61 いつか
※残酷な描写があります。お気をつけ下さい。
『お前が「トレミー」か?』
ある日知らない男が、食事の予定に関する打ち合わせをする途中でその名を呼んだ。
「?!」
あまりに驚いて顔を上げる。その名をここの兵士たちは一切知らないはずだ。周りに人はいなかったが、男は全く雰囲気を変えずにどんどん話してくる。
『いつでも出られる準備をしておけ。ルバの女からお前の身を預かっている。「ロワイラル」と「タイラ」に従えと。3週間後だ。』
「??!」
今度は見上げずに頷いた。
「ああ、そうだったね。水は1人2本?」
笑ってそう言うと、男はOKと手を上げて水を受け取って去って行った。
その日の仕事を空回る頭で終わらせたジュリは胸がどきどきしてくる。
変わる。
ここの何かが変わろうとしている………。
ルバの女?ロワース?ラージオ?………ジーワイ?フィルナー?
「…………。」
………レグルス?
ジュリは半日考える。
それから立ち上がって部屋を出た。今、長の男と最側近はいない。
「お兄さん、地下に行きたいの。」
何度か声を掛けられたことのある兵士に頼んだ。
「地下?」
「バーシに当て布を持って行かないと。最近不定期だって聞いたから…。」
「…………。」
レグルスの月の物が止まっているらしい。けれど、血なのかも分からない不正出血が続いていた。
誘いを断り続けたせいか答えないので、仕方なく甘く手で示して言う。
「あとで、少しならシてあげるから。」
男は歩き出して無言で手招きする。少し腰を触られたが大人しく付いて行った。
暗く、長い、まるで永遠のような階段を降りていく。
この道は嫌いだ。
地獄の底に来たみたいで。自分が死んでから行く場所なんだと思ってしまう。
そしてあの重いドアが見えた。
久々に来た、あの独房。
1人の兵士が退屈だったのだろう。
「お!ジュリかよ。」
と、たいして仲がいいわけでもないのに嬉しそうだ。
「リネンの差し替えだ。」
案内した兵が真顔で言うと、昔からの金属の鍵が投げられたのでジャラッとキャッチした。
「ここマジで常時2人体制にしてほしいわ。暇すぎんだよ。女がいいよな。女が。」
実際退屈すぎて不気味で、そう言って席を外してしまう者もこれまでいた。
「おい、ジュリ。お前きれいになったな?ボスんとこで、いいもん食ってんのか?
お前ならこんな所でなく、国の中核に行けんじゃねーか?そんな湿気た民族衣装じゃなくてさ、マジでドレス着ろよ。あ、こんな所にはそれこそ時代遅れのもんしかねーか!」
以前に増して髪に艶が出たジュリは全部無視をする。国の中核になんか行ったら、それこそ針の筵だ。ここ以上にどす黒い全てが渦巻いている。
兵士には愛想を振りまいていた方がいいに決まっているが、気が焦ってそんな気分にはなれなかった。
けれど、古い民族衣装をすっぽりかぶり、苛立ち焦った横顔さえジュリは美しい。
「あ?友達を押しのけて愛人の座についてよかったな?ああ?」
相手にしてもらえずつまらないので煽る。
「……」
ジュリは監視兵の声が胸に刺さるが、その通りだと受け止めた。
そうだ。したことはした。そういうことをしたのだ。
「……………。」
ガチャっと開けられたドアに一人で入る。
乾いているのに、独特の空気が匂った。
少し肌寒い。場所によってはし尿の匂いもした。
「…バーシ?」
一瞬バーシがどこにいるのか分からない。
「バーシ?」
少し薄暗く、下に布団がある。ベッドで寝ていないのか。
「厠?もしかして…」
ハッとする。厠からも声がない。まさか、自害!?
「バーシ?!!」
少し目隠しされた砂だけのトイレに向かおうとして、信じられないものを踏んでしまった。
「っ!?」
レグルス!?
