37 ことの終わり、或いは始まり
工場の入口近くまで戻ったところで、重たい衝撃音が背後から響いた。
「何……かな」
「……何、でしょう」
ユリカと林は顔を見合わせるが、正解らしいものは思い浮かばない。
「ちょっと見てくるんで、林さんは先に」
鹿野への報告は林に任せ、様子を確認するためにユリカは工場の中へと戻る。
逃げ出したい気持ちは最高潮だが、何が起きているのかわからないのは、より危険な状況を招きそうな気がした。
そんな直感に衝き動かされ、ユリカは恐れと怯えを踏み越えていく。
ライトは相変わらず調子悪いが、どうにかこうにか足元は照らしてくれている。
急いだ方がいい予感がして、ユリカは何度も躓きながら工場の奥へと踏み込む。
ふと空気が変わって、目の前に白刃を突き付けられるのに似た感覚が。
鼻腔が異臭を察知して、脳が警報をけたたましく発する。
この腥さは、ついさっきも嗅いだ。
血の臭い。
息を潜め、動作をゆっくりにして周囲を探る――ああ、あれだ。
放置されたまま錆と埃を堆積させた、何に使うかわからない機械。
その周辺に、上階から墜落したと思しき、人体の部品が散らかされていた。
今も広がり続ける血溜まりの中に、桃色の肉片が点在している。
「これ、は……」
義務感のようなものに駆られ、明かりを掲げてそこにあるものを見る。
普通ならば、泣いたり叫んだりして取り乱すべき、なのだろう。
しかし、極度に酸鼻な光景や日常から乖離した状況は、居合わせた者の精神を麻痺させてしまうらしい。
ユリカは妙に落ち着いた心境で、そんなことを考えていた。
白い光の先では、数分前まではアイダと和久井だったものが、珍奇なオブジェと化して湯気を立てている。
鼻から胸にかけて挽き潰され、両脚がどこかに消えてしまったアイダ。
アイダの腰の辺りには、裂けた背中から各種臓物を噴き出した和久井が、ガッシリしがみついている。
どうしてそうなったのか、ユリカにはわからない。
ただ、とんでもないことが進行しているとは理解できた。
遺体から目を離せず硬直していると、階段を下りてくる足音が響いてきた。
一段、また一段と、足元をしっかりと踏み締めるペースだ。
逃げ出したかった。
でも、足が動かない。
膝が笑っている。
足音はすぐ近くまで来ているのに、姿はいつまでも見えない。
呼吸音の乱れに引っ張られ、思考も千々に乱れる。
やがて、フッと足音が消える。
次の瞬間、二階から重量感のあるものが降ってきた。
ユリカは反射的に、光源と視線を向ける。
降ってきたのは、常盤だ。
もげた頭が足元に転がってきたので、間違いない。
「むひぇ――」
まだ麻痺が続いているのか、喉の奥で悲鳴の出来損ないが弾けた。
だが、衝撃に衝撃が重なったことで、頭と体の機能停止が解除されたらしい。
動けるようになったユリカは、その場を後ずさりして離れることができた。
十メートルほど不自然な体勢で移動した後、どうにか普通に動けるようになった。
現時点での全速力で逃げている間、手や顔に何かが――長い髪のような何かが当たるけれども、その正体を確かめられない。
ひたすら真っ直ぐ、足元だけを照らして走り、工場を文字通りに転げ出る。
誰かに――とにかく誰かに、助けを。
その思いだけで、数十メートルの距離で六回も転びながら、本部のプレハブ前へとユリカは辿り着いた。
ドアノブを握ると、またも嗅ぎ慣れた臭いに出迎えられた。
ドアの隙間から漏れる明かりは、地面を濡らした液体が赤いと報せてくる。
本能は「開けるな」「やめとけ」みたいなメッセージを繰り返す。
でも、ここで止まったら全てが終わりそうで、ユリカは恐る恐るドアを開けた。
「ううぅ、う? ……ぅわぁあああぁあああっ!」
無意識に漏れていた呻きが、叫びに転じた。
途中まで開けたところで、ドアが内側から勢いよく開かれる。
開けたのは、ドアに体重をかけて寄りかかっていた林――の体。
首の前部が半ば以上も切り裂かれ、全身を赤一色に染め上げていた。
パックリ開いた傷口では、血管や気管や食道が解剖図でしか見ない断面を晒す。
