01 金鍼山病院
『うぅわわわわっ、いやマズいっしょ⁉ これマズいって! ねぇ!』
薄暗い会場内に、焦りと怯えをたっぷり含んだ男の声が響く。
強い照明を当てられた、中肉中背の体格をしたTシャツ姿の声の主は、短めの赤い髪を忙しなく掻き回しながら、カメラを向けている相手に抗議していた。
ハッキリとした目鼻立ちなのが、その狼狽ぶりを殊更に際立たせている。
しかしカメラマンは「大丈夫だって」とか「何もないって」と繰り返すばかりで、赤髪男の話に聞く耳を持たない。
『いやいやいやいや、今の聞いたでしょ⁉ 聞こえてんでしょコマも! トッキーも! 絶対にアレ、笑い声だったって!』
確かにこの数十秒前、男がスタッフと無駄口を叩きながら階段を下りていくシーンで、くぐもった笑い声に似た音が混ざっていたように思える。
性別のハッキリしない、無機質な笑い。
男の混乱が観客にも伝わっているのか、小さく唸り声を漏らしたり、周囲の人間と囁きを交わしたりと、明らかに不穏な空気が広がっている。
一人だけ満面の笑みを浮かべている厚化粧の若い女がいるが、あれはオカルトマニアとかそういう人種だろうか。
そんなことを考えつつ、ユリカは視線を客席から小ぶりのスクリーンへと戻す。
『マジかぁああ! オレ一人で突撃リポートとか、意味わかんねぇから! さっきの声も、もぉ何なんだよ……完璧ヤバいって、この流れ』
ハンディカメラの暗視モードで撮影された情景に、赤髪男の泣き笑いのような愚痴が重なってくる。
映っているのは、細々としたゴミや砂礫が目立つ荒れた廊下だ。
カメラの角度が変わり、スプレーで「呪死」と大書された壁がアップになった。
『うっはぁああああ! のろいし? じゅし? ……って、もう何なんだよやめろってばマジでぇええ……んぁ⁉』
焦点がサッと横にズレると、今度は「アナルSEXしたい」という殴り書きが映され、そこかしこで笑い声が漏れる。
『知らねぇよバカ! こんなとこでアピールしても誰にも届かねぇよ!』
キレ気味な男のシャウトに、客席の笑い声のボリュームは上がっていく。
場の空気が一瞬にして緩むが、カメラが「剖検室」の表札に向けられると、また瞬時に引き締まった。
剖検室とは解剖室のことで、当然ながら病院やそれに類する施設にしかない。
『えー、それでは只今よりアイダケンジ、噂の――もぁああああっ!』
ヘッドランプを着けた緊張気味のアイダが、カメラに向けて喋っている途中で唐突に叫んだ。
不意打ちの大音量に、ユリカや客達の肩がビクッと跳ね上がる。
何事かと画面を見ても、カメラが酷くブレいるので、何が何だかわからない。
『かっ、なばっ、なななななななな何か、何かいた! ぅあ足元をこう、こう走って――マジいたって! マジでマジで! 何だよこれぇ!』
荒い呼吸と泣き言に、バタバタと床を蹴る耳障りな靴音が被さる。
喚きながらの逃走劇がしばらく続いた後、編集が入ったらしく場面が飛んだ。
そして再び、剖検室の前にいるアイダが自撮りしている様子へと戻る。
前のシーンと違うのは、ちょっと涙目で鼻声になっている点だ。
『あー、はい……じゃあアイダ、改めて突撃でぇす……』
あからさまに急降下したテンションで、アイダは重そうな扉に手をかける。
その先には、さっき見た廊下に輪をかけて荒れ果てた光景が広がっていた。
ヒビの走ったコンクリの壁には、暴走族のチーム名らしい難読漢字の羅列や、リビドー溢れる猥語が書き殴られている。
アイダは恐る恐るといった足取りで、室内へとゆっくり踏み込んでいく。
本来ならあって然るべき、解剖台や道具類を収納する棚は見当たらない。
その代わりとでも言うように、無骨なデザインのスチール机が、何故か部屋の真ん中で横倒しになっていた。
机の周辺には、空のペットボトルや潰れた煙草の箱が散乱している。
そこに混ざってボロボロのジャンプが落ちていたが、表紙を飾っているのは知らない作品だ。
『えぇええ? 何でこんなとこに、こんなのが』
