63 何も知らなかったから
地下を見てきたシーキス牧師は焦った。こんなことがあっていいわけがない。血なのか何なのか、様々なにおいが混ざった独特の臭いがする布が部屋の横に丸められている。
上階に戻ったシーキス牧師は慌てて言った。
『すぐにだ。直ぐに医者を!』
『ダメだ……』
『なぜ閉じ込める。バーシはどこにも行かない。』
『………』
そうだ、翼をもぎ取ったのは自分だ。長は分かっている。きっとバーシは夫を見付けてもそこにはもう行かないだろう。けれど、バーシがどこを見ているのか長には全く分からない。
何もかもが不安だった。
『だが約束したんだ。ここの全ての女の代わりにバーシが妻になると!』
『………そうだ。その通りだ。まず落ち着いて聞いてほしい。』
別に妻になどしなくても、好きなようにし、今まで好きなだけ女をものにしてきたのに何にこだわっているのか。
『何を恐れているんだ?』
『恐れているのか?分からない……。』
『………。総監……本当はバーシに手を出してはいけなかったんだ。』
シーキス牧師は、少しだけ力を落として言う。
『だが約束だった。』
『ただ、その約束に正当性はない。』
長は黙ってしまう。そう、正統性なんて何もない。
人間の売り買い、搾取を制限する代償を盾に、女性を奪ったようなものだ。どちらも本来、長のものではない。ギュグニーの国に縛られるものでもないのだ。
こんないい加減な国だからまかり通っているようで、全ては人間の自己本位中心のまやかしでしかない世界。
『あなたは頭がいい。分かるはずだ。』
本来全ての人間が神に等しく帰属する。本来代償などなくとも、人の人生は誰にも拘束されないものだ。
神さえ拘束しないのに。
ギュグニーでそれが理解できるほど頭がいいから、こんな道理のない世界ですら自分の罪科に、影に怯えているのだ。
『子供のことはもうどうしようもない。バーシにとっても大切な子だろう。』
『…………』
『今できることはバーシを自由にすることだ。せめてショーイたちや医者に。』
『ダメだ!』
『だが、バーシは出す!手遅れになる!』
精神性の話よりも、今は体調という現実が先だ。
『バーシを、バーシを外に出す!取り敢えず医務室に!地下はだめだ!』
シュンッという、
――乾いた銃声と共に、またホログラムが何かを反射する。
全てが写る。全てが。
トレミーには見える。
貞操を誓った自分。
誰かのために奔走した自分。
全てが憎かった自分。
長を懐柔して懐に入り込んだ自分。
外交官の女たちがいる。
ここは?
ジークアと……カラ。まさにリーダーにふさわしかったレグルスの姉。
カラは夫が本質を理解していないが仕方ないという顔で話を進めていた。妻が隠した不満そうな顔を知っていても、夫ジークアはカラを引き寄せる。
カラは今は真面目に話していると、それをはねつけた。
何の話?
