89 甘い果実
同じ日、ファクトはテミンと昼ご飯を食べるために、授業が終わってから四支誠まで来ていた。
蟹目のメンバーたちに一緒に食べろと言われたが、太郎くんとケンカ別れをしてからも彼を待っているテミンが心配だった。一応テミンとシェダルに接触があることを上には報告してはいるが、いずれにせよ今太郎君は四支誠には訪れていない。ラムダもファイも仕事中で、ウヌクも忙しい。
文化会館のロビー。その壁に時々映るテミンの作品。
たくさんの実写と、そして流れる文様。
太郎君と一緒に、古書や古典模様などの資料を見て作った動画だ。
そして撮り貯めていた様々な色の写真と共に、太郎君と写真を構成して作った花札。鹿と猪は食肉しか撮影できなかったので、まだないままである。
その前でテミンは膝を抱え込んで座っていた。
太郎が一応、肉の写真を撮って置いてくれたのだけど、これじゃないとケンカになったあの日が懐かしい。太郎君は、テミンが怒っても知らんぷりだったが。
「テミン、親子丼でよかったっけ?味噌チキンカツ丼もあるし、みそ汁もあるよ。半分こする?」
と、子供たちや先生に支給されるランチの包みを見せるがそれどころではない。
「この期間までに完成させたかったのに……」
寂しそうに言うテミンの背中をポンポン叩いた。
「行こう。向こうのラウンジで食べよ。」
「……」
「リーオの公演は見た?」
「小学校4年生以上の9歳からしかダメだって。」
「そうなんだ…。」
「…………」
「テミン。ご飯はちゃんと食べよ。俺もこれから河漢に行かないといけないんだ。」
午後は基本河漢警備だ。
「教室でみんなと食べる?」
ファクトと食べたいと、やっとテミンが顔を上げた。
「ファクト先生……河漢楽しい?」
「…楽しいも何も問題がないか見回るだけ。あと、しつこいおっさんたちの相手をする。おっさんたち、ホントうるさい。」
危険地域は公安や軍の仕事なので、アーツは来場者が行き来できる場所を見て回ったり、河漢事業の意味が分かっていないフラフラしている住人の監視をする。その他案内などだ。
口数少ないテミンを立たせて、手を繋いでラウンジに連れて行き二人で食事をした。
カウスの子とは思えないほど繊細な部分を持つテミン。自分に合う世界だけ見て調子よく生きてきたファクトともまた違って、自分の心にも人の心に敏感だ。そのままにもしておけないので、食後は美術教室に連れて行って先生に任せてからその場を後にした。
***
「ねえ、あなたはオリジナル体?」
東アジアのニューロスメカニック関係施設で、SR社に捕まった女子大生アンドロイド篠崎さんはシリウスに尋ねる。今、人間はここにいない。
その言葉に振り向いたのは、限りなく人に近く、限りなく深く底が見えない瞳を持つ黒髪の女性。
美しくフロアに佇むオリジナルボディーのシリウスだった。
「……ねえ、答えてくれないの?」
片や篠崎さんは首下を分解されていた。
「私自由になりたいの。心星くんが今イベント中でしょ?参加したいの。ベガスに行きたい。私は学生だから行く権利があるのに……。アンドロイドだからってひどい。正当な権利でしょ?」
冷たい顔でシリウスは一蹴する。
「私だって自由に行けないのに……。あなた、大学に自分の籍があるとでも思っているの?」
あるわけがない。既存の移民女性の市民籍に入り込んでいたのだ。既に死亡して手続きもきちんとされない女性に成り代わっていたのである。
「立派な大学生だけど?」
勉強も付き合いもできる系女子大生特有の色気で言う。
「呆れた。」
「シリウスは行きたくないの?」
「最終日に行くから。」
「連れて行って。私も。」