下に転がった布団の中に、レグルスがいたのだ。布団は新しく支給されていたが、レグルスにあまりにも厚さがなく分からなかった。
「……誰?」
「レグルス、レグルス!!」
思わずレグルスの名を叫んでしまうが、ドアの向こうの男たちは無反応だ。気が付かなかったのか関心がないのか。
「バーシ!」
「…ジュリ…?」
「バーシ!」
「ジュリ………久しぶり…。」
もごもご動かす口から一瞬顔をしかめたくなるような匂いがする。それに信じられない。下に敷いてあった電気マットが止まっていた。
「バーシ!」
「…。あれ?またきれいになったんだね。よかった……いい場所に行けたの?」
「っ!」
皮肉とかではない。バーシは本当にジュリが幸せを手に入れたのかのような顔で笑った。
「待って!服を替えるから……。お湯がいる……」
ジュリはドアの外まで戻った。
「お湯は?」
「水ならそこのタンクに。」
「お湯にできないの?」
「上まで戻ればな。」
上はまた果てしなく遠い。
「マットの電気が止まっているのに!」
「ん?発電機調子悪かったか?穴が開いて砂でも入ったか?他の女は電気ポットやコンロ持ってくるぞ。鍋はそこだ。」
壊れたようなコンロの横に、鍋だけがコロンと転がっている。
コンロは完全に動かなかった。
「布団も変えないと!こんなところで地べたに寝てたら布団越しでも冷え切ってしまう!どうしてこんな環境に放っておいたの?!!」
「………お前たちがそうしたんだろ?それにショートしなくてよかったろ。」
「っ………」
兵士の返しに何も言えない。持って来たウエットティッシュとタオルや布巾でどうにかするしかなかった。このウエットティッシュだけでは肌がすれてしまうのでクリームもいるが、今は十分な物はない。
「まあ、今は水で洗っておけ。あとで俺の充電器やるから。カイロにもなる。部屋の発電機は中にあるが見るか?電灯専用だが多分繋げられるぞ。」
「…いい。後でいい………。」
どちらにせよ、お湯を沸かす物がない。布団もマットも汚れている。それに、こんなレグルスを誰にも見せたくなかった。男たちは一応ドアの外で待ち、見ないようにしてくれている。
「ジュリ?」
「……ん?」
「ごめんね…こんなことさせて。」
「……ううん。」
「トイレしたい?」
「うんん……」
涙が出てくる。口の中を布で拭ったら、既に歯が数本なく、いくつかぐらついていた。一旦漏れや匂いのひどい物を全部替えリネンカバンに入れる。マットはコーティングしてあるのできれいに拭いた。布団は替えがないので今は仕方ない。当て布もたくさんし、ストローボトルでスポーツ飲料を飲ませ、ベットの上にも置いた。
「…ジュリ………」
「…うん。」
「……セシア………は?」
最初の子供のことだ。
動揺と共に、こんな時にすらレグルスに完璧な人間性を求めてイラつく。下の子のことは?教室の子への配慮は?
