疑いの果てに
1547年 7月
縁側で足を投げ出し、ぼーっと外を眺めている承芳さんを見つけ、僕は静かに隣に腰掛けた。承芳さんは僕の存在に気が付いたようだが、何も言わずご自慢の庭園を眺めるだけだった。ちょっとした対抗心から、僕も同じように何も言わないでいた。二羽のメジロが、肩を寄せ合って枝の先にとまっていた。
七夕のイベントが行われたのも随分前に感じる。同じ七月のはずなのに、その時よりも今日はひどく暑かった。暦上では秋らしいが、照り付ける太陽といい、吹き抜ける熱を帯びた風といい夏真っ盛りだった。
短冊には、今年一年戦が起きませんようにと書いた。僕の隣にぶら下がった短冊には、同じように戦の無い世とだけ書かれていた。書いたのは承芳さんだった。嬉しい気持ちと同時に、願っても叶わない戦国の無情さに、やりきれない思いを抱いた。
「関介、今川はこのまま戦を続けてもよいのだろうか。どこかで限界が来るのではないかと、私は思わずにはいられないのだ」
「そんな事、僕に聞かれても分かんないですよ」
そうかと小さく呟き、承芳さんは下を向きため息を溢した。ちらっと横目で見る。承芳さんの表情にはかなり疲労が見えた。去年は戸田宣成の立て籠もる今橋城を攻め滅ぼした。そのせいもあり、同じ戸田家で、渥美一帯を支配する当主康光さんとの関係にも若干の軋轢が生まれてしまった。今は服属の関係にあるらしいが、人の気持ちだけはどうにもならないと承芳さんは愚痴っていた。承芳さんがその旨を雪斎さんに相談すると、仮に反乱を起こせば滅ぼすだけだと笑っていたそうだ。
実は同じような出来事が三年前にもあった。遠江の井伊谷地方を支配する井伊家との間に起きたとある事件だ。あの事件は、承芳さんの心に大きな傷を作った。僕も思い出したくない事件だ。問題の始まりは、井伊家家老の小野政直さんによる報告だった。
三年前のある冬の日、僕は稽古の指導をしていた。承芳さんが慌てた様子で道場に入ってきたからよく覚えている。草履を履いたまま道場の中に入ってきた承芳さんは、僕が注意するのも聞かず、腕を引っ張って道場の外へと引きずった。
「関介、直ぐに来てくれ! お前の意見が聞きたいんだ」
およそ意見を聞きに来た人とは思えない態度だった。承芳さんの勢いに押され、ポカンとする教え子たちを置いて、僕は仕方なく承芳さんについていく事にした。僕の意見を求めるなんて、どうせろくな話でもないんだろうと思っていたが、今思えば嫌々ながらもついて行って正解だった。承芳さんはこの頃から、僕の知らないところで色々な苦労を抱えていたのだ。のしかかる責任のはけ口が欲しかったはずだ。
承芳さんに連れてこられた部屋には、既に雪斎さんと関口親永さんの二人の姿があった。雪斎さんはともかく、親永さんがいるのは意外に思った。雪斎さんと一緒の部屋だからか、少し強張った表情の親永さん。僕の顔を見ると、ふっと笑顔を見せ軽く手を上げた。僕もぺこっと頭を下げて挨拶を返した。
親永さんは僕の二つ上で、とても優しく面倒見が良いお兄さんだ。この前は関口さん夫妻とその娘さん、そして稲穂さんと一緒にお出かけをした。瀬名という名の娘さん、少し気が強いところもあるが、かんすけと呼び捨てで呼ぶところがすごく可愛い。将来はもっと美人さんになるだろう。僕の養子になんて、まぁそれはまた先の話ということで。
話がそれたが、僕の顔を見た雪斎さんは、訝し気な表情で承芳さんに尋ねた。
「なんだ承芳、関介殿なんぞを連れてきてどうする気だ?」
すごい失礼な事を言われた。
「いや、関介にも意見を聞こうと、なあ親永殿」
突然話をふられた親永さんは、しどろもどろになりながら、ええそうですねと相槌を打った。つまるところ、僕を呼んだ理由など無いという訳だ。額を押さえため息を溢す雪斎さんは、承芳さんを悩ますある出来事について話してくれた。
先日今川館を訪ねてきたのが、井伊家家老の小野政直さんだった。政直さんが口にした内容を聞き、承芳さんは思わず頭を抱えたという。
「井伊家当主、井伊直平が次男井伊直満、また三男井伊直義に逆心あり」
まさに青天の霹靂とはこのことだった。三年前は北条さんに河東を奪われたままの時期で、まだ内政を固める事ができていなかった。その隙をついた武田さんが遠江に圧力をかけ始めていたのだ。今川に服属する井伊家は、何度か今川に助力を求めていた。ただ今川も北条さん相手に手いっぱいで、それどころではなかった。
政直さんいわく、武田に対して消極的な姿勢を見せる今川に不満を持った井伊直満さんと井伊直義さんが、今川から離反し武田さんと繋がろうと画策していたらしい。
