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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
82/83

痴話喧嘩

 1546年 5月


 「皐月は雨が多くて嫌だなぁ。外で蹴鞠も出来ないし、かといって部屋の中で詩歌を嗜む気にもならんし」


 僕の隣でゴロゴロと転がっている男は、外を眺めてさっきからずっと同じことを呟いている。どうせ僕の気を引きたいのだろう。僕は男の言葉をわざと無視して、目の前の紙と右手に握った筆に集中する。

 僕が無視を続けている事に腹を立てたのか、ゴロゴロと僕のわき腹目掛けてぶつかってきた。机と紙の上に墨汁がぴゃっと飛んでしまった。僕は大きなため息を溢しながら、一旦筆を硯に置いた。してやったりといった顔で笑う男に向き直り、僕は面倒くさそうに言った。


 「もう、なんですか承芳さん。暇なら多恵さんか雪斎さんのとこにでも行けばいいじゃないですか。というか、自分の仕事は無いんですか?」


 横になっている承芳さんは、僕の言葉に頬を膨らませ、また同じようにゴロゴロし始めた。ああ気が散る。


 「多恵は母上と何処かへ行ってしまった。和尚は、知らん。政務は今日の分は既に終わらせた。暇じゃなかったら関介の部屋で転がったりしない。そんな事も分からんのか、関介のばーか」


 僕は無言で承芳さんを見下ろすと、硯を右手に掴みゆっくりと頭の高さまで振りかぶった。青い顔でぷるぷると首を左右に振る承芳さんの姿を見て、僕は満足して硯を下ろした。畳の上に墨汁が垂れてしまった。後で承芳さんの服で拭かせてもらおう。


 「ったく、僕は漢字の勉強で忙しいんですよ。僕の部屋に居てもいいですから、邪魔だけはしないで下さい」


 「それが漢字か? はははっ、私はてっきり古来の未解読の暗号かと」


 もう一度硯を掴むと、冗談じゃないかと顔の前で手を大きく振った。次は冗談では済ましはしないだろう。

 まあ承芳さんの言う通り、確かに僕の書いた漢字は、自分で見ても歪な暗号にしか見えなかった。反論はできないが、改めて言葉にして言われると腹が立つ。簡単な漢字ならスラスラと書けるようになってきたが、まだまだ難しい文字が多すぎる。


 「漢字なら、私が教えてやろうか?」


 いつのまにか起き上がっていた承芳さんが、胸を張って得意げに言った。


 「ええ、一人でやるからいいですよ。承芳さん馬鹿にするし」


 「ばっ、馬鹿になどしないさ」


 目が泳いでいる。どうやら図星だったようだ。僕は再び大きなため息を溢すと、承芳さんはへらっと笑った。

 ただこんな承芳さんだけど、字が上手なのは事実だった。現代で習字コンクールの作品を見たことがあるけど、承芳さんより上手な漢字は無かったと記憶している。承芳さんが現代に生きていれば、高名な書家として名を残していた事だろう。

 承芳さんは目を輝かせ、教えたくて仕方がないといった様子だ。仕方がない。


 「分かりましたよ承芳さん、漢字を教えて下さい。もし馬鹿にしたら、硯で頭をかち割りますからね」


 「こ、怖い事を言うな。おほんっ、これより関介の漢字の師範を務めるぞ。かの三筆をも越える書家に育ててやるからな」


 一度わざとらしい咳ばらいを挟み、とても楽しそうに宣言した。嫌な予感しかしないけど、まあ厳しい雪斎さんに教わるよりはいいだろう。


 「先ず聞いておけばよかったのだが、今になって関介はどうして漢字の勉強をしているのだ? 誰かに文でも送るのか?」


 「うぐっ、それは。まぁ、一時の気の迷いってやつですよ。ほら、経緯なんてどうでもいいじゃないですか」


 そうかと呟いた承芳さんは、まだ納得していない様子だ。危ない、変なとこで勘が鋭いんだから。

 承芳さんが僕の隣に腰掛けると、軽く肩がぶつかった。窮屈だけど、こうして近くで勉強を習うのなんて久しぶりで少しだけワクワクしてきた。


 「よし、先ずは私が漢字を書くから、関介は後から書くのだぞ。ゆっくりでよい、丁寧に心を込めて書くんだ」


 承芳さんの目の前の紙の上にスラスラと文字が浮かび上がっていく。やはりとても上手な字だ。川の流れるような美しい所作の中に、武士らしい力強さが見える。それは書かれる文字も同じだ。一文字、一文字と出来上がっていく度に、僕は感嘆のため息をついた。


 「詫び状と。どうだ関介、私に倣って書いていけ……って」


 そこで承芳さんは言葉を切った。どうしたんだろうと顔を覗き込むと、承芳さんは筆をおもむろに硯の上に置いた。そうして僕の顔を見ると、呆れたように言った。


 「稲穂殿と喧嘩でもしたのか?」


 何か言おうとして止めた、僕は観念したように首を縦に振った。


 「喧嘩の理由はおおかた予想ができるが、詫び状とは。まさか離縁するなどとは言わんよな」


 僕が黙っていると、今度は承芳さんが僕の顔を覗き込んできた。


 「えっと、その。ぐすっ」


 「えっ、本当?」


 思い出したら、思わず涙が零れてしまった。袖で目元を拭うと、僕はゆっくりと首を横に振った。なんだと安堵の息を吐いた後に、驚かせるなと憤慨する承芳さん。早とちりをしたのはそっちだろう。

