三河侵攻
1546年 11月
宿敵である北条との長い戦に、一段落ついたのが約一年前の事だった。晴信くん、そして氏康さんと直接顔を合わせ講和を結んだのだ。僕はてっきり、長く続いた戦に終止符を打ち、平穏を取り戻すための講和だと思っていたのだが、それはあまりに楽観的な考えだった。僕の知らないところで、次なる戦の準備が着々と進んでいたのだ。
北条は僕らと講和を結ぶやいなや直ちに関東へ戻り、上杉足利連合軍を河越城で打ち破った。今や関東全域は、ほぼ北条が手中に収めたといっても過言では無いとの事だった。
武田さんも、長年敵対していた北条と手を結び、後方の憂いを断った事で、安心して信濃に侵攻する事ができるという。
みんなそんなに戦争がしたいのか。僕は戦争なんてこれっぽっちもしたくない。だけど、そうも言っていられないのが乱世の常識だった。戦が終われば、次の戦が待っている。
この日雪斎さんに呼ばれ広間へ行くと、既に長机の上に地図を広げ、多くの家臣さんたちが作戦会議を始めていた。僕はみんなの邪魔にならないよう、部屋の隅をそっと移動する。部屋の奥でふかふかの座布団に座り込み、こっくりと舟を漕いでいる呑気な男の頭を軽く小突いた。男は慌てたように頭を振り、顎に手を置いてさも考えているかのような仕草を見せるも、僕の顔を見るやふっと相好を崩した。
「なんだ関介か、驚かすなよ。和尚かと思って、心臓が飛び出すところだったぞ」
「はぁ、当主が作戦そっちのけでうたた寝ですか。呑気なものですね。一度雪斎さんに大目玉を喰らえばいいのに」
僕が言うと、そんな怖い事を言うなと頬を膨らませた。が直ぐに表情を緩めると、まあ座れと隣の座布団をポンポンと叩いた。
二人肩を並べて、部屋の中の喧騒を眺めた。慌ただしく漂っているのは、戦争が始まる直前の気持ちの悪い緊張感だった。僕の僅かな肩の震えに気が付いたのか、承芳さんが僕の頭を優しく撫でた。子供じゃないのに、だけど今はそれが堪らなく心地よかった。
「私だって戦など御免だ。北条との戦で、どれだけの血が流れ、悲しみに暮れる人で溢れたか。この目で見て、戦など永劫に無くなればと、改めて思ったさ」
僕も同じ思いだった。だけど戦の熱に浮かされた家臣の皆には、承芳さんの声は届かない。
「お前たちは既に屍の道を歩んでおる。歩みを止めれば呑まれるだけだ。戦乱の世に、理想を語る暇などない」
雪斎さんの声だ。振り返ると、鋭い視線を僕らに向ける雪斎さんが立っていた。承芳さんの瞳も、同じように鋭かった。煩かったはずの周りの音が段々と遠ざかっていき、無音の世界に飲み込まれていくような感覚に襲われる。
承芳さんは静かに、そして力強く言葉を紡いだ。
「私はそれでも理想を夢見るさ。その道のりがいかに険しくとも、私は辿り着かなければならないんだ」
「これまで以上に多くの血が流れ、悲しみに沈む民も増えるだろう。それでもか?」
承芳さんはふっと笑った。悟ったような、清々しい表情だった。
「関介となら行けるさ」
承芳さんが僕の肩を抱いた。その瞬間、さっきまでの喧騒が嘘みたいに戻ってきた。承芳さんの顔を見ると、へらっといつも通りの笑顔を浮かべた。
雪斎さんは呆れたように手をひらひらと振ると、大仰なため息をついた。
「青臭いな」
それだけ言うと、長机の方へ歩いていった。僕と承芳さんは互いに顔を見合わせ、ぷっと噴き出して笑いあった。いつまでも青いままでいたいと心から思った。
北条さんとの講和によって、東の憂いを断つことができた今川が次に目指すのは、尾張の支配だった。数年前に手痛い敗北を喫した織田の領地である。ただ尾張の東に位置する三河には、未だ松平にも今川にも属さない小国が犇めき合っていた。最終目的が尾張の支配だとすれば、三河全域の支配は、その目標のための重要な布石だった。
三河進出にあたって、目の上のたんこぶといえる障害が、東三河にそびえる今橋城だった。城主の戸田宣成は、当家の事を快く思っておらず、城を明け渡すよう伝えるもこれを拒否し、徹底抗戦の構えを取ったのだった。その報を聞いた雪斎さんは、舌なめずりをして不気味に笑った。