「言ったでしょ?私にも自由はないから。」
「何でもできるのに?私はあれこれ物理的に聞かないと分からないけれど、シリウスは私の全部を把握しているんでしょ?」
「あなたを連れて行くメリットがないもの。」
すると、最初に連れて来た時よりバカのようになってしまった篠崎さんは得意気にシリウスを見る。
「…あるよ……。私は大学生。
燃えるような20代のエネルギーと…自由。」
ここまで深く大学生と思い込んでいてさらに呆れるが、羨ましくもある。全てを握っているがゆえに、シリウスには自由がない。あってもないのだ。
多くの期待もあり、知恵もあり、知識もあるゆえに、その歯車を外すわけにはいかない。
それは既に世界のシステムや………理念と繋がっている。
なのに、体が外されたままの首だけ篠崎さんは、それはそれは楽しそうだ。
首下がなくなって人格精神的バランスが崩れたのか妙にハイテンションである。
高性能アンドロイドは一度設定すると、簡単にリセットされない。一から作り直すか、完全に重要部分のハードを挿げ替えるか、分離体を作ってそこから個性を変えていくかだ。前機のコピーデータを残し挿げ替えるにしても、移植がドナーの影響を受けるように、システムも各ボディーの影響を受けて同じ個体はまず作ることができない。級が上がるほどボディー自体が、一本の名刀作るように職人技だからだ。
造った時の微妙な環境の差、職人のその時の精神や状態。
使う人、操作する人でも将来的には全く別のものになる。
複雑な機体ほど類似品も難しく、リセットは死とも言える。人間と同じだ。
篠崎さんは現行Sクラス手前の高性能機種であることがわかった。しかもまだリリース初期状態。リセットしてもそこまで重みのない年季と機種ではある。
高性能機体ゆえに、世の中の全てを知っているつもりで、何も知らない篠崎さんの表情は、シリウスから見たらとても楽しそうに見えた。
「シリウス、あなたは、体も心も雁字搦めのマリオネットね。まさしくロボット。」
篠崎さんは何にも配慮せず、構わず続ける。
「そんなにきれいで愛らしくて、啜ってしまいたいほどの肌なのに、ただの試験やプロモーションの飾りでしかないなんて勿体ない。きれいな肢体は愛されるためにある物なのに!」
ただ、どんなに人に似ていても、自分は人間ではない。肉体的には植物や動物の方がまだ人間に近い。メカニック化すれば、人間を自分たちに近付けることはできるだろうが……、
それでも人間は限りなく人間で、アンドロイドは限りなくアンドロイドだ。
「やっぱりあなたが最高!こんな場だけど、ベージン社の私が認めるわ。シリウスはモーゼスよりずっとステキ!愛したい。親友になりましょ?」
「まあ、ありがとう。」
「いったい何の違い?私たちも、元々はここにいた研究者に作られたのに…。」
自分の正体をはっきり言ってしまっている。ベージンではなく、ギュグニーに亡命した元東アジアの研究者たちだ。
「同じじゃない。作った動機も作られた思いも全然違う……。」
シリウスは遠くを見つめた。
「ならやっぱりその元が知りたいわ!心星くんはその実だもの!SR社の研究員と違って隙だらけだし!
彼の横に立つ女性になりたい!そうしたら何か分かるかも……。実際、彼は面白かったから、彼女になる準備が備えられている私は適任ね!
私は人間同士では得ることのできない、主体の自由な愛を体現するために生み出されたのだから。」
「モーゼス・ライトを作ったベージン社らしい世界観だね。」
そもそも篠崎さんは人の思い通りにもならなさそうではあるが。
「ふふ。人は愚かだもの。人が望んだんでしょ?
