70 誰でもなく僕が
「最初から全く違う選択肢もあったという事だ。」
自分たちが見ている全てが、神の青写真ではなかったとしたら……ということだ。
少し驚いてしまう。そんな発想すらなかった。
人類の大半以上が絶対視する聖典ですら、神が最初の青写真に持って行くための方便としたら。
「仏教が最後に答えがなくなるのはそのためだ。現在一部仏教では、世に明確な答えがないように思われている。それが答えのはずなのに、答えがないことに結局不安が消えずに曖昧な中で孤独や焦燥感に耐えられず、結局は最後に完全な弥勒を求めるだろ。」
完全な救い。個人的には大きな平和よりも自分の救いだ。
「そもそも人間は不完全でいい存在でもないし、善悪が入り乱れていい存在でもない。勧善懲悪は嫌われるが、世の常が正常でないだけで本来世界は全てが善だ。万物だけなら善も悪もないが、人間が存在しようとする限りはな。」
「そうでしょうか?」
エリスは少しだけ憂いた顔で笑った。
「善でなければそれは、不徳を認めることになる。あらゆる姦淫や虐待とかもな。」
リギルはネット世界の引きこもりで、あらゆる汚いものも見ているがそれはなんとなく分かった。今の世には手を出してはいけない部分がある。それは、本質で分かる。自分の世界だけの話ではなくなるのだ。
「…………善がいるなら悪が要るってことですよね?」
「神は『要る』と言ったか?」
「………」
言っていない。少なくとも聖典では。
なぜ世界は曖昧なのに、答えなどないし勧善懲悪を嫌うのに、自身の身の周りが平和でありたいと人は思うのか。そうでなくてもいいのに。自身の中に不安が湧いても、悪意が湧いても、どこかでそれが良しよしないことが解るのか。
本能で危険を身近に感じ、引き止める何か。それがある。自身の中に。
「神はこんな回り道をする世界を作りたかったと思うか?ボロボロで自身の体である地球や人をここまで痛めつけて、宇宙にまで戦争を広げて悩んで苦しんで。
でも違う………神はそんな自虐はしないよ。」
「………。」
最後の言葉は何か納得できない。だったらなんで世界はこんなに不平等で理不尽なんだ。
「……でもそれを変えるのは難しくないですか?世界規模ですよ?世界が僕に繋がっていても、実質無関係です。
家の玄関どころか部屋からも出るのが嫌でした。僕は一生、禿でチビで、トイレまでの通路、買い物一つも精一杯です……。」
今もなるべく誰にも会わないようにコンビニや食堂に行く。ファクトとラムダならまだ吹っ切れるようになったが、中途半端に知った顔に会うのは本当に嫌だ。
リギルは家でトイレと食事はできたが、ランスアがいて起きている時は絶対に部屋の外には出なかったので、小は簡易トイレに、大の方は便秘になっても我慢していた。根本的には体調に問題のない20歳、尿瓶やペットボトルだけはまだ手を付けずに生きているし、し尿の処理くらいは自分で出来る。まあ、簡易トイレも尿瓶も似たようなものではあるが。
「でも猫背、少し解消したじゃないか。講習も出ているし、チーム作業もしているだろ?」
「こんなの、兄たちの爪切りにも及びません。」
猫背が治ったところで下界はハードモードである。講習は人の顔も見ない。
「そうか?こうして話ができて、自身のプライドを折れるだけでも素晴らしいと思うが?牧師として話をしていると全く話の通じない、自分が悪いと悩むこともない人をたくさん見ているから、リギルと話すのは好きだぞ。」
「…………。」
ここで言ってしまうと、人に対して自分の容姿がそこまで気になるのか?結婚したかったのか?彼女がほしかったのか?と、心の奥底を言われそうで言いたくなかったが、逆にここまで話してしまったので言ってみる。
「でも僕は……絶対に何か欠陥しています……。女性も嫌がるし………子供もこの虚弱体型を引継ぎそうで………本当に……先も未来もありません…」
勇気がないので少しぼかしているが、言いたいことは言ってみる。
彼女ができると思ったのか?結婚するつもりだったのか?と問われたらどうしよう。
自分はしたかったのだろうか?
