57 指輪
※残酷な描写を含みます。お気を付けください。
「チコ様?」
「いる………目の前に女性が………」
チコは呆然としている。
それはテニアにもはっきり見えていた。
長いドレスの女性。よく見ると北東地域の足まで覆う民族衣装。
長い髪、長い手。ある一点を指した指先。
その長い指の先は一人の女を指す。
チコがその先を見ると………そこにはニッカがいた。
「………?」
チコに見られてニッカが戸惑っている。
「やっぱりトレミーだったんだな………。」
テニアがそうつぶやいたと同時に……
サーーと光が覆った。
***
またポチャンと、水面にミルククラウンが上がった。
どこに?
その雫は地下の、地下の、ずっと地下。
人が見たこともないような、地下のずっとずっと下に落ちていた。
レグルスは自分の頬に雫が落ちた気がして、顔を少しだけ上げる。
自分の手がおばあさんのように皺だらけだ。ここが乾燥しているから?
どうしてこうなったのかは分からない。
……どこかの牧師に連絡は取れただろうか。書いた手紙はきっと届いただろう。
カレンダーがほしい。日付を忘れたくない。
一本の指を失った手がカレンダーを探すが、考えてみれば今日は何日なのだろう。作るにしても何月何日から作り始めればいいのか。日替わりにして、分からなくなったらその都度監視兵に日にちを聞いてみればいいのか。
いつが昼で、いつが夜なのか。
自分の子供の名前は何だっけ?
子供を産んだのだっけ?…ああ、産んだ。セシアだ。そう、セシア。
………下にもいた。男の子。
そうだ、あの子を産んでからずっと体調が悪い。時々血も出る。つわりはそこまでひどくなかったはずなのに。
そうだっけ?何もかもよく覚えていない。
ちゃんと抱っこをしてあげたいのに――
***
バーシにがいなくなってしばらくしてから、ジュリが長の世話係をしていた。
長の部屋に出入りするようになってから、掃除もジュリの仕事だ。重要なものがたくさんあるので、関係がなさすぎる者も、間抜過ぎる者も賢過ぎる者も部屋には入れられない。賢過ぎず、根が真面目なジュリは都合がよかった。
隣りの小部屋から続く倉庫には窓がある。
窓と言っても外に続く窓ではなく、その先は内部の換気口代わりの吹き抜けだった。
サッシを掃除しようと窓を開けて見ると、もう何年も、何十年も掃除をしていないのだろう。埃がコーティングのように張って、層になっているところもある。ジュリは窓の部分だけきれいにしておこうと簡単に拭いていた。
「?」
そこで下を見て光る何かに気が付く。
吹き抜けから誰かが侵入できないように上下階に金属製のネットが張ってあるのだが、落ちずに何かが引っ掛かっていた。
ジュリは目がいい。埃の塊に見えるが、ネズミか何か大きな虫が死んでしまったものかと見ないふりをしようとした。
「………。」
けれど先、明らかに光っていた。人工的な物を付けているように見える。
長のペットだった何かだろうか。こんなところから捨ててしまうのか。それとも逃げ出したのか。トカゲか蛇のしっぽに飾りでも付けたのか、侵入した動物に何か絡まったのかといろいろ考えた。けれど、ギュグニーでの生活は虫がいたり、ネズミや蝙蝠などの死骸は珍しくもないのでそれっきりだった。
しかし何日かして見ると、やはり光っている。
貴金属?そうならいざという時に取引材料になる。特徴のある物だったら持ち主がバレないように変形させればいいし、金なら持っていて損はない。監視カメラに姿が映って何か聞かれたら、掃除していたと言えばいいのだ。本当に掃除中であるし、ここまで埃まみれならきっと忘れられた物だろう。
埃を被っているのに光るなんて変なのと思いながらも、ジュリは服が汚れないようエプロン代わりの布を身に着け、暖炉の長い火ばさみを持って来て、ギリギリまで身を乗り出しどうにかその物を取った。そのままエプロンに包んで確認すると、背筋が一瞬凍る。
「ひぃっ!」
周りのクモの巣などを取ると、それは乾燥した誰かの指だった。
ならきっと指輪だろう。ジュリはエプロンを介してその指から指輪を外した。指は崩れることもなく凹み、感触が気持ち悪い。でも、ここでは全てが生き残りにつながる材料だ。
「おい。何をしている。」
「っ!」
男の声が聴こえ振り返ると兵士がいて、火ばさみを持っているジュリを怪しんでいた。
「窓の外に何か引っ掛かっていて、掃除しようと取ってみたら………」
ジュリが言い切る前に兵士がエプロンを取り上げた。
「うわっ。指かよ!」
既に指輪の外れた指を見て、兵士がエプロンごと投げ捨てる。
「落ちて行かなかったのか?」
そう言って男は、埃が付かないよう気を付けながら、どこまで続くかも分からない深い窓下をのぞき込んだ。
「時々いるんだよな。切られて捨てられる奴。処分しておけ。この辺の埃、ちゃんときれいにしておけよ。動物の糞とか巻き散ったら困る。あと、マスクはしておけ。吸ったらヤバいのもあるからな。」
「はい……。」
ジュリは座り込んだまま返事をした。
ジュリはこの頃のことをよく覚えていない。
時間の前後関係も曖昧だ。
どう生きたか、どういう気持ちだったか。
とにかく生きることで必死だったからだ。
「バーシも男頼みだから。」
「あんたんとこのリーダーはさ。結局ただの椅子に座った指示系統じゃん。自分が這いつくばってるわけじゃないし。」
ここで聴かされた女たちの声が響く。
「シシナイさ。バーシだけじゃなくて、外の女にも手ぇ出してるって。」
「?!」
