44 出口
認可されて入国している正道教や旧教新教の聖職者の殺害。
これはギュグニーで絶対にあってはいけない事だった。
彼らは唯物主義のギュグニーで心の拠りどころとして密かに頼られ、何よりも様々なパイプ役になっていた。
ギュグニーと他国の便宜、国際関係でのバランス。シーキス牧師は完全にこの一国に留まり、外部との接触の際は見張りも付けられ影響力は少なかったが、それでも外部とのクッション役であった。
「…ぁぁ…」
自分が牧師を殺してしまったことに、長の男はショックを受けていた。周囲も騒めく。
どうしてもバーシがほしくなった長は、バーシに取引を持ち掛けたのだ。ほぼ、強制的な。
自分を差し出すか、教室の誰かを差し出すか。
バーシには一択しかない選択で、それは長も分かっていた。
そしてバーシは約束させる。
今まで、教室の誰にも手を出さないということを守らせてきた。子供には絶対に手を出さない、体を売らせないと。それを最後まで守ってほしいと。既に何人かが養子として出て行ったが、全員貞操のままここから出した。
自分から何かをする者は、大人ならもう止められない。でも、子供たちは貞操のまま送り出してほしいと。この塔にいる女性や子供に手出しをしようとした者は、基本極刑だ。
そうすれば、牧師の代理人である自分が、いつか天に行く時に天にあなた方のとりなしをしましょうと。
彼らも人間だ。いくらこんないい加減な世界に生きていても、罪悪感や恐怖がないわけではない。むしろ、一般人より自分のしてきたことを心の奥底ではよく分かっている。地獄の地獄でも足りないほどのことしたと。だから牧師たちを排除しなかったのだ。
バーシは心の底で笑う。唯物観の人たちが、死後の世界を恐れている。死んだら終わりだろうに。
それにもし子供たちがギュグニーを出ても、もしかして外の世界の方が過酷なのかもしれない。外の世界も紛争や貧困にあえいでいる。おかしな人間はいくらでもいる。
保証もないのに子供を送り出す自分も偽善者だ。ただ、どこかの誰かを通じて連合国の人間には話を通してあるはずだ。この時、アジアライン南の国境は無法地帯になっていた。連合国家の人間と出会えることを祈るしかない。
バーシと長はお互いそれで了承した。それに、バーシの願いは絶対性を求めただけで、今までと同じ願い。子供をそのまま外に開放すること。
けれどバーシは共寝の場で急に怖気着いたのだ。
「お願いです…。お許しください!やっぱり無理です。」と。
長に腕を掴まれてほとんど半狂乱になる。
そんなバーシは初めて見た。
けれど、約束は約束だ。
彼は横にいるだけの女でなく妻がほしかった。
バーシがほしくて仕方なかった長の男は止められるわけがなかった。
***
何かが弾ける――
長の男の中に、誰かの声が聞こえる。
先、死んだ牧師か?
『なぜ、バーシに手を出した?この国にもいくらでも女性はいるのに…。』
――あの男には、たった一人のつがいだったのに……――
あの時、牧師は声にしなかったが、これは心の声か。
男はレグルスの夫からたった一人の妻を奪った。自分にはいくらでもいたのに。
権力者の相手だ。自ら望んで来る者もたくさんいただろう。今までだってそうだったのだ。
無神論の中で生きるなら、価値観も合うだろう、その中の女を欲しがったらよかったのに。
なのになぜ、ここの男たちはレグルスたちを求めたのか。
でもバーシが、レグルスがよかったのだ。
バーシはここにない全てを持っている気がした。
権力で信仰のある相手に思い知らせたかったわけでも、かしずかせたかったわけではない。ほしかったのだ。
安心するから。安心させてもらえるから。ずっと隣りにいてほしかった。
そこにならどこからでも、安心する場所に帰れる気がして。
国を変えるほどの力があった屈強なジークアが、自身の身の振りも忘れて愛しい妻、カラの遺体を抱きしめたように。
部下に外交官たちと結んだ約束を強いて、長は自分がそれを破った。形は正式な妻として。
そしてバーシは誰よりも美しく見えた。髪から艶が消えても、肌がひどくても。
愛おしくて、ただ愛おしくて。
――
『バーシを、バーシを外に出す!取り敢えず医務室に!地下はだめだ!』
長が動かないので、シーキス牧師は周りの兵になりふり構わず声を掛けた。
シュン!と音がする。
撃った。
だから撃ったのだ。
あらゆる非道なことがここではまかり通っているのに、長はバーシにしたことを全てなかったことにしたかったのだ。
泣いて嫌がったバーシ。
それをなかったことにしたくて、蓋を全て閉じて、何事もなかったように……。
それでもあの時は甘く優越感に浸り、何度も…。
もうその話はしないでほしかった。
どんなに声を掛けてもほとんどの時間虚ろで、機械のようになってしまったバーシにもイラつき、その虚ろな視線と時々目が合うのも耐えられなくなったのだ。
自分がしたことなのに、長はだんだんバーシを見ていられなくなった。
――また全てが弾ける――
女たちが身を扮して外に人材探しに来ていた時だった。
外交官ロワースの娘、バナスキーに名を変えたロワイラルは初めてあの建物の外に出る。
ある場所で大きな爆音がした。
「バナスキー!!」
少女が爆風で吹き飛んだ。
それを助けるのは近くにいた教室の子供、ジグレイト。
「バナスキー!バナスキー!!聴こえるか?!」
「?!」
バナスキーの顔を見て息が止まる。
頭の一部が血まみれで明らかに穴が開いている。
「大…丈夫…。ショーイは…?」
母親のことを母と呼べない。ほとんどの子供に親がいなかったし、家族関係は上層部が決めるものだった。ここではバナスキーも姉に近い歳の子供たちの母役だった。
「ショーイは今ここにいないよ…。ナナンがいる。分かった。バナスキー、もう話さないで。安静にして。」
「………」
ジグレイトという少年は外部から来ていたため、ある程度ここでの生活感覚がある。助けに来た兵にバナスキーを預けた。
そしてその時、バナスキーは爆発に巻き込まれて亡くなったことになった。
死体が上がっていないと長は大騒ぎをしたが、想像以上に近辺に被害が大きかったためそれ以上は言えなかった。
――回る、世界が回る――
自分が土星の輪の中にいるのか、円を離れて眺めているのかも分からない。ただ、世界は回っていく。
今度は何だ?
