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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
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報復の応酬

 1547年 8月


 織田の三河侵攻が本格的に始まった。織田信秀は、以前まで美濃の斎藤家と争っていたが、度重なる敗戦により、美濃攻めを一時断念。そして今年に入り、標的を美濃から三河へと移したのだ。既に織田信秀の攻撃に屈し、幾つかの支城が織田の手に落ちたとのこと。織田の東三河への圧力は、日に日に増していた。今川としても、織田の三河侵攻をこれ以上許すわけにはいかなかった。

 仮に松平が争いに敗れ、織田に下る事になれば、今川の三河への影響力が大きく下がる。また織田が松平と手を組んで攻め込んでくるとなると、今川に大きな損害が出るのは避けられない。

 つまり、先んずれば国を制す、織田よりも先に松平を押さえる必要があるのだ。そして、松平を押さえる手っ取り早い方法というのが。


 「人質、ですか。何だか物騒ですね」


 「関介殿、人質というのは語弊があるかと。あくまでも、危険な立場にある松平を、今川がお守りする。その上で、大切なご子息を、一時的に今川の方で保護する、という手順を踏んでいるだけです」


 「世間ではそれは、人質と言うような」


 睨まれた。僕は直ぐに口をつぐんだ。別に言い方なんてどうでもいいじゃないか。どうせ雪斎さん、松平家の子どもの事を、政治の駒としか見てないくせに。そんな事を言えば、次は拳が落ちて来るに決まっているので、僕はそれ以上雪斎さんに歯向かうのを止めた。

 雪斎さん風に言えば、松平家の大事な嫡男を今川で保護しておけば、仮に松平が織田に攻めこまれ降伏したとしても、直ぐに今川に反旗を翻すような事は起きないだろうという事だ。ずっと簡単に言えば、裏切れば預かった子供の命は無いぞと、松平を脅しているわけだ。これが人質で無ければ、何というのだろうか。


 「人質の言い方は別として、和尚にしては平和裏に事を進めようとしているではないか。何か心境の変化でもあったのか?」


 「お前は阿呆か。武をもって松平を押さえられるなら、とうの昔にそうしておる」


 雪斎さんは額に手を当て、ため息をついた勢いで言った。ムッとした顔をする承芳さんは「さんざん武力にものを言わせていたではないか」と反論した。雪斎さんは、さらに大きなため息をついた。


 「武力など、一つの選択肢に過ぎない。お前たちは、武力が何でも悪だと思い込みすぎなのだ。よいか阿呆共、武力にも正と悪の両方がある。無益な武力は当然悪だ。だが、結果的に当家に大きな益をもたらす武力は、例えどれだけの兵を失おうが、民草が悲しみに暮れようが、いかなる場合においても正となるのだ。此度の場合、松平を武力で抑えるのは無益だ。だから私は平和裏に松平の支配を進めることにしたのだ。それが分らぬうちは、お前らに戦略も外交も任せられんな」


 手振りを交えて語る雪斎さん。彼の話す内容は、とても合理的で筋が通っているように感じる。だけどやはりと言うべきか、僕と承芳さんの考え方とは大きくずれている。根本的な思想が違うのだろう。雪斎さんは、人の命を数字でしか見れない。

 雪斎さんは満足したように鼻を鳴らすと、さっさと部屋を後にした。僕は承芳さんと顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。


 「正と悪か。そんな簡単に割り切れたら、これほどまで思い悩んどらん。和尚め、言いたい事だけ話しおって」


 「雪斎さんらしいじゃないですか」


 それもそうかと、承芳さんは肩をすくめた。それにしても、松平家の嫡男が来ると言っていたな。どんな子なんだろうか。雪斎さんに教えてもらえたのは、竹千代という名前と、年が五歳であるという事だけだった。なんでも、教育係に自分から名乗り出たらしい。僕も雪斎さんには漢字を教えてもらったことがあるが、すごい厳しかったのを思い出した。五歳の子に雪斎さんが教育係なんてしたら、泣いてしまわないだろうか。心配だ。それでも、雪斎さんから名乗りを上げるという事は、それだけ優秀な子なんだろう。会うのが楽しみだ。


 「保護といっても、実質人質と変わらん。居心地はさぞ悪かろう。蹴鞠でも教えてやろうかな」


 「折角なら、今後当主になるための心構えでも教えてあげればいいんじゃないですか? ふふっ」


 「今馬鹿にしたろ!」


 僕はそっぽを向いて「べっつにー」と笑った。承芳さんが追っかけてきて、僕の腕を掴もうとする。僕はらくらくと躱すと、逃げるように部屋を後にした。後ろで承芳さんの不満げな声が聞こえた。その次に、多恵さんの怒鳴る声が聞こえた。煩くしすぎたみたいだ。まぁ僕の分も怒られればいいさ。竹千代くんか、年は龍坊の五つ下だ。年の近い龍坊がいれば、幾分か寂しさも紛れるだろう。また騒がしくなるだろうな。