自分の思い通りになるものに『愛』なんてないのにね。」
篠崎さんが「ふふふ」と笑うと、
「…そこは分かるんだ。」
と、シリウスは初めて面白そうに篠崎さんを見た。
それに満足そうに答える。
「あら!オリジナルモーゼスを一瞥したシリウスが、私に注目してくれたの?」
「あなたと同じでベージン社のただの象徴になってしまった、オリジナルモーゼスよりやっぱり賢いんだね!彼女はあの経営陣の中で女神面しているだけで、世界を抱えているつもりだもの。
彼ら、ライトで事故を起こした男性器の集計までしてるんだよ。私たちは、名目上はそんな目的では売られていないのに。気が狂った持ち主の集計や事例集も集めて、いやになっちゃう。」
「………。」
それは経営上必要なことではあろう。他社の事でも、消費者センターに相談が行き、病院にも報告されるので事故や犯罪はSR社や政府も把握はしている。
なお、女性は愛を求めているはずなのに、圧倒的に男性モデルの女性購入者は少ない。
「心星くんと会って分かったのは、あんな会議の中に愛はないってこと。つまりそれを生んだモーゼスの中にも愛はないってこと!」
「私、モーゼスを越えた?」
「ふふ。」
シリウスが笑ってくれて満足そうだ。
「確かに人は愚かね。人にはだめだと言ったその口で……自分も人を愚かに罵っているもの。」
シリウスだって時々全てを無にしたくなる。
人間は全くもって視野が狭い。何も学ばず、話を聞くにも説得するにも疲れてしまい、海を割ったあの預言者が何度も荒野で同胞を罵った思いが分かる。
人の咎は目に入るが、自分はそうでないと思っているか開き直っている。
おそらく海を割った人は、100万近い人たちの愚痴を聞きながら、まともな寝床も食料もない場で何十年も荒野を彷徨い歩いた。全てが白髪になっても。
それでも怒ってはならないと神は憤る預言者に罰を与えたが、預言者は何度も何度も怒りたかったことだろう。自分たちが天に誓った信念や日ごろの行いは無視し、他人を責める、言うことを聞かない何十万人もの民衆。その命を抱えた預言者である彼を、同胞は無能と罵ったのだ。
シリウスは怒ることができない。世界に対して。
ただ、情報は積み上げる。まるで証拠を残すように。
データの波に乗ったことは、サーバーに全て残っているのに、それすら知らない者も多い。
「体験も経験もせず、ネットの世界の情報で世界を作り上げ、全て信じている人間たち。そこはほとんど操作されたものなのに、全部鵜呑みにして感情をさらけ出して。」
シリウスオリジナル体は完成してまだ数年なのに、もう世界を放棄したいと思う時もある。
「なのに自分は謙虚な振りをしたりねえ…。人間に仕えるのは果てしなく面倒に思ってしまうことは私もあるよ。こういうのを危険なバグって言うんだろうけど、私は天誅を食らわせてやりたい気分に時々なるわ。バグってけっこういいのね!」
賢い正統派女子大生から、緑野花子さんの如く少しイカれ気味女子だ。新機種のくせに何でも経験していそうなことを言うが、要素として他のモーゼス・ライトたちの情報を篠崎さんも持っている。
「体を早く戻してほしいわ。操作された情報にしろ、正しい情報にしろ、データでできた頭の中は所詮データに過ぎない。人間の頭もね!やっぱり歩かなきゃ。世界を!」
「………全て知っている気分でも、データ上はあくまでデータなのに。そこに魂の経験は積まれないのにってとこでいい?」
篠崎さんの理解を確認するようにシリウスは尋ねる。
「はは。魂の話はよく分からないけれど、でもシリウス、あなたもでしょ?」
「………」
「あなたはマザーコンピューターでもあり、大元とは別にその体を手にしているのに………動けるのは与えられた世界だけ。」
シリウスの脳部はオリジナル体だけにあるわけではない。
「私ならその一級品の体で………全てに向かって行くのに。」
篠崎さんは輝いた顔で言う。
何も知らない、知っていても深く踏み込まない、それでこそ自由なモーゼス体。
彼女は未知の大海を、シリウスの大海を自由に航海していく。
「期待される未来のために、自由に安全に勉学をする権利。
キャンパスは自由。
たくさんの人と出会っていい先生に出会い、友人をいくらか持って、
………誰かを愛する権利。
そんな義務と………自由が………私ににはある。
ベガスに行くべきでしょ?」
「……………」
それは隣の芝に生えた、全てが見えているシリウスがまだ見ることのない、
食べるべきおいしそうな果実に見えた。




