59 秘められた糸口
知っているこの声。もう耳の奥からも忘れてしまったと思ったあの声。
「…?!」
『…グルス…?』
「?!!」
バーシは口を押えて見渡した。ドアからではない。
何かあちこちで塞がれたような、でも響く声。
『レグルス!』
「!!」
上だ。換気口だ。
「ボーティス!」
『いるんだな!』
「…っ!」
驚いたのか、いつの間にか白いイモリは隠れてしまった。
ボーディス!
ボーディス!!
信じられない名前が、何度ども胸に響く。
もう口にすらしなかった名。
『この建物にガタが来ているんだ。必要ならこれから人の手も入っていく。』
「…ボーティス!!」
ここは仲間内でもほぼ閉鎖され、かえって警備が行き届かないため入って来られたのだ。ただ、ボーティスとレグルスの間には階層の間の空洞の床下があった。ボーティスもがっちりと固められた床の鉄格子越に頭を付けて話していた。開けようとすれば空けられるが、ドリルを使った大仕事になってしまうだろう。
レグルスがいるのは、おそらく少し先のぼんやり光が見える鉄格子の部屋。
『レグルス!!もうしばらく待ってくれ…』
「…うっ」
『帰ろう、一緒に。』
「うぅ…」
全ての時が止まる。
胸が潰れそうだ。
触れたいけれど、物理的に触れることのできない状況。
「…でも、でも……」
『レグルス。もう少し耐えるんだ。』
「でも…私はここに残ります!」
『…レグルス?』
「この部屋を出ても、ここからは離れません…。」
『…?』
「私はここで再婚しました。」
少し時が止まる。
『…………』
「ここで夫を持ち、子供も持ちました!」
『レグルス?』
「だから…あなたとは行けません!」
ボーティスは床に付けていた頭をバッと離した。
「お願い、逃げて。ここにいたら監視が来るから!」
『…レグルス?…』
「私はもうレグルスでも……あなたの妻ではないから………」
『レグルス!』
頭の中が整理できない。
でも、何かあることは覚悟していた。レグルスの声もおかしい。まるで口が全部閉じられないような声。拷問か、病気か。けれど、それを表には出さずにそっと言う。
『…レグルス。でもいい。行こう、いつか……外に。』
「………外に出ても…私はもうあなたとは会いません。あの人が私との約束を守ったから…私も裏切ることはできません。」
あの人?
「指輪も……捨てました。」
『…………』
『……レグルス。一度話そう。』
「………っ」
『大丈夫だ、レグルス。一先ずここを出よう。待っていてくれ。』
「…………」
『レグルス…?』
レグルスから何も返事がない。顔が見たい。
『どんな状況でも構わない。………会おう。』
「…………」
『レグルス、ならひと先ずこれだけ預かってくれ。そっちに投げる!』
そっち?とレグルスは上を見た。
ボーティスは手の通らない鉄格子の間から、指だけどうにか通し床の間の空間のさらに数十センチ先の光の方にサッとその指輪を投げる。しかしボーティスのコントロールでも、それはカチーンと下層のレグルスのいる方の鉄格子に当たって弾け、天井裏に転がった。
「…?」
『くそっ!』
ボーティスが舌打ちをした。
「ボーティス?」
『時間だ。今騒動を起こすと後で入れなくなる。今日は行く。次いつ入れるか分からないが時間は要る。耐えてくれ!』
「ボーティス!」
助けるのはレグルスだけではない。下手に動くと他の者に影響が出る。現在ボーティスの勤務の位置情報を持っているのは仲間の一人だ。作戦における仲間ではなくただの修理工の仕事相手。本人は知らないので、管理者に会う前に合流しないといけない。
「…私は………
私はもう会えないから。何かあったらここは捨てて!」
『………。』
「私にはもう……」
『分かった…。分かったから………』
ボーティスは胸の鼓動を抑えてそこを去って行った。
***
ボーディス。
バーシは、今起こったことが信じられなくて呆然と座り込む。
ただの物置きになっているベッドに手を掛け、しばらく動けない。少ししてもう一度監視がいたかドア下を覗いても誰もいなかった。
「…………。」