 だけど、事態は急な展開を迎える事となった。それは誰も予想できなかった、それこそ雪斎さんでさえも。

 承芳さんに呼ばれて彼の自室に向かった。部屋につくと、難しそうな顔を浮かべる承芳さんと、落ち着きなく部屋の中を歩き回る雪斎さんの姿があった。椅子につまずいた雪斎さんは、その椅子を思い切り蹴り上げた。イライラしているのは分かったから、物に当たらないで欲しい。雪斎さんに八つ当たりされてもいやなので、僕は息を殺して承芳さんのもとへ駆け寄った。


 「雪斎さん、すごく荒れてますね。何があったんですか?」


 「戸田康光が裏切った」


 「へっ?」


 素っ頓狂な声が漏れてしまった。戸田といえば、去年滅ぼした今橋城主が確か戸田宣成だったはず。そして戸田康光は、渥美半島一帯を支配する国人領主だ。今橋城攻めを契機に、戸田一族は今川に下ったはず。だからこそ、今回竹千代くんの護送を、戸田康光に任せたのだ。


 「裏切ったというのは、織田にですか?」


 「そうだ。恐らく事前に織田と内通していたのだろう。岡崎を発った後、渥美から船で今川の領地まで連れて来る手はずだったが、竹千代を乗せた船はそのまま織田の領地へ向かったそうだ。今頃、竹千代は織田信秀の手中にある。織田に先んじた心算が、逆に織田にしてやられたという訳だ」


 悔しそうに唇を噛む承芳さん。僕は承芳さんの肩にかける言葉が見つからなかった。それに僕の中にも悔しい気持ちが湧いてきた。戸田康光が今川を裏切った事ではない。僅か五歳の子どもを、まるで道具のようにあっちへこっちへ人質に出す戦国の常識にだ。思えば、承芳さんに嫁いだ多恵さんもまた、人質のようなものだった。この時代の女性や子供は、男たちにとって外交のための駒でしかないのか。本当ならば、竹千代くんはお父さんである広忠さんから愛情をたっぷり受け、立派に松平家を継いだに違いない。広忠さんだって、好きで人質に出すわけじゃないはずだ。それでも家を守るためなら、愛する息子を人質に差し出すしかない。改めて、戦国時代の常識に嫌気がさす。


 「承芳、分かっておるな。こうなれば、戸田を徹底的に滅ぼす。今川をこけにしたことを、地獄で後悔させてくれる」


 地獄で後悔させる。お坊さんとは思えない発言だ。というか、普通の人の発言だとしてもあまりに物騒すぎる。雪斎さんは、今すぐにでも攻め滅ぼそうと息巻いている。


 「和尚、それでは報復の応酬が続くだけだ」


 「そうだ、戦など所詮禍根から始まる負の連鎖だ。敵対さえしなければ、戦など起こりえるはずも無いのだからな。戸田康光が、以前の今橋城攻めの禍根を引きずっているのならば、我らの手で戸田康光を滅ぼし、その禍根を完全に断つほか無いのだ」


 「元は、和尚が武力で今橋城を攻め滅ぼしたのが始まりだろう! 今の和尚の理屈は、詭弁にすぎん」


 「詭弁で結構だ。乱世の世に、正論など全く役に立たぬ。お前は正論を語るために当主をしているのか? 違うだろう、今川を強く平和な国にするために当主になったのだろう? ならば、詭弁でも何でも、目の前の敵は滅ぼさねばならんのだ」


 二人の火花の散る言い争いを、僕は黙って見守るだけだった。承芳さんの肩を持つのは当たり前だ。だけど、雪斎さんの言い分の方が、乱世の世においては正しいように感じてしまう。人質とか裏切りとか、全ては家を守るため。家を守るという事は、統治する国を守るという事なのだ。

 重たい沈黙が数分続き、最初に根負けしたのは承芳さんだった。雪斎さんから目線を切り、俯きがちに吐き捨てるように言った。


 「戸田康光は滅ぼす。だが、今の和尚のやり方では、より多くの血を流し、多くの敵を作る事になる。私は私のやり方を模索するさ。和尚が納得するやり方を」


 「そうか、お前の気概がどんなものか、楽しみに待っておるぞ。それまで戦は私に任せておけ」


 雪斎さんは、部屋を後にする直前に足を止めた。こちらを振り返ることなく言った。


 「私とて、無辜の民が血を流す事を良しとしているわけでは無い。犠牲は減らせるに越したことはないのだからな」


 雪斎さんは廊下の方へ歩いていき、直ぐに背中が見えなくなった。承芳さんはその場にしゃがみ込み、大きなため息をついた。承芳さんの肩に、疲労感が見てとれた。


 「和尚の方が、よほど駿府の平和を願っておる。私はただ、目の前で傷つく者の姿を見たくないだけ、逃げているだけなのかもしれないな」


 承芳さんの寂しげな呟き声が、部屋の中にこだました。最近、承芳さんの落ち込んだ姿ばかり見ている気がする。自分が今川家の当主に相応しいのか、ずっと不安に思っているのだろう。自問自答を繰り返し、自信を無くしているのだろう。