あの教室が揺れている。
「ショナ!こっち!」
彼女たちの本当の名前など知らない。初めから名前などなかったのかもしれない。ジグレイトは教室の子供たちを先導する。
でも今、ショナと呼ばれる少女を呼ぶ。
「先生もこっちに!」
遂に開けた。外に出たバナスキーとある一派が教室の門を開けたのだ。
「私は行けない………。私はここの人間だから……。それにもう…もう…っ」
そう拒むのはジュリだった。やっと行ける。やっと出口が開いた。なのに………
「先生、行こう!まず自分と赤ん坊だけでも出すんだ!」
「………」
「先生がいないと、子供を連れていけない!」
ジュリは今さら脱出なんてと思うが、腕の中にはバーシの長女がいた。シャオと名を変えたタイラがバーシの二番めの男の子を背負っている。他、何人かの幼子を成長した子供たちが背負っていた。
「先生は、セシアに責任を持ってください。」
ジュリはどうしていいのか分からなくて涙が出そうになる。
私はどうしたらいいのか。心も、この身も。
この子の母はまだ地下だ。
「他の先生たちは?」
「行きなさい……。私たちは大丈夫だから。」
ジーワイやラージオ、ショーイたちは行けない。
全員は行けないし、乳母役や母親なしには運べない新生児や乳児もいる。前の集落から来た女性たちも置いていけない。産婦人科を通じて、自分たちを信頼してくれた外部の女性たちもいる。もしかしたら、子供たちを逃がした罪でみんな殺されるかもしれない。でも、もう賭けるしかなかった。
バナスキーは爆破にあってから過去のはっきりとした記憶がなかった。眠ってからの手術後は、もう母の名前も言えなかった。顔も違ったのでジグレイトがいなければ親子は対面できなかっただろう。
ジグレイトも最近まで二人が親子と知らなかった。
「ロワイラル……。お願い、母さんって言って………」
「…母さん……」
「ロワイラル…。」
母だという人が抱いてくれる。でもお別れだ。
なるべく長旅に耐えられる者を連れて行く。そのうちの数人が、最近遠方の村から都市に派遣された子供数人。その中に後のニッカもいた。
「さあ、早く。援軍が来るかもしれない。」
準備をしたジュリが傭兵たちの車に乗り込もうとすると、男と目が合った。
自分を誘った男、そして死んだと言われていたシシナイに。
「?!」
「ジュリ、向こうで合おう。」
「………」
もう、顔も上げることができない。ジュリを掴む手があまりにも大きい。
ジュリは自分の小さな手が、それにはふさわしくないと思った。
ここはどこ?
みんなが走っている。誰かが誰かの手を握り、誰かが誰かを背負い…。
後ろを振り返ってはいけない。
走れ、とにかく走るんだ。
――バチバチバチバチっと頭の中に閃光が飛ぶ――
たくさんの何かが見える。
何が?
恐怖?
涙?
痛み?
限界?
たくさんの意識がはじけ飛ぶ。
いつのことだろう。
教室に明朗と、優しい声が紡がれる。
まるでおとぎ話のように語られる、バーシの朗読。
みんなその声が好きだった。
女性というものは、あんな風に輝くのだ………と、地味なバーシを見て長の男は無自覚にそう思った。
それはは生まれて初めての感覚と感動だった。
どこか遠くで聴こえる笑い声。
女たちがトランプの技を見て笑っている――
赤ん坊が誰かの感触を求めている。
ママに触れたいの?
お乳は出なくてもいい。でもお母さんの胸がほしいの――
どんどん変わる。
世界が。
『カラ、一番最初にカラに出会いたかった!』
あの男があんな風に笑うんだと初めて知った。
誰が?ファクトは知らない。
それが誰なのか――――
でも、たくさんの記憶。
『パパに会えるかな………。
私のいい子、ここではずっといい子にしていてね…。騒いだら大変なの………』
そんな風にそっと呟く誰かを見つめる。
触れていたい、触りたい。
けれど、「時間だ」と離される。その赤ん坊は………
――チコ?
そして――
また誰かの声がする。
整然と整備された空間。心地よい空調。
「なんでギュグニーなんかから来た子供たちがこんなにも数値がいいんだ?」
「死線を潜り抜けているからか?覚悟が違うんだろ。」
「あんなところ、教育もめちゃくちゃで飢えてるところも多いだろ。」
「それがな、そればかりじゃないんだ。」
「やりたい放題だから、好きに人間を扱ってるんじゃないか?」
出生もはっきりしない。両親も親戚もいない。なのに優秀。規律を守る。そして部分的に怪我をしていたり、体機能に異常がある場合が多い。
ギュグニーから渡ってきた子供たちは、格好の被験体だった。
●ジークアが選んだ世界
『ZEROミッシングリンクⅤ』83 二度目の襲撃と拉致
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