09 曇りガラスの向こうは
※今回は助監督の小松視点になります
「うなっ――」
不意に息が詰まって、小松は慌てて身を起こす。
唐突に、視線の位置が低く変化している。
机に向かっていたはずが、いつの間にか床に転がっていた。
右頬を濡らす冷えた涎を掌で拭いながら、自分の状況を徐々に理解する。
「あー、久々に寝落ちしちまった」
呼吸がやけに荒くて、心臓が煩く跳ねていた。
内容は覚えていないが、悪夢でも見ていたのだろうか。
編集作業を終えた後で一通りチェックして、動画は――葛西に送ったっけ。
綺麗サッパリ記憶が抜けているのに気付き、軽くはない動揺が湧き上がる。
「もう若くない、ってことかよ」
記憶が曖昧なのは酒のせい、と自分を納得させるために小松は呟いてみる。
しかし動悸の喧しさは治まらず、イマイチ自分を説得しきれていない。
そもそもまだ三十前だし、泥酔するほどの量は入れてないつもりだ。
薄暗い――何故か部屋の電気が消えていて、光源はパソコンのスリープ画面のみ。
まずはファイルを送ったか確認しようと、マウスを動かして画面を復帰させる。
「んぼぁあっ!」
叫び声に近い、変な声が出た。
さっきの動画の中にあった、曇りガラスの窓越しに長髪の女の影が映るシーンが拡大され、その状態でフリーズしていた。
多分、動画を送る時に注目ポイントって意味でキャプチャー画像を添付して、その時の作業で何かミスをしたんだろう――そうに違いない。
小松は電源ボタンの長押しでPCを強制終了させ、すっかり冷えてしまった体を温めようと風呂場に向かう。
消えている部屋の照明を点けようとするが、何をやっても反応してくれない。
PCは動いているから、ブレーカーが落ちたワケでもないようだ。
少しばかり困るが、勝手知ったる自分の部屋なので目を瞑っていても歩ける。
熱いシャワーでも浴びれば、頭もハッキリするし気分も良くなるハズだ。
乾いた汗を流してしまえば、疲労感は残ってもある程度リフレッシュできる。
そう思いながら部屋のドアを開けようとした瞬間、疑問が浮かんでしまった。
どうして、汗が乾いているんだ。
どうして、体が冷えているんだ。
エアコンの壊れた、六月の蒸し暑い、1Kの部屋で――
違和感の正体を把握した瞬間、全身が鳥肌に覆われた。
部屋の空気が、肌寒いくらいに低温になっている。
エアコンへと視線を向けるが、運転中を示すランプは消えたまま。
自分の心臓の音と呼吸の音と血流の音に混ざって、規則的な音が響く。
カンカンカン――カンカンカンカン――
これを知っている。
最近、どこかで聞いた。
えぇと、何の、何の音だっけ。
カンカンカン――カンカンカンカン――
踏み切り、じゃない。
打楽器、でもない。
工事現場や、建築現場とも違う。
カンカンカン――カンカンカンカン――
前に住んでいたアパートの、金属製の。
階段を急いで、昇り降りする時の。
いや違う、違うだろ。
「あの、あそこの」
工場の二階、金網みたいな床を和久井に走らせた。
あいつの動きに合わせて、硬質な足音が――
正解らしきものに、辿り着いた。
辿り着いてしまった。
「あぁ、あぁぁあああ、あぁあぁぁぁ、ああああぁああぁ、あ」
意味のない音の連なりが、喉の奥から止め処なく溢れた。
部屋とキッチンを隔てる引き戸、その曇りガラスの向こう側。
髪の長い誰かが、何かが、佇んでいるのが見える。
見える、って――どうして見えるんだ。
キッチンは真っ暗なのに。
ガラスは曇りガラスなのに。
赤紫の腫れぼったい顔の輪郭が。
見えるし、見ているし、見せられてる。
いっそ、気絶してしまいたい。
意識を手放して、夢の中に逃げたい。
でも、気を失ったらきっと、終わる。
全てがそこで、お終いになる。
目を閉じられない。
呼吸が上手くできない。
膝がフワフワして、今にもへたり込みそうだ。
視線がアチコチ飛ぶのに、脳裏にはずっと――
コチラを見ている、顔が居座っている。
赤紫に膨らんだ、顔が。
小松はとりあえずドアから離れ、ゆっくりと後退る。
左の脹脛が、パイプベッドの縁にぶつかった。
バランスを崩して、尻からベッドに落ちる。
鈍い衝撃が走ると同時に、それは入ってきた。
引き戸は閉まったままなのに、入ってきた。
目を閉じられない。
でも見たくない。
両手で顔を覆う。
なのに『それ』は――
見えるし、見ているし、嗤っていた。