 僕は承芳さんの背中に近寄り、そっと肩に手を置いた。そして思い切り腕を振り上げ、右肩目掛けて腕を振り下ろした。べちんと低い音に続き、承芳さんの叫び声が響いた。


 「急に何をするのだ!」


 「いやぁ、承芳さんを元気づけようと思って。やり過ぎました?」


 当たり前だろと、頬を膨らませて文句を垂れる承芳さん。少しは元気を取り戻しただろうか。

 すると後ろの障子が思い切り開けられ、頬を紅潮させた多恵さんが現れた。ただ彼女の視線はジトっと冷たかった。


 「二人ともうるさいのだけど。それと、どうしていつも貴方たちは、この部屋で話し合いをするの? その度に私は追い出されて」


 くどくど文句を並べる多恵さん。まずい、このままヒートアップすると、僕も巻き添えを喰らってしまう。僕は不意に妙案を思いつき、多恵さんに向かって笑顔で言った。


 「多恵さん、承芳さんなんだけどね、最近元気がないみたいなんだ。何か元気を取り戻すような薬は無いかな?」


 「私を売る気か!?」とツッコむ承芳さんは無視する。多恵さんは少し考えこむと、ああと思い出したように、部屋の箪笥の中をゴソゴソと探し始めた。黙って見守っていると、あったと弾むような声が聞こえた。多恵さんが見せてくれたのは、紙に包まれた謎の黒い塊だった。


 「これはね、甲斐にいたころ読んだ書物に記されていた丸薬を作ってみたの。生気の無かった人が、飲んだとたんに息を吹き返したと伝えられているの」


 多恵さんが持つ丸薬は、綺麗に押し固められて、幼稚園の時に作った泥団子みたいだ。ただ問題は色だった。


 「あの、多恵。それを飲むというのか?」


 「それは、丸薬だから当たり前なのだけど」


 不思議そうに首を傾げる多恵さん。承芳さんが言いたいのは、多恵さんが持っているものがまるで薬とは思えない色をしているという事だろう。黒色の丸い物体だけど、よく見ると茶色い根っこの欠片のようなものや、緑色の謎の葉っぱなどが混ぜられていた。分かりやすく言うと、その辺の泥を固めたみたいな色合いだった。それこそ、子供が作った泥団子と言われても、なんら不思議に思わないだろう。


 「ちなみに聞くが、その丸薬には何が入っているんだ?」


 「ええと、桜の木の根、どくだみ、後は猪と鹿、それから馬の臓腑。ああ忘れてた、馬の糞を溶かして混ぜてるわ」


 多恵さんは、何処か楽しそうに指を折って数えている。僕と承芳さんの顔が、みるみるうちに青ざめていく。僕は今すぐにでも逃げる準備を始めた。


 「多恵はその丸薬は飲んだことがあるのか?」


 「…………私はいいの」


 多恵さんはふいと目を逸らした。うわこの人、その丸薬がやばいことに薄々気づいていながら、承芳さんに飲ませようとしてるよ。多恵さんがじりじりと近寄る。多恵さんの表情には、無言の圧力がある。観念した承芳さんは、丸薬を受け取り顔に近づけた。その瞬間、見た事ない渋い顔になった。相当臭かったんだろう。今すぐ逃げ出したいけど、承芳さんが丸薬を飲むところを見てみたい。その好奇心がいけなかった。


 「ああそういえば、丸薬は二つあるから、貴方もどうぞ」


 多恵さんがもう一つの丸薬を僕に手渡した。呆然とする僕に、多恵さんはジトっとした目を向ける。はやく飲めという顔をしている。こんなことになるなら、さっさと部屋を出ればよかった。ただ後悔しても、掌の丸薬が無くなるわけでは無い。


 「腹を括るぞ、関介」


 「はい、承芳さん。せーので飲みましょう。せーの」


 二人同時に丸薬を口に放り込む。その瞬間、二人同時に廊下へ走り、縁側から身を乗り出した。胃の中のものが口の中に溢れ、二人並んで吐いた。だいぶ吐いたのに、まだ胃の中が暴れている。背中でクスクスと笑い声が聞こえる。

 この日は一日中吐き続け、その後布団の中でぐったりとしていた。どこが元気の出る丸薬だよと、心の中で悪態をついた。ただ次の日になると、噓のように吐き気も引いていた。それどころか、不思議と元気が湧いてくる。どうやら、承芳さんも同じらしい。民間伝承も案外馬鹿に出来ないものだ。ただそれでも、二度と怪しい丸薬には手を出すまいと、承芳さんと心に決めたのだった。

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