58 亡霊の住まう場所
バーシはいつから指がなかったの?
ジュリは布ごと捨てた廊下の奥のゴミ箱をあさる。
けれど指はもうなかった。
***
この独房に入った時、バーシはとても怖かった。
ドア向こうの監視以外、ここには自分一人。
脚もフラフラな簡易ベッドの下に、自分もフラフラになって眠る。床が冷えるが、ここには所々砂に近い土が盛ってあったので、なんとなくそれを寝床になるように均す。最初来た時は、埃だらけで布団も使えなかった。被っていたルバを下に敷くか上に被るか迷って、下を這う虫に怯えながら頭から被る。
ここは完全に電気が消えることもなく、バッテリーさえ動いていれば乏しい光がずっと周りを薄暗く照らしていた。
いつしか眠ってしまうと、怖かったのか髪をギュッと握っていた。
「…ん…。」
目覚めて半身を起こし、あることに気が付いて「ひぃっ!」と息を飲む。
掴んでいたのは自分の髪ではなかった。
誰かが自分を見ている。
…………女。
女だ。
黒い髪で、トイレの壁から頭に目までを出して何も言わない。
「ひっ!」
初めは人かと思ったけれど、死んだ人だとすぐに分かった。手に握った髪の毛も消えていた。
立ち上がって必死になってドアを叩く。「ここから出して!女の人がいる!」と。
けれど監視の男は「こえーこと言うな!!こっちも今一人なんだよ!」と、怒るだけだ。
ここにいる女たちは基本髪は切れなかった。長い髪は手入れに手間がかかり、放っておけばシラミも住み着きやすい。でも長いドレスと同じく、逃げやすい軽快な格好にさせないためであった。
亡霊は何日も現れる。
おそらく外は朝なのか。電灯が少し明るくされた。
何か生活的なものが欲しい。そういう物がないと自分を見失いそうだ。壊れそうなベッドの下を探ってまた小さく悲鳴をあげる。
「!?」
手に掴めそうなくらいの黒い髪の毛が出てきたのだ。これは本物?
「あ…ぁ……」
…恐ろしくも…………、切ない。ここで以前に、何かあったのだろうか。
レグルスは床が砕けて砂が溜まっていた場所にその髪を埋め、そしてしばらく祈る。
数日後に女は現れなくなった。
ここは、あまりに寂しい所だった。
一人で寝ていた日。
誰かが自分の手を握った。
「はっ!」
始めは監視兵が手を出してきたのかもしれないと思った。逃げねば、誰かに伝えなければと不可能な願いにすがる。
けれど体自体が動かず、起き上がることができない。叫び声さえ上げることさえできない。
「??!」
そんな時間を数分過ごして気が付く。
手しかない。
男の手なのか女の手なのかも分からないけれど、薄っすら目を開けると血にまみれ膿んだ手だけがあった。今度は目を閉じられない。
夢なのか、亡霊なのか。
けれど祈ろう。彼らがここから解放されるように。
少しでも慰められるように。
時々まだ授業に出してもらえる。
その時は長い長い階段と通路を歩く。でも、時々の運動には激し過ぎ、そして長すぎる地上までの距離。
時々足元が崩れるが、それを支えてくれる監視がその度に嫌そうにふるまう。不要な事情を避けるため異性との接触は禁じられていたが、こんな地ですら身を支えられえても、もう男性にも手を出されない布切れのような身。いや、そんなボロボロでも手を出される者もいた。でも、自分はひどく匂うのかもしれない。支えてくれるだけありがたかったし、もう人前に出るのも気が引ける。
エレベーターのある所まで来ると、見かねて車椅子を出してくれる者もいた。
いつ日が暮れ、夜が明けるのだろう。
バーシは祈りの中で、来ない朝をいつまでも待った。
***
一方、ある男は進む。
どこかで音がする。
男性用の軽量作業ブーツに床がかすれる音。
ここは多くの男たちが集まる場所の、そこから少し離れた静まり返った一角。