遠江を手にした武田さんが、そのままの勢いで今川に攻め込んでくることは無いだろう。だが遠江の所領を丸々武田さんのものにされるのは、今川にとって許されたことではなかった。また、東に北条さんという強大な敵がいながら、井伊家と争うほどの余裕は、当時の今川には無かった。
「もし政直の言い分が正しいとすれば、井伊直満と井伊直義の粛清が必要になる」
雪斎さんがそう断言すると、部屋の中の空気が一気に重たくなった。親永さんは顔を青ざめ、今にも泣きだしてしまいそうな表情を浮かべていた。
「でも、どうして親永さんだけ呼んだんです? 親綱さんとか、朝比奈泰能さんも呼んだ方が」
「ああそうか、関介殿は知らないのか。親永殿の妻は、井伊直平の娘だ。いわば、井伊家と今川を繋ぐ重要な楔なのだ」
再び親永さんの顔を見る。目が合うと小さく頷いた。なるほど政略結婚か。ただ井伊家は今川の服属だ。多恵さんとは違い、井伊家にとっては人質に近い存在なのか。
雪斎さんは、それを分かっていながら親永さんを呼んだのか。いや、だからこそこの場に呼んだのだ。
「雪斎さんは、井伊家と繋がりのある親永さんに、二人の処遇を決めろと言いたいんですか?」
少し語気が強くなってしまった。だが親永さんの悲壮な顔を見たら、肩を持ってあげたくもなる。すると雪斎さんは、一瞬キョトンとした顔をしてから、咳ばらいを一つして話し始めた。
「親永殿にそんな事をさせるわけが無いではありませんか。私はただ、親永殿が逆臣の二人と手を組んでいないか、問い詰めていただけですぞ?」
雪斎さんの言葉に、僕の方がポカンとなってしまった。横から親永さんが、こそっと話してくれた。
「私も妻も、覚悟はできています。義元殿に忠誠を誓っていますから。仮に義父のいる井伊家と戦になったとしても、私は命を懸けて今川の為に戦います」
これは後から聞いたのだが、この時親永さんがとても泣きそうな顔をしていたのは、雪斎さんの尋問がとても厳しかったからだそうだ。また疑われるほど、普段の働きぶりが足りないのかとショックを受けたとの事だった。また奥さんは、人質に出した井伊家を恨んでいるようで、思い入れもそれほどないのだと。ドライな戦国の常識に、改めてショックを受けてしまった。
親永さんより思いつめていたのは、むしろ承芳さんの方だった。どうやら、粛清は承芳さんが決定しろと、雪斎さんから強く言われたらしい。粛清とは、つまり現代で言う死刑を下すという事だ。それも服属とはいえ仲間をだ。
「承芳よ、改めて言うが、乱世の世において情けは無用だ。というのに、関介殿などと甘すぎる男を連れてきおって」
まあた失礼な事を言う雪斎さん。親永さんも苦笑いだ。
承芳さんは、難しそうな顔をしてむぅと唸った。
「和尚よ、政直殿の言い分は、誠に正しいと思うか? 親永殿にも聞きたい、二人は誠に逆心を持つような者たちなのか? それが確かにならない以上、一方の言い分を聞かずして私は決めたくないのだ」
「どうせそれは、己の手を汚したくないからだろう?」
「違う! ただ私は、正しき事をしようとしているだけだ!」
「では、二人の言い分を聞き、お前が決定するがよい」
厳しい口調で言い放った雪斎さんは、そのまま部屋を後にした。部屋の中には、重たい沈黙が流れた。承芳さんは難しい顔で俯いたまま、何も喋らなかった。不意に親永さんが承芳さんの傍によると、背中をポンと叩いた。
「義元殿、私はどのような決断を下そうと義元殿の味方にございます。では」
そう言い、親永さんも部屋を後にした。僕と承芳さんだけが残されてしまった。何とも気まずい。僕も二人と同じように外へ出ようとしたところ、肩を掴まれてしまった。
「関介も決定の場に来てくれるよな?」
目を潤ませながらお願いするのはずるい。僕はため息を溢しながら、頷いたのだった。
次の月、謀反の嫌疑をかけられた二人が今川館に到着した。二人が座る予定の椅子の正面に、僕と承芳さん、そして雪斎さんと親永さんが座っている。そして告発した小野政直さんが、僕から見て右手側に座っている。みな神妙な面持ちで、一言も喋ろうともしなかった。広間に重たい空気が沈殿した。二人はそんな空気の中、足に重りでも括りつけられているかのような足取りで、僕らの前に姿を見せた。
「これより、井伊直満、直義の処遇について決定を下す。だがその前に、二人の話を聞きたい」
承芳さんが言い終えると、直ぐに直満さんが前のめりにして話し始めた。
「義元様! 我らに謀反の企みなどありませぬ! 全ては、小野の讒言にございます!」
名指しされた小野政直さんは、余裕そうに鼻を鳴らすと、懐から何枚かの文を取り出した。二人はそれを不思議そうに見つめた。