エリスは一息置いて、ゆっくりと言葉を返した。
「……確かに遺伝はある。でもね、歴史の中で遺伝が転換されることもあるんだよ。」
「……転換?」
「遺伝転換とか、霊性転換とか、清算転換とか言うんだが、人の心や精神面が転換されることで、次の世代が変わっていくんだ。一気にくる場合と、数代にかけて徐々に変わっていく場合とある。」
「??」
「良いものと逆もある。だから聖典の中で、信仰的な王や祭司の家系からそれに反旗を翻したり、どうしようもなくだらしなく生まれてくる者もあるだろ。
でも、それでも。一つ何か心持ちが変わったり、善徳を積んでいくだけで、未来に新しい道が開ける。」
「……すっごい宗教臭い話しですね………」
「はは!宗教だからね。」
「でも、世界の重荷は担えないですよ。どっちにしても。」
「世界の重荷を担ってくれるのか!」
エリスがおもしろそうに言うので、生意気を言ったようで恥ずかしくイラつきもし首を振った。ただ、個人的に女性の話をされるよりはいい。
「ははは!大丈夫さ。神はその時点から、リギルが今いる時点から、一つ進んでくれるだけでいいんだ。まずはね。
崇高なことを言っておかしなことをしだす者もいるから。小さい成果を謙虚に受け止めることが必要だ。他人と比べたって仕方ない。
そんな事より、今、心に燻るものがあれば、それをそっと解消することだけでもいい。例えばローやランスアの事情も酌んで、時々ムカついても何か訳があるんだと思ってあげるってことだけでも、一つの転換だ。」
「………」
「彼らには彼らの越えることもあるし重荷もある。他人ではなく、自分に神の一つ一つの言葉が体現されているのか振り返る。それが修道の道だよ。
若者にはよく言うのだけどね、奇跡は小さな砂粒や一円玉の積み重ねの頂点だよ。一つ一つ積んでいないものは実体にはならない。でも、積めてもそれがいつ開くかは人間には分からない。物事には意味も順序もないようで、一つの扉を開くのにもそのきっかけがいる。鍵だな。」
「鍵?」
「それに、自分の代で来るとも限らない。」
「…………」
「理不尽に思うかもしれないが、リギルが掘り起こして、子孫が最後の扉を開ける場合もある。」
それは理不尽だと思う。怨みたい。
「ただ、ヒントは聖典と人間の砕けた心と知恵が合わさった時に分かる。
そして時もな。」
一つ一つ積んでいないものは実体にはならない――
リギルは胸が痛い。意味がなんとなく分かるからか。
「それからな、運命を全部は恨まないことだ。」
「………」
「辛くても、それでも。尊く思ったものは前後を繋いでいくんだ。」
「?」
「怨むなとは言わない。
でも、それが苦汁でも、人や世を何かしら尊く思えば、過去、自分より苦しんだ誰かを思いやれば、先祖やその人々の功や贖罪を引き継ぐんだよ。万物は自分を満たしているもののを守ろうとするしね。」
リギルは何とも言えない顔をする。
「一番は家族なんだ。親、夫婦、兄弟。」
「………ぇ………」
母以外、できれば関わりたくない人たちである。ローに恨みはないが、自分と違い過ぎる。
「それ以外なら、大房だな。まあ、ここに来た時点で、サルガスたちと繋がったわけだが。悪くはない選択肢だ。」
エリスはおもしろそうに言う。
それはつまり、ファクトとも、アンタレスやユラスの中核とも繋がったということだ。
大房はこういうところがおもしろいのだ。本来彼らは、心星家のファクトよりもはるかにそこと、遠い人間たちであった。
つまりリギルは、子孫を待たなくても既に一つの門を開いているのだ。どんなに縁を繋ぎたくても、何かを越えていなければ、こんなふうな良縁にはならない。本人は気が付いていないが。陽キャの空間に入れられて、めんどい妄想チームに囲まれてリギルには悪夢だろうが、エリスはこれは良縁だと思っている。
「それで、燻るものに話を戻すと………正道教にいたら正直毎日そんな連続だよ。部下どころか、上司を信頼してもいいのかという問題に良く直面するしな………」
「…そうなんですか………」
「はは。霊性や理想だけでなく、質量のはっきり表れる現実も動かさないといけないからね。おそらく、私が不満に思う相手も、私がベガスの牧師長や総長にいるのは不本意だと思っているよ。」
「………そんなの宗教の不具合じゃないですか。身内で争ってるって。」
よりによって愛の骨頂の宗教で内輪揉め。家族もどこも揉めている。
「………昔は私もいちいちそういうものに楯突いていたんだが、今は捉え方を変えることにしたんだ。ここは自分が信心を試されている場で、それ以上に『自分が人を、敵を、気に入らない人間を愛せる者か』と…。
一般的な人は『気に入らなければ距離を取ればいい』のだが、私は実質世の中を回さなければならない運営責任もあるし、それこそ牧者だからね。」
少し時が流れる。
「…………その気持ちが一番よく分かったのは、チコに会ってからだな。」
「…チコさん?」
「私がね………」
エリスがチラッと時計を見て、当時を思い出しながらかい摘まんで話す。
あの、颯爽とした人――
まだ20代前半だというのに、自分よりはるかにたくさんの世界を生きてきたような顔をしていた。




