56 ジュリはトレミー
ファクトが目覚めたと知り、急いで戻ってきたのはテニアだった。
「鳩!大丈夫か?!」
「おじさん!…大丈夫です。それよりおじさんはユラス連行ですか?」
「…知らん。行きたくないけど一度見知らぬ場所に挨拶に行けとな……。」
「頑張って行ってきてください。」
「鳩がマネージャーになれ!同行しろ!」
そのやり取りを見ていたムギが叫んでしまう。
「ファクトにこそマネージャーが必要なのに、そんなんできるわけないだろ!!なんでそこは仲がいいんだ!」
「仲がいい悪いの問題じゃない!緩衝材だ!俺の間に入ってくれる!!」
テニアはファクトをやらかしたとこのクッションにしたいらしい。自分がしでかしたことの妻への言い訳に、息子を使おうとするどこぞの父親そっくりである。
「それにな、こういう奴は自由にするより責任持たせた方が脳がしっかり働くんだ。」
「なるほど。」
疑問はあるがムギは納得してしまい、いつもクッション材にされている小2男子を見る。
「え?ならおじさんが自身でマネジメントして下さい。頭冴えますよ。」
本人、一応分かっているのかそこは不服申し立てをしていた。
「リンちゃーん。リンちゃんも一緒に来る?鳩が俺のマネージャーで、鳩のマネージャーはリンちゃんね!」
「テニアさんって、そういう人だったんですか……。」
完全に引いている。
と、そこで間に入ったのはまだいろんなことが呑み込めないチコであった。
「ちょっと待て。」
「………」
みんな振り向く。
「どういう事なんだ?」
「はい?」
チコは子供の頃のことを総じてあまり覚えていない。はっきりした記憶があるのは傭兵の訓練に入ってそれなりの頃だ。
「ザイタオス・ニッカ。」
「………。」
チコの声にニッカは静かに振り向く。
「ギュグニーから来たのか?」
「…!」
無言でニッカは頷いた。
「…獣道を越えて…」
「……」
「えっ?ギュグニー?」
なにせ閉鎖された独裁国家群。ファイがギョッとしている。ムギと響はニッカから詳細を聞いたことはなくとも、驚きはしなかった。
「……テニア氏の……そこでの知り合いを知っているのか?」
今は人が多くて父とは言うことのできないチコの顔を、テニアはじっと見ている。ニッカは静かに答えた。
「…いいえ。知りません……。」
「…なら…一体………」
「先の石は…国境で拾って来たんです。」
その石は今はソファー横のローテーブルの上にあった。
「……私も見ていいか?」
「…はい。」
一見何の変哲もない薄っすらとちゃばんだような、黄色掛かった軽石。
「チコ様、お気を付けください。触らないで。」
アセンブルスが先の現象を警戒してチコを見守る。チコは霊性を可視できる力が多少あるが、今は何も見えない。
「……?」
そしてはっと気が付き、ファクトとニッカの方に振り向いた。
「骨っ?」
ニッカはまた無言でうなずく。
立膝でじっと石を見つめるチコは、それを眺めながら不思議な気分になる。
これが自分と関連しているとは思えない。でも、もし母レグルスの知り合いの骨なら………
考えてみればチコが国境を越えたのは26、7年前のことだ。ファクトと同じ年のニッカがこちらに来た時期とはだいぶ差がある。
母レグルスの知り合いはそれまで生きていたのか?チコは何もない自分の過去を思い出そうとするが、全く白紙だ。
過去は空白?
自分の霊視能力のように少しだけ靄が掛かった、何かは見える。
でも何かだ。暑くも寒くも込み入った密林が思い出されるが、それは傭兵だった時の記憶だろうか。そこらの男より逞しい女性が抱いてくれた記憶がよぎる。狭い部屋にもいた。ただ、どこも殺風景だった。
訓練は辛かったし孤独もあったが、各段苦しかった思いもない。けれど、はしゃいだ思い出もない。
それとも過去は真っ暗な闇?
国境を越えたのは2、3歳の時期。覚えていなくても仕方がない。だからだろうか、漠然とした世界観さえ見えない。
………違う。
ニッカが国境を越えようとした時、母の親友は生きていたのではなく白骨になっていた?