「お二人方、これに見覚えがありませぬか?」
「いや、私には何とも」
「おやおや、それはおかしいですな。それでは読みあげましょうか。これは直平殿が、武田晴信様へと当てた書状のようですな」
その瞬間、二人は椅子からお尻を浮かせ、目を見開いて政直さんを見つめた。周りの護衛兵たちが、取り押さえる準備を始めた。
「小野殿、待たれよ! そんな書状、私には見当もありませぬ!」
広間に直満さんの怒号が響いた。それを受けて、承芳さんは冷静な声で言った。
「小野殿、直満殿はそう言っておられるが? それに、晴信殿に当てた書状を何故其方が持っているのだ?」
「直満殿が武田と内通していることを察知した私が、部下に証拠を押さえるよう指示したところ、かような書状が見つかった所存にございます」
政直さんはいたって余裕そうに答えた。書状は承芳さんの手に渡り、僕もその内容を見せてもらった。その内容は、まさに政直さんが言うように、直満さんが晴信くんへ服属するという事を伝えるものだった。これは動かぬ証拠というやつだ。
承芳さんの表情を見て、僕は思わず小さく声を上げてしまった。今まで見た事の無い、冷たい視線を、直満さんと直義さんに向けていたのだった。
「これはどう言い訳する心算かな、直満殿、直義殿」
承芳さんの冷たい言葉に、二人は押し黙るしかなかった。この時の承芳さんは、まるで何かに憑りつかれているかのように、普段とは別人に見えた。
「決定する、逆臣である直満、並びに直義は直ちに斬首刑に処する」
承芳さんが言い終えると、脇で準備していた兵士たちが、一斉に二人を取り囲んだ。逃げ出そうともがく二人を、何人もの兵士で羽交い絞めにした。
「義元様、信じて下され! 義元様!」
「殺せ」
ゴトンと音がして、二つの首が僕の目の前に転がった。実は僕のこの日の記憶はここまでだった。その場にいた親永さんの話によると、僕は斬首が行われて直ぐにその場から駆けだし、近くの茂みで泣きながら嘔吐していたらしい。優しく背中を撫でられた感触だけ残っていたのだが、どうやらそれは親永さんだったらしい。
僕の記憶の続きは、次の日に布団の中で目を覚ましたところから始まった。急いで承芳さんの部屋へ向かうと、全面の障子が閉められており、中から承芳さんと雪斎さんの話し声が聞こえた。重要な話の途中だと思い、僕は障子に耳を当て盗み聞く事にした。
「これが求めていた答えか、和尚」
「そうだな、お前は正しい決断を下した」
もちろん話題は昨日の出来事についてだった。
「のう承芳よ、あの書状を見て二人の謀反を確信したのだな?」
「そうだが、何か言いたいようだな」
「いや、別に。お前がそう思ったのならそれでよいのだ」
立ち上がる音が聞こえ、慌ててその場から離れようとすると、勢いよく障子が開いた。目の前の雪斎さんと目が合った。僕が苦笑いを浮かべると、雪斎さんは僕に一瞥もくれることなく、廊下の奥へ歩いていった。
廊下の角に差し掛かった時、雪斎さんは足を止め前を向いたまま言った。
「あれは小野の作った偽の書状だ。お前は、小野の讒言に欺かれたのだ。だが結果を見よ。井伊は我らに抗う力を無くし、遠江は確実に我らの物となった。結果的には、全て上手くいったのだ」
それだけ言うと、雪斎さんは廊下の奥へ姿を消してしまった。何という男だろう。信じられない気持ちで、雪斎さんの背中を見送った。
不意に部屋の中から、耳をつんざくような慟哭が聞こえた。それは承芳さんの、言葉にならない叫び声だった。
畳に伏し頭を抱えたまま、承芳さんは泣き崩れていた。
「承芳さん」
名前を呼ぶのが精一杯だった。僕は承芳さんの背中をさすりながら、ポロポロと涙を溢す事しか出来なかった。承芳さんはこの時、重たすぎる荷物で押し潰されてしまった。承芳さんの荷物を半分こにすると、いつの日か約束したはずなのに。僕はまた見つめる事しか出来なかったのだ。この日の無力感は、今でも鮮明に覚えている。
目を開けると、外の景色はすっかりオレンジ色に染まっていた。僕はいつの間にか縁側で寝てしまっていたらしい。ふと右肩が重たいと感じ隣を見ると、承芳さんがすうすうと寝息を立てていた。僕らは肩を寄せ合って、二人して寝ていたらしい。一枚の毛布が掛けられていた。多分多恵さんか、稲穂さんだろう。
嫌な記憶を夢に見てしまっていたらしい。頬に冷たい涙がつたった。胸の中に熱いものが溢れた。まずいと思った時には、溢れる涙を止めることが出来なかった。あの日の承芳さんの泣き叫ぶ声を思い出すたびに、胸を締め付けられる痛みに襲われる。優しい夕日に包まれながら、僕は肩を震わせ続けた。