作業用の粉塵ヘッドギアをした男が、音が響かないように慎重に、けれどスピードを上げて動く。
見付けた。
あの人を。
半分は確定情報。半分は勘。
独立勢力の固まる街の一勢力のアジト。半廃墟の巨大な建物に、数年前に拉致された女や子供たちがいると。修理工に混ざった男はダクトの一か所で、何も知らない仕事仲間たちにあっちが持ち場だと言って別れた。
下層にある、たった一つだけの生体反応。
男は妻と身を繋いでから様々な物を感知できるようになっていた。
でも、どこに行けばいいのか分からない。ひどい廃墟。埃のせいで自分の歩いた道がはっきり残ってしまったところもある。そして物理的に岐路があり過ぎる。
「はあ……」
と仕方なく座り込んだ。ここまで来たら、むしろ行先を混乱させるために、あちこちに跡を付けた方がいいのかもしれない。真っ暗でライトがなければ何も見えず、全体が暗いことだけが救いだ。
気が付いたら手元近くに赤い斑点の黒いイモリがいた。明かりに逃げていかなかったのか。
「………。」
目的地が見付からない腹いせに尾を掴んでやろうと思ったが、命も尊重してやろうと気持ちを切り替える。
「よかったな。寛大な俺のおかげで命拾いして。よくこんなところで生きていたな。」
でも………なぜこんなところに?
もしかして水があるのか?
残飯とか?
***
深い地下の独房。
………どうしてヤモリがいるの?
鱗がないんだね。イモリだっけ?
バーシはだるい体を起こし部屋に入った小さな白い侵入者を見る。
閉鎖された独房にはそれでも3つの穴があった。
1つは出入口のドア下。
そして反対の崩れかけた壁。ドアのない壁に隔たれただけの砂のトイレがあり、その壁下に少しだけ崩れた穴があったのだ。以前いた者がそこから逃れようとしたのか。ただ、中には鉄筋が通してあり女性にどうにかできるものではない。きっと向こう側も廃墟で誰もいないだろうが、始めはそこからよく「目」が見えて怖かった。
床にも排水溝などあるのだろうが、どこかに埋まっていた。
そして、後一つは天井の換気口。
換気口と言っても階層間のただの空洞だ。それなりの大きさはあるか、鉄格子でがっちり閉鎖されている。命のように見える外への空間も、ほぼ真っ暗闇に微妙に奥が見え、誰かが覗いていそうでかえって不気味だった。ここにはやはり誰もないのだ。少なくとも生きている者は。
イモリは位置的に天井から侵入したのだろう。
「変なの。あなたはこんなところで体が乾かないの?埃まみれにならないの?なんでそんなに瑞々しいの?変種?アルビノ?デルフト焼きのようね。知ってる?白と青の陶器。キレイだよ。」
久々におしゃべりなバーシは、動かないでじっとしている白いイモリを見つめた。白いけれど背中に青っぽい斑点が薄っすら見え、眼も黒い。ただの変種か突然変異か。
「どこかに水場でもあるの?」
当たり前だが返事は返ってこない。
「……。」
「あ、そうだ。お水をあげましょう。」
バージは布にくるまった体を動かして身を屈め、一枚しかないドアの下にある開閉口に声を掛けた。
「兵士さん。」
「……兵士さん?」
床に頭を付けて見渡しても、2つあるパイプ椅子にはどちらも兵士の足は見えない。ぞろぞろと戻ってまた座り込んだ。最近疲れやすくてすぐ座り込む。
「いないみたいだね……」
見張りも退屈だからだろうが、一応バーシが呼べばいつも兵士は答えてくれる。誰もいないのだろう。
「……ごめんね。おもてなしもできなくて。」
だからといって、イモリは降りてくるでもなく天井近くに張り付いていた。
『………ス?』
その時どこかから声が聞こえる。
『………ルス……?』
「!?」
バーシは思わず立ち上がる。
『レグルス』?
知っているこの声。もう耳の奥からも忘れてしまったと思ったあの声。