醜い自分だと思う。
完璧だと人間味がないといい、不足していると牧師のくせにと思う。自分の子を気に掛けると他人はいいのかと思い、他者を心配すると人でなしとか偽善だと思う。
もう、何を言ってもレグルスが憎いのだ。
弱々しく話しだすレグルスを無視しながらも、耳を傾けてしまう。
「……いつか安心して暮らせるように、名前をあげたくて……。誕生日と名前をメモをしてほしい………」
「っ!ちょっと待って!」
次の準備物を書くと言って男たちから急いで紙とペンを借りる。ササっと新しいリネンやお湯、薬や軟膏などを書いていくがそれは表向き。そして使った布端にレグルスの言葉を綴っていく。
「…誕生日は……あれ?」
「大丈夫…。誕生日は私が知ってるから後で書いておく。」
「……名前は……ミルク………。」
「?」
「…ティコ・ミルク……」
「…ミルク?」
「一番下に…いつも一番下に…ミルククラウンが広がるの…」
「…?」
「ティコ・ミルク・ディッパー………」
レグルスはにっこり笑った。
「…分かった。」
「それから…あの子。あの子も………」
「おい!ペンを返せ。」
男が怒鳴った。
「メモしたものを見せろ。」
最初に書いた紙を渡す。
「よし。」
以前だったら、メモをする場まできちんと監視していただろう。ジュリはホッと息をついた。
「あのね。レグルス、指輪………」
「………?」
隠していた指輪をそっと出す。
「………」
ジュリはこれが誰の物か聞きたかったが、不毛な質問だろうと思った。少なくとも今聞くことではない。
が、指輪を見てサーとレグルスが涙を流した。
そして何も見たくないように言う。
「いらない。それはもう捨てたものだから……」
テニアからの物だったからの涙か。
他の男からで自責の涙か。
それとも長からか。
けれど次の言葉でこの答えが明確になった。
「それは…セシアにあげて……。
次の……名前…を…持つ時に……一緒に……。」
たった一人、テニアの子供。
「…………」
「バーシ?………。バーシ??」
しかし今度はバーシが何も話さなくなった。
「バーシ?起きて!!」
「おい!」
1人入ってきて生体反応を調べる。
「バーシ!!」
「………大丈夫だ。寝ているだけだろう。」
「バーシを上に!医務室に!」
「今は無理だ。」
「こんなところにいたら、死んでしまう!!」
「絶対ここから出さないように指示を受けている。」
「緊急なら仕方ないでしょ!!医者を呼んで!」
「寝ているだけだ。ここまで入れる手続きが面倒だ。今度にしろ。」
「お願い、ここから出してっ!!」
ジュリは半狂乱になるが、動きが封じられた。
なんてことをしてしまったのだろう。
自分が一番、長と近い位置にいたのに。今から助かるだろうか?
一人の人間に……こんなことをしてしまった。
自分の苛立ちと………
これは何という感情?
満たされなさと…寂しさと………
そう、嫉妬から――
「バーシ!バーシ!!」
兵士に引きずられ、どうやって上まで帰ったのかジュリは覚えていない。
―――
「ねえ、レグルス。」
手洗いする小物を洗濯しながらトレミーは聞いた。
あれはいつの日だったか。
よく晴れた午前。
最近水が多めに入ってくるようになり、前より清潔を保てる。バイシーアの集落が北の川を共同使用する約束を取り付けたのだ。
「なあに?」
「この前言ってた『海』……浜辺?いつか行ける?」
「そうだね。」
「きれいなんでしょ?宝石より。それに水が使いたい放題!」
海水なんだけど洗濯できるのかな?しないよりはまし?生活に使えるほどろ過できるのかな……と、レグルスは思う。けれど、一緒に水浴びをしたらきっと楽しいだろう。
シーキス牧師は、少し先の洗濯場で水滴を浴び、宝石のように輝く女性たちを眩しく見た。
外の世界のことはここで話すには大胆過ぎる話だが、彼女たちの周りは今は誰もいない。目が合うと、もう少し声を小さくという意味で牧師がシーと示したので、トレミーはあちゃっと舌を出す。
実の姉妹よりも姉妹のようなレグルスとトレミー。
「はは。宝石は宝石で綺麗だけどね。
実は私も青い海って行ったことないんだ。前に行った海はどんよりしてたし、水が澄んでないし…。」
「……そうなの?」
トレミーはうーんと考える。
「ならさ、目標ができた!!
いつか一緒に行こう!青い海を見てから死ななきゃ!」
「ビーチは予約制だからね……。」
前時代に環境破壊が進んだのと、世界的に生活の平均的な質が上がり、誰もが旅行ができるようになったため様々なことが制限されている。
「…今から予約しなきゃ。」
「カラの権威でどうにかならないの~?あの怖い顔でさ!」
「無理だよ~。」
「じゃあ、旦那に頼んでおきなよ。」
「どうかなー。」
何と言っても、半分スパイのような男だ。一般人のように過ごせるのか。
「約束!」
「うん…。だめなら泉や川のある渓谷に行こう!そこもきれいだよ。」
「うん、絶対約束!」
二人は小指を切って笑い合った。