耳を澄ませて背筋が凍る。
その話を聞いてトレミーは怯えた。
それは、ここでの禁忌。
自由への、天の民主主義への、本当の平等がある、天啓の基の平等のための足掛かり。
オキオルから来た女たちは、これまでもただギュグニーに、力に怯えて生きていたのではなかったのだ。
それが子供ような一歩でも、一見目に見えなくても、時にたじろいても、種を蒔いていた。
バイシーアの集落にいた時から、今のこの時まで。
彼らの最終目標は外交そのものではない。
この地に、天意の自由を解放するためであった。
全ての人間の自由と、尊厳を築くための社会構築のために。
ただの祈りではなく、実質的な足場作り。
表立って動く外交官が、今となってはほとんど諜報のような形で霊の経路や人間を固めていたのだ。諜報だけでない、既にそこで連合国側民主主義陣営が入れる地盤を探っていた。自分たちやその集落だけが助かる未来ではない、その先を見ていたのだ。
民主主義の、さらにその向こう側。
トレミーには分からない、さらにその先の、千年を。
前集落でシーキス牧師が夫としてあてがった男たちは、ただ外国の女性たちの身を守れる者たちではなく、その本意に自ら気が付ける者たちだった。
信じられない。上級兵も相手にしてそれなりのことを知っていたトレミーでも、何も気が付かなかったのだ。ギュグニーにただ翻弄されている、本質はか弱い女たちだと思っていた。
そして彼女たちは、このギュグニーで何も知らずに苦しんだ、同じ志を立てて散っていった、その全ての人々の霊の形跡を受け継いでいこうとしていた。切れそうで切れなかった先人たちの全ての糸を繋ぎ合わせて。
彼らは一致する。
歴史上の辿った全てと。
兄たちが繋ぐことができなかったものを、セツが必死になって繋いだ全てと。
彼らは一個人の何かを残そうなどとは思っていなかった。
愛されていた意味を知る者だけが、与えられる、無限の愛。
刑台の上でも、天を、世を憂えた人々。
それは人間からは来ない。
20世紀前の、直接見てもいない愛に倣って、頭を垂れて。
恋焦がれる桃源郷は、解放されたギュグニーは、彼女たちの胸の内にあったのだ。
それを感覚で分かっていたから、おそらく長も、無意識でバーシを掴んだのだ。
彼女たちはこの地で唯一の、天の仲介者たちだから。
掴みそうで掴めない、その意味。その感覚。
トレミーには全てが知らない世界だった。
ならなぜ私にも知らせてくれなかったの?
そう思う。
私は仲間ではなかったの?バカだとでも思ってた?認めはするけれど。
聴いていたけれど、分からなかっただけかもしれないけれど。
今だって正直分からないし、分かりたくもない。
でも、未来の自分は知るだろう。
これは非常に危険なことだったので、バイシーアの集落の者を、為政者以外は地域の者たちも巻き込まないための、この地で見つかっても足を付けないための、
彼女たちからの未来への贈り物だったということを――
――
全ての光が集まる。どこからかも分からない光。
涙が止まらない。
どうして?まだ私は何も理解していないのに。
彼女たちが作ろうとした国どころか精神性もまだ分からない。あんなに尽くしたのに自分は中核にいなかったという苛立ちと、疎外感と、焦燥感。
バーシたちを許してなんかいない。心に次から次へと憎しみしか湧かない。
その憎しみが何なのかはもう分からない。
彼女たちのようになんかなれない。理解もしたくない。
神も嫌いだ。彼女たちの言う神も。
バカな自分の空っぽな頭も、胸の内も。
彼女たちに出会う前の私はまだ強かった。
こんな世界でも自分の中の正義があって、それを貫いていた。バイシーアの集落の女商売の中ではまともでよくできる方の人間だと思っていた。
けれど、彼女たちは面白いほどにその全てを壊してくれる。自分がちっぽけだったと、今、気が付いて身の置き所もない。
彼女たちが闘っていたのはギュグニーだと思っていたのに、彼女たちが打倒したのは何だったのか。
他でもない、私ではないか。
私だったのではないか。
こんなちっぽけな、自分が打たれている。
どうして私をこんなに弱くしたの?
レグルスを思うと、胸が苦しい。
不条理な過去にもだえ苦しんだ最悪なあの日々とも違う。
この苦しみは、何?
こんな苦しみは今まで感じたこともない。
胸が張り裂けそうなのではない。
張り裂けそうなのに、何か光のような柔らかいものが溢れて溢れて溢れ出て、その光で私が消えそうになるほどなのに、それを掴みたいとも、そこに覆われて消えてしまいたいとも思うの。
でも、でも、あの荒野で、草の中で自分は思う。
絶対に振り返ってはいけない。
走りながら、その経路で、
何かが受け渡される。
走って!
走って!!
必死に走る中で私はもう、
こんな小さな胸の内でも、
いつも全てを明け渡したいと思った。