「あんたの騎士じゃなかったねえ。」
「そんな男いくらでもいるのに何今さら驚いてんの?いつからお花畑になったの?」
「やだ~、何その顔!騎士って言葉、知ってるの?博識だねー。」
自分の中で何かが壊れる。バーシが壊れ、シシナイが壊れる。
いつも必死に前線を歩んできたレグルス……バーシは、軟禁されているこの場所でさらに軟禁監禁されていた。時々会うだけになり、それでも「待っていて、いつか状況を変えるから」と小さな声で言ってくる。
けれどそれはもう無理だとみんな知っていた。もうカラもいない。この土地の位置も分からない。
バーシはいつの間にか子供を二人も作っていい椅子に座っている。バーシの個室の布団が上等なものに変わっていた時、思わず鼻で笑った。
その頃は自分も疲れていたのだと思う。
ジュリはバーシにひどい嫌悪を覚えて、自分が男たちに取り入って少しの地位を手にした時も、地下に移ったバーシをそのままにした。全くもって普通の顔をしているショーイことロワースなど外交官の女たちにも言ってやった。
「私まで裏切って頭に来てる?それとも清々してる?」
「本当はショーイだってあの気高いカラ姉妹にイライラしてんでしょ?」
「身重の体でも汚れた布団にみんな耐えてきたのにさ…。」
寝床の硬さは慣れる。けれど、過去に不清潔な敷物や匂いに包まれて体が弱ってしまった者たちだって見た。昔の理不尽さを当て付けにしたいわけじゃない。けれどどうしようもなくレグルスが苛立ち嫌になった。
唯一の慰めがあるとすれば、シシナイはバーシを愛していたわけではなないだろうことだ。こんなところに来なければ、一人の男性の妻として生きていただろうバーシ。そんなバーシが、たくさんの女の一人にされたのだ。自分のように。
特別じゃない。
なのに、外国から来た女たちは言う。
「ジュリ、お願い。バーシを助けてあげて。他の部屋に戻すだけでいい。」
ここの長の部屋の出入りを許された私に皆そう言う。
ショーイやこの女たちも嫌いだ。自分たちは汚れ役を引き受けず、今更それを私に言うなんて。
いつまでも自分たちは潔癖でいようとする。
いや、心底嫌いにはなれない。
こんな場所でも彼女たちが必死に支えてくれたことも知っている。
全員でなければ各々逃げ出せたかもしれないのに。
けれど、所詮人間。同情する。
数年もこんな生活、兵士たちでさえマンネリ化した日々でゆるみが出てきている。そして気が緩んだとたん、頭が吹っ飛んでいることもある。すっかり疲れてしまったし、明日も今も分からない状況に心身が耐えられないだろう。
何かができる分、外交官の女たちは他人からの期待も大きい。ショーイたちもここの男にすがってしまえばずいぶん楽になるのに。なぜ外国の女たちは死んでしまった夫にいつまでも身を預けるのか。
「いい加減に諦めたら?ここに来た時点でもう助からないって分かってるでしょ?」
「でも、養子に出た子たちがいる。」
本当にギュグニーを出られた子もいるのだ。
「幸せかも分からないのに?嘘かもしれないのに?それでギュグニーが外貨を得ているのに?
私、知ってるんだけどね………」
ジュリは声を小さくして続けた。
「この国の外のニュースではカーマイン家の話ばかりだって。あなたたちを救わなくてもカーマイン家さえ助かれば世界はお祝いムードになるんじゃないかな。」
ジュリはカーマイン家というものを良くは知らないが、兵士たちがレグルスやカラのことをそう言っていたのを知っている。金持ちではないが、中堅でそれなりのお家柄だそうな。
「…………」
「ま、あなたは信仰者だからその全てに耐え、自分を犠牲にして、面倒見てた子が助かればいいんだろうけどね。」
「………。」
そう言うと、ロワースの顔が少しふじゃけて目に涙が溜まった。
けれど落ち切らない雫。
年長だったロワースが他人に見せた初めての、ほんの少しの………泣き顔だった。
ジュリは別の時に、ラージオやフィルナーたちにも言った。
「カラやバーシだけがいつも特別扱い。なんだかんだ言って、自分の子を抱いて、あっちこっちの男に声を掛けられて、ムカつかないの?なのに悲壮な顔してさ。」
「…………」
彼女たちは何も言わなかったが、顔が曇っていた。
いい気味だと思った。
ここの男たちに身を許してから全ての待遇が上がった。
少し痩せてしまったが、美しく元々艶やかしい凹凸の体の持ち主だったジュリは羨望の的になる。
でも、なぜか長の男はバーシの名を呼ぶ。
自分で独房に閉じ込めておいて「バーシを監視に任せたくない」「バーシは私の名を呼んでいたのか?」「バイアースの集落では本当に夫以外いなかったのか?」「バーシは何を食べたんだ?」「私を頼ったか?」と。
自分で聴きに行けばいいのに。
ジュリは手に入れた指輪を洗って、一人の時間にその穴を覗き込んだ。
上品なホワイトゴールドに柔らかいねじりが入っている。女物だ。
娼婦だろうか?
裏側には『B&R』とあった。文字を削るだけにして指輪のままがいいか、足が付かないようにただの塊にしても価値があるのか。金で重さのある物には、それだけで価値があると言うことぐらいしかジュリは知らない。男たちが言うプラチナと、そこらにあるステンレスの違いも分からない。磨いてあればシルバーも同じに見えた。
「…………」
『R』を見ると、レグルスを思い出す。
イライラもし、切なくもある名。そして気が付く。
「…『レグルス』!?」
ダン!と、机から身を引いて立ち上がった。
………そしてまた、その全てが壊れていく。