言いながらアイダは薄汚れたCDケースのようなものを拾い上げ、表面の汚れを拭う。
ジャケットには『スーパー桃太郎電鉄』と書いてあった。
これはすごろくゲームだったっけ――ユリカは何となくの記憶を掘り起こしながら、意味不明な落し物の理由を考えてみる。
しかしその行為は、部屋の隅に置かれたドラム缶、という更に謎めいた物体が映し出されたことで中断された。
『いやいや……こんなん、不自然すぎるでしょ。桃鉄の十五倍くらい不自然っしょ』
アイダは震え声で、尤もなツッコミを入れる。
標準的――なのかイマイチわからないが、ドラム缶と聞いて大体の人が思い浮かべるであろう形とサイズ。
画質が粗いので細かい部分は不明だが、使い古された感はなく妙に新しい。
アイダが押したら簡単に動いたので、中身は空のようだ。
しばらくドラム缶にこだわっていたアイダだが、いまいち広がらないと判断したのか、その場を離れて入口とは別の金属扉の前に立つ。
『えー、この先が霊安室、ですね。冷暗所保管、ってのは大体ここに入れまーす』
だだ滑りのギャグを真顔で放った後、アイダは憂鬱そうに溜息を吐きながら扉を開けた。
廃墟探検や肝試しに来た連中も流石に気が引けたのか、あまり荒されていないようだ。
ただ、霊安室から連想する祭壇や寝台といったものは見当たらない。
その代わり、霊安室で見たくない感じのものが見えた。
部屋の隅に、黒っぽい人影が蹲っている。
ユリカは思わず息を呑んだ――が。
『――っ! ななぁんんんっ⁉』
『ああ、アイケンさん。遅かったじゃないですか』
テンパりかけたアイダに、立ち上がった人影が声をかける。
ピントが合うと、ブラックスーツを着た長身で長髪の男だと判別できた。
夜の歌舞伎町が似合う感じの、わかりやすいタイプの美形だ。
『クッ、クロちゃんかよ! 脅かすなって』
『僕が先に行ってる、って監督さんから連絡なかったですか』
『えっ?』
クロと呼んだ相手にカメラを預けたアイダは、ポケットからスマホを取り出す。
『……あー、普通に圏外だわ。つうかさ、トランシーバーとか用意すんじゃないの、こういうロケって』
『プウさんが忘れたらしいですよ』
『またプウか! 画期的に使えないな、あいつは! そろそろ芸風変えろ!』
スタッフらしい誰かへの悪口にアイダとクロは笑い合い、会場にも笑いが広がる。
このプウというのが何かやらかすのが、毎度のお約束なのかも知れない。
『階段の声、さっき動画で確認しました』
『ああ、あれ! どうなの? やっぱりヤバいのだったり?』
カメラを返されたアイダは、クロを撮りながら訊く。
『そうですね……無害、とは言えません。あの辺りにはもういませんでしたが』
『いなくなったんなら、気にしないで大丈夫だよね』
『それなんですけど、何と言いますか……痕跡が、下へ下へと続いてまして』
クロの口調は、徐々に深刻な気配を増していく。
アイダの緊張が高まるのが、画面のブレによって伝わって来る。
『痕跡ってえと、その、アレなの? 霊が移動したとか、そういう?』
『はい』
『あそこから下へ、って……こっち、だよね』
『はい』
『はぁーーっ! いやいやいや! いやいやいやいや!』
カメラごと手を振るリアクションに、引き攣り気味の笑いがポツポツと上がる。
『とりあえず、ここには今、いないみたいですから』
『そっかぁ……あー、やっぱりイカニモな場所はそういうのが憑きやすい、とかあったりするんだよね』
『ですね。病院という場所自体、患者さんの念が残りやすいんですけど……』
『けど?』
アイダの反問に、たっぷり間をとってからクロは答える。
『ここと隣の部屋は、特に酷い状態になっています』
『酷い、ってのを……具体的に言うと?』
『多分……多分ですけど、やるべきことを全くやってな――』
クロが言い終える前に、金属のドアが轟然と音を立てて閉まった。
コチラは文庫1冊分くらいで完結します。
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