なら、既に死んでいたのか?どこで?国境で?それとも死体が運ばれた?いつ?全て推測しかできない。
「……『トレミー』?」
チコは先、父が発していた名前を思い出す。
「…妻の親友だ。」
テニアがすかさず答えると、チコも反応する。
「トレミー?長くて少し巻いたような………つやつやしてきれいな髪?」
「っ?」
テニアが驚く。テニアは我が子が生まれたこともどこで成長したのかも知らなかった。チコとトレミーが拉致されてから一緒だったのかも知らない。
けれど、チコは覚えていた。
何かの感触を。
でも何だろう、この違和感。チコは何かくすぐったい思いがする。
「チコ様?」
アセンやカウスが構えた。
「それはトレミーじゃない……。」
「?…トレミー……。トレミーはくすんだ色のロングブロンドだ。髪を切っていなければな。」
テニアが答えるも、チコもサッと反応した。
「いつも艶がある……なんていうかグレーのような、黒掛かった髪?」
色はくすんでいるが、髪自体には艶がある、ルバの端からもあふれていた美しい髪。容姿は一致しているのに、名前が一致しない。
「…そうだ……。それがおそらくトレミーだ。だから俺にもその石が分かったんだ…。知っている霊だったから………」
「違う。トレミーじゃない!」
「チコ?」
娘の否定にテニアは驚く。何か覚えているのか。けれどこの石に見える霊性はおそらくトレミーだ。
「……違う……。だって……」
チコの記憶にトレミーという名前はない。
でも霊性ですらもその名前では落ち着かない。その名じゃない。
「『ジュリ』。」
その時答えたのはファクトだった。
「?!」
「その人はジュリだよ。」
「教師だよ。先生だったんだ。シェダルを抱いて……いつも宇宙の人の授業を見ていた。」
「ファクト?……」
「『ジュリ』『バーシ』『ショーイ』……?後は思い出せない……。」
ファクトはいくつか覚えていた。
「『シャシャ』『バナスキー』……」
ファクトの代わりに、響がそれだけ上げていくので、周囲も驚く。心理層で響いていた外交官たちの仮名。
「…バナスキー?!」
この名前には周囲の何人かが反応した。ファクトが敢えて出さないでいた名前を響が出してしまった。
「……ショーイ?ジュリ?」
名前を上げていくファクトと響にチコが驚愕した。チコに他の名前は分からない。でもショーイは知っている。記憶のどこかで響く名前。
女。全員女だ。なぜかそれは分かる。
そう、チコが知っている名は、
心のどこかで覚えていた名は『トレミー』ではない。
『ジュリ』だった。
そして、チコは『バナスキー』も知っている。チコがSR社を出てからどこかに消えてしまった、自分の姉のような人であり、同志。
アセンブルスも顔には出さず動揺した。なぜ響がバナスキーを知っているのだ。バナスキーの存在を知るのは国家や軍、研究関係者中核の一部だけ。同じように東アジア側の一部の人間も驚いている。ギュグニー出身の強化ニューロス化した被験体。……ただ、他になくはない名前だ。ギュグニーではそれなりにいる名なので本人とは限らない。
「とにかくその人は『ジュリ』だよ。」
「……鳩?」
なぜ鳩に言い切られるのか分からなくて戸惑う。
「『ジュリ』は、『トレミー』だったんだ。」
「っ?」
「そこではみんな名前を変えられていたんだよ。」
「!!」
周囲は驚くが当然と言えば当然だ。誰もが本名で生きていたとは思っていない。
けれどこれで一致する。二度目の拉致前の彼女たちしか知らないテニアと、その後しか知らないチコ。
「少なくともチコは3歳ごろまで、シェダルは赤ちゃんの時まで一緒にいたんだよ。『トレミー』さんと。」
「……まさか…」
「…っ」
そんなことまで分かるのか?と、東アジア側も少し動揺しているのが分かる。ここでバナスキーとロワイラルも同一人物だと言ってしまいたかったが、人が多過ぎるしファクトはSR社で眠る現バナスキーの存在を知らないことになっている。シャプレーとの約束だ。知らせるのは今ではないし、響も何も言わない。
ただ、呆然としているファイに気が付きハッとする。ファイは太郎君がシェダルと知らないよな?と。
「……そこに…外交官たちの生存者がいるのか?」
「カーマイン家の娘は?!」
意外にも東アジアの上官のような人物が切羽詰まった顔で詰め寄ってきた。ずっとこの事件を追っていたのか。
「さあ……。」
「…やめましょう。ここで話す話ではありません。」
一人が冷静になって言った。全体の話の筋は分からないだろうが、今は一般人のファイもいる。
皆がどう対応すべきか戸惑っている時、チコは上を見上げて言葉を失った。
「…え……」
「チコ?」
まるで別世界でも見ているように、見上げたまま立ちあがる。
「…いる……。」
「チコ様?」
「いる。目の前に女性が……」
そう、チコの前にはくすんだブロンドの、髪の長い、揺れるように映る女がいたのだ。
底のない空洞のような目の。