ドシャッ、と音を立てて林が崩れた先では、更に異様な光景が展開されていた。
「なっ? なな、なっ――」
誰と誰がどうなって何をしているのか、というところまではわかる。
しかし、どうしてこうなっているのかは、ユリカの理解の範疇外だ。
「何、を……」
絶句するユリカを無視するように、下半身裸のミクを跨らせた鹿野は、忙しなく体を蠕動させていた。
そしてミクの頭を抱え、窒息しそうな長さと濃さのキスを延々と繰り広げる。
されるがままのミクの蕩けたような眼は、焦点が合っていない。
「林さん……は」
「うん、うるさいからね、ちょっと黙ってもらったんだけど。それで、ユリカさんは何の用かな? キミもうるさいのかな。それは困るんだけどね。ね?」
「その、それって――」
気が付いてしまった。
鹿野の腕に抱かれているミクの口の端から、赤黒い涎が散る。
ありえない角度と軌道で頭が揺れるのは、首の骨が折れているから。
夢見るような双眸は、単に瞳孔が開いていただけだ。
「ぐぶぇえええええぇ――ええええぇぷっ」
後頭部が背中にピタッとついた、不自然なポーズのミクから長いゲップが漏れる。
その湿った音の後、鹿野はふと我に返ったようになり、ミクの体を引き剥がした。
「あーあ、壊れちゃった。じゃあ次は、ユリカさんにお願いするかな」
ゆらり、という感じに腰を浮かせた鹿野は、局部丸出しのマヌケな格好だ。
しかし、ユリカはまったく笑えない。
鹿野が向けてくる、完全にタガの外れてしまった人間の表情。
頭を前後にカクカク動かし、腰を左右にフニフニ振って粗末な性器を揺らす。
どこも見ていない目で鹿野に見据えられ、肩と膝から力が抜けていく。
だめだ、このまま座り込んだら――。
視界の隅でとぐろを巻いているミクの姿に、自分の近未来を幻視する。
ミクの張りがありすぎる乳房の間から、見覚えのあるものが突き出ていた。
鹿野の仕事場で目にした、派手な装飾を施された変形ナイフのグリップだ。
「ヒッ――」
ユリカが思わず息を呑むと、不思議な踊りを続ける鹿野がスンッと止まった。
危機感を爆発させたユリカは即座に踵を返し、半開きのドアを蹴り開け、林の死体に引っ掛かり、ザラついたコンクリートの上を転がり、左腕に違和感を覚えながらも立ち上がって、四肢の動くまま力の限りに駆ける。
とにかく、ここはダメだ。
この工場が、人をおかしくさせている。
逃げなければ、敷地の外へ、早く、早く早く早く早く――
頼りない月明かりに縋って、ひたすらに両脚を動かす。
ドラはまだ、戻ってこないのか。
鹿野はもうダメだと、みんな死んでしまったと、伝えなければ。
走って、走って、息が切れて、足が縺れる。
バランスを崩し、転びかけて、右足で踏ん張ると膝に痛みが。
動きを止めた途端、肺がもっと酸素を寄越せと暴れ出した。
胸を押さえ、跳ね回る心臓を落ち着かせようとする。
自分のものとは思えない、獣じみた呼吸音が耳にうるさい。
何か変だ、と首を巡らせてみると、月明かりが見えなくなっている。
「うぅ、ぁふ……」
次の瞬間、自分がどこにいるか気付き、呻き声が出た。
ここは工場の中、地下に続くスロープを降りた場所だ。
どうして出口じゃなくて、こんなところに。
間違えようが、ないのに、どうしてこんな――
意味不明なミスを処理しきれず、脳が忙しく空回りする。
「大事な話があるんです、ユリカさん。怖がってはいけない。恐怖は連中にチカラを、存在の証明を与える。見えないものに怯える必要は、なかった。ただあるものとして、あるのだからしかたないものとして、受け容れる。それこそが正しい態度だとね、常にそうあるべきだと、わたしたちは思うのです。だから、話し合いをしましょう。話し合いを」
鹿野の、朗々としているが一本調子な語りが、背後から投げかけられた。
理路整然としているようで、どこかが致命的に破綻しているような。
これは――こんなものは、相手をするべきではないし、してはいけない。
その直感が全身を支配し、鹿野と顔を合わせるのを両脚が拒絶する。
こっちも正解ではないと知りながら、ユリカは地下階の奥を目指すのを選んだ。




