかな日々が続いた。あの日オヌマン帝国が和平協定を突然破棄し、国境に攻め込んでくるまでは。


突然のことにその侵攻をある程度許した我が東ローム帝国だったが、次第に戦線は膠着し逆に押し返し始めた。ローム王は決意した。私と私が率いる『無敵バージル旅団』投入である。

私はオヌマンの国境を越え、敵国の首都に向けて打撃を与える目的で最前線へ向かっている。

多分私が到着すれば、オヌマンの息の根を止められる。

だが懸念もある。予想以上に戦線が広がり、補給線も長く伸びきっている。

私の旅団の攻撃が停滞するようだと、逆に全戦線の崩壊が始まるやもしれぬ。戦況は五分五分といってもいい。私の到着の遅速がこの戦争の勝敗の雌雄を決する鍵となる。


それにしても暑い。




私はこの時期にはあり得ない暑さを感じ、窓をさらに大きく開けて車内に風をいれた。

馬車の窓外に広がるラベンダーの花畑はいよいよその青さを鮮やかにしている。

浮かんできた焦燥と不安を落ち着かせようと、私は再び手紙に眼を落とした。






『貴方にとって私との縁談が断れるものではなかったのと同様に私にとっても宿命のようなものでした。貴方の元で幸せな家庭生活を送り、子を授かろうとも私はオヌマンの姫であることからは逃れられなかったのです。私は貴方に故郷の茶を勧めました。私たちオヌマン人にはそうでなくとも異邦の方にはほんの僅かな毒となって体内に残る青くて美しいお茶です』



私はいつか脂汗を額に浮かべていた。息苦しさに窓から顔を出す。


「どうしました。バージル将軍」

向かい側に座る側近将校が怪訝な顔をした。

私は答えずもう一度手紙に眼を落とす。



『僅か過ぎて普段の生活では気づかないほどの不調ですが、国境の広大なラベンダー畑で花々の香りを胸一杯に吸い込んだ貴方は10年分の私の祈りと…そしてオヌマンの呪詛を溢れさせることになるでしょう。




バージル将軍、貴方。心から愛しています。それでも私はオヌマンの姫なのです。

私の青い祈りがこの旅であなたの命に届きますように。   マーガレット・ラベンダー・オヌマン』





「馬車を止めてくれ!止めろ!」

私は叫んで馬車を停止させる。

私は手紙をつかんだまま、よろよろと馬車から降りた。

後方で部下達が何か言っているが、耳に入らない。聞こえない。


足下が震え、目眩がする。

私は何とか手紙に火をつけ、灰にした。

これでいい。




私はラベンダー畑にドサリと仰向けで倒れ込む。

周囲は美しいラベンダーの青と甘い香り。それは私の愛する妻の色合いと香りでもある。

空は澄み渡りオヌマンの地の美しい青…だがこれは私の国で今頃私を想い、見上げているだろう妻の空ともつながっているのだ。



ほんの僅かの時間で私には何も見えなくなるに違いない。

それでも美しい青と妻に抱かれて、私は最期の幸せな数刻を味わった。






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