何分もただじっとしている。すると、またスルスルとイモリが降りてきた。やっぱり天井の鉄格子からだ。イモリは壁の少し上の方にくっ付いている。
「…!」
バーシはハッとして立ち上がり、がたがたで潰れそうなベッドに乗り上げできる限り手を上げてイモリのしっぽをパチンと掴んだ。
イモリはびっくりしてしっぽを切り離して逃げていく。
「わぁ!」
ベッドも揺れバランスを崩し倒れそうになったがどうにか落ちずに、堅いマットにも頭や腰をぶつけず座り込んだ。床よりもたくさんの埃が舞う。
両手で胸に包んだのに、まだぴくッとするイモリのしっぽを見て思わずひえっと、落としてしまった。
「…!」
けれどその転がった先を見て、バーシはどうしていいのか分からなかった。
イモリのしっぽの先に付いていたのは………
自分の指輪の半分、ボーティスの指輪だったから。
***
それからどれくらい月日が経ったのだろう。
もうバーシは地上階の教室に上がってこなくなった。
ここに来て3年経つのか経たないのか。
その日は建国の日と銘打って、兵士たちに酒やつまみが配られた。女性や子供たちにも簡単なお菓子が配られ静かでありながらも騒めいていた。
成長した一部の子供たちは、兵役の訓練に駆り出されている。あまりに膨大な時間に、長が方針を変え、バイシーアの子供たちにも男子を中心に訓練を義務化したのだ。もし養子先が見付からなくても武器になる。
ギュグニーでは自身の自由な主義はない。今生きている場所の権力の兵にされるのだ。ギュグニーの一部国家では家族や結婚も自分で決めることはできず、監視も兼ねた組にされた。気分や政策で組も変えられる。けれどここはまだいい。男子や兵役を希望した女子たちは、兵役と同時に勉強もでき、子供の頃から知る先生たち保護者の元に戻ってくることができた。
ジライフから来たロワイラルとタイラも細い腕で訓練を受けて帰ってきた。一切の経歴を言わないことを条件に、長の管轄内なら訓練が許されたのだ。
いい酒が入り、監視が緩んだその日、
ショーイことロワースとその娘ロワイラルは、誰もない空き部屋で何か話していた。
静かに伏せている二人。
二人が小部屋に向かったことに気が付き、ジュリはそっと近付く。
すると信じられないことに、二人は祈っていた。
全ての和平締結と、バーシことレグルスの解放を。
「ロワース?」
思わず昔の名前で呼んでしまう。
「っ!ジュリ?」
「…何をしているの!!」
「っシ!」
ギュグニーで個人的な祈りは許されていない。一部の牧者たちの祈りは特例なだけだ。
正道教であろうが、カルトであろうが、ここに信仰を持ち込んではいけない。
それはギュグニー全政権での徹底した決まりだ。自分たちを神格化したいのだから。
あんなにバーシを愛している、ここの長ですらバーシを牢に入れた。
「言わないよっ。あんたたちおかしいの?」
祈っていたことよりもショックだったのは、この人たちはまだレグルスの事を考えていたことだ。この前の件ですっかり愛想を尽かしたかと思っていたのに。バカなのか。
自分だってバーシを忘れたわけではない。ただ無性にイライラはするし諦めている。そうやって消えて行った人間はいくらでもいる。レグルスもその一人になるだけだ。
「ジュリ!」
「ショーイ……。目を覚まして自分たちが助かる道を選ぶんだよ!そんなこと考えてたら助からないよ?ここだって…………何年もつか分からない。」
聞かれたら危険な話だ。
「ジュリ。私たちは役目を捨てない……。今更捨てられない……。
ショーイは自分の身など関係ないように言った。呆れてしまう。
ジュリは彼女たちの正体も過去も正確には知らないが、ショーイだって分かっている。自分たちが助かるかどうか保証などないと。外界もカーマイン家に最も注目しているだろうとも。
そして夫も、息子も、どのみちセイガ大陸の戦火に消えた。
ショーイことロワースの目にはまだ幼く見えた息子。
大人にも子供にも見える、そんな大切な時期だった。
一番会いたい人たちはもうジライフにもオキオル共和国にもいない。
けれどロワースはこの前とは違い、顔を引き締めてトレミーに囁く。