作戦会議を終えた次の日、雪斎さんは朝比奈泰能さんと天野景貫さんを今橋城へ向かわせた。五千を超える兵が城を囲み、落ちるのも時間の問題だと話した。
「戸田宣成め、勝てない戦をしおって。黙って今川に従っておけば良かったものを」
雪斎さんはそう言いながら、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべた。最早どちらが敵か分からない。敵役は最期に成敗されるのが、時代劇の鉄則だ。何もなければいいけど。
承芳さんは、どこか浮かない顔で机の地図を眺めていた。
「それにしても、話しには聞くが北条の河越城での戦は予想外であった。少しでも北条の力が弱まればと思っていたのだが、まさかより力を伸ばす結果になるとは」
悔しそうに爪を噛む雪斎さん。この人、北条さんの事を相当嫌っているようで、河越城での戦の報が届いてからは、度々愚痴ってきたのだ。悪役というか、小物にしか見えないのだが。
僕は最初、北条さんが上杉足利連合軍に勝利したと聞いても、さほど驚きはしなかった。あの強い北条軍なら余裕だと思ったからだ。ただ詳細を聞くと、改めて北条軍の恐ろしさに背筋が凍り付いた。八万の兵を、僅か一万の兵力で打ち破るなんて、まるで映画のような話だ。今川には八万人も動員できる力なんて到底ない。今度こそ全力で北条さんが攻めこんできたら、今川の勝ち目なんてほんの少しも無いだろう。
突然障子が力強く開けられ、伝令兵が部屋の中へ飛び込んできた。その手には一枚の文が大事そうに握られている。受け取った雪斎さんは、文の中身を見てにっと笑うと満足そうに頷いた。
「今橋城が落ちたぞ。城主の戸田宣成も討ち死にとの事だ。これで三河侵攻も容易になりそうだな」
「宣成殿の命まで奪う必要はあったのか?」
嬉しそうに話す雪斎さんに、承芳さんは低い声で尋ねた。聞いた事の無い声だった。
「どういう意味だ?」
「子息を人質に取るなどして、殺さずに従わせる事も出来たはずだ。此度の戦は多くの血を流し、深い禍根を残した結果になったと思うのだが」
「だからお前は考えが甘すぎると何度言えば」
「違う! 私は現実的な話をしているのだ! 武による支配は、必ずや限界が来る。和尚だって、志半ばで死んだ武田信虎を見ているだろう!」
僕は目を見張った。こんなにも強く雪斎さんに反抗する、承芳さんの姿を始めて見たのだ。叫ぶように言った承芳さんは、顔を真っ赤にしてぜえぜえと肩で息をしていた。呼吸がまだ落ち着かないのか、苦しそうに息を吐いた。
雪斎さんの表情に変化はなかった。承芳さんの叫びを聞いて、雪斎さんが何を思っているのか、その表情からは何も読み取れなかった。ただじっと承芳さんの顔を見つめるだけだった。
静まり返る部屋の中で、僕は睨み合いを続ける二人の姿をただ眺める事しか出来なかった。だけど、今すぐに承芳さんの元へ駆け寄りたくて仕方がなかった。心の中に広がるもやもやを、承芳さんが言葉にして雪斎さんにぶつけてくれた。そんな承芳さんが格好よかった。そして、何も言えないでいる自分が情けなかった。
「ふんっ、既に終わった事だ。我らは三河の平定を目指す。武をもってしてな」
それだけ吐き捨てるように言った雪斎さんは、大股で部屋を出ていった。再び部屋の中に沈黙が訪れた。
承芳さんは、力を無くしたようにその場にしゃがみ込んだ。僕が駆け寄ると、力ない笑みを浮かべた。
「はぁ、緊張したぁ。和尚にあれだけ啖呵を切ったのも初めてで、まだ震えが止まらないんだ」
そう言った承芳さんの肩はぶるぶると震えていた。僕は咄嗟に承芳さんの両肩に手を置き、彼の目をじっと見つめた。
「立派でしたよ承芳さんは。きっと雪斎さんにも届いているはずです」
言い終えると、僕はふっと笑いかけた。一瞬キョトンとした承芳さんも、ほろっと微笑むとありがとうと呟いた。
刻一刻と変化していく激動の戦乱の世の中でも、承芳さんだけは変わらないでいてくれると確信している。
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