 僕は絞り出すように涙交じりの声で言った。


 「離縁まではしない、と思う。でも、三日前にすごい大喧嘩になって。稲穂さんが実家に帰って行っちゃって」


 「なるほど、だからこうして文をしたためていたのか。とんだ面倒くさい所に来てしまったな。では私は帰る」


 立とうとする承芳さんの左肩に手を置いた。ぐっと肩を押したせいで、変な音が聞こえたけど気にしない。


 「そんな水臭い事は言わず、手伝ってくださいよ。承芳さんと多恵さんの痴話喧嘩に散々付き合ってあげたでしょ」


 承芳さんと視線がぶつかる。観念した承芳さんが首を垂れた。僕は承芳さんの頭頂部にニコッと笑いかけた。


 「稲穂さんとの仲直りは、承芳さんの腕にかかってるんですからね」


 「勝手に責任を押し付けるな」


 心底嫌そうな顔をする承芳さんを無視して、僕は雨に濡れる庭園を眺めながら言う。


 「あれは三日前の事です」


 「勝手に話し始めるな」


 「宴会で酔い潰れ、そのまま寝てしまった次の日でした」


 「もう勝手にしろ」


 承芳さんが投げやりに言った。それならと、僕は話を進めた。

 あれは三日前の事。お酒が残ってガンガンする頭を押さえながら顔を上げると、目の前に稲穂さんの顔があった。今思えば、とても冷たい目をしていたような気がするが、当時その事に気が付かない僕はへらっと笑いかけた。


 「おはよ、稲穂さん」


 稲穂さんは何も答えてくれなかった。不思議に思いどうしてだろうと考えているうちに、昨夜の記憶が少しずつ鮮明になっていく。久しぶりに酔い潰れてしまったこと、迎えに来た稲穂さんの表情。背中に嫌な汗が流れる。

 僕が黙っていると、稲穂さんがようやく口を開いた。いつもの温かい声ではなく、背筋が凍えてしまうような、多恵さんみたいな声だった。


 「関介さま、稲穂言いましたよね。金輪際、酔い潰れるまで飲まないでくださいと」


 「ううぅ、ごめんなさい」


 「そうやって前も謝ってましたよ。何度も約束を破る人は信用できません。稲穂は暫く実家に帰らせてもらいます。それでは」


 それだけ言うと、稲穂さんは踵を返して部屋を出ていってしまった。彼女の背中に声を掛けるも、振り返ってくれなかった。僕は布団の中で、ただ茫然とする事しか出来なかった。

 次の日から、まるで生きた心地がしなかった。喜介くんに何とか間に入ってもらえるようお願いするも、既に稲穂さんから、これは夫婦間の問題だから手を出さないようにと声がかかっていたらしい。喜介くんは、直ぐに気が代わりますよと励ましてくれたが、次の日も稲穂さんが部屋に姿を見せる事は無かった。


 「そういう事があって、稲穂さんに謝罪の文を届けたいんですよ」


 僕の話を、承芳さんは時折頷きながらも静かに聞いていた。僕が話し終えると、黙って聞いていた承芳さんが急に眼をかっと見開き、叫ぶように言った。


 「なんだその下らない痴話喧嘩は!」


 「下らないって何ですか、下らないって!」


 僕が反論すると、承芳さんは僕の両頬を手のひらでぐりぐりと押さえながら言った。


 「前にも同じような理由で喧嘩していたではないか。もう忘れたのか? その時もすぐに仲直りしたではないか。それと此度の喧嘩がどう違うか言ってみろ」


 承芳さんの剣幕に押され、僕はううぅとうめき声を漏らすだけで反論できなかった。そんな僕の反応を見て、承芳さんが畳みかけるように言った。ぐりぐりする力が強くてかなり痛い。


 「当ててやろう、どうせもう少しばかり待てば稲穂殿がやって来るであろう。そして稲穂殿が言うのだ、先日は言い過ぎましたとな」


 廊下の奥からペタペタと力ない足音が聞こえた。承芳さんの手の力が緩み、何とか逃げることができた。赤くなった頬をさすっていると、足音の正体が姿を現した。まさかの正体に、僕は思わず承芳さんを見やった。承芳さんはどうだといわんばかりに、腰に手を当てている。

 

 「あの、関介さま。お話がありまして」


 「どうしたの、稲穂さん」


 僕が尋ねると、稲穂さんの瞳がみるみるうちに潤んでいったかと思うと、だっと僕のもとへ駆けてきた。僕が両手を広げると、稲穂さんは胸の中に飛び込み、顔を埋めて泣き始めてしまった。頭をそっと撫でると、おもむろに上目遣いで僕の顔を見つめた。


 「実は関介さまの事で多恵さまに相談したところ、一度冷たく突き放すのもよいのではと助言を頂いたのです。ですが三日間も関介さまと離れて過ごして気づきました。稲穂には関介さまのいない生活など考えられません。先日の稲穂の発言、許していただけないでしょうか」


 目に涙を溜めて、震える声で話す稲穂さん。そんな彼女の姿を見て、僕の答えは一つだけだった。というか、許すも何も僕が一方的に悪いんだけどね。それと、多恵さんはなんて意地の悪い入れ知恵を授けたのだ。本当にあの時の稲穂さんは怖かった。思い出すだけでも、背筋が凍り付いてしまう。


 「稲穂さん。僕が悪いんだから稲穂さんは謝らないでよ。僕も三日間稲穂さんと離れて過ごして、すごく反省したんだ。お酒は控えるようにするから、これからもずっと稲穂さんと一緒に過ごしたいな」


 僕が笑いかけると、稲穂さんも泣きそうな顔で笑った。


 「はあ、下らん痴話喧嘩は収まったようだな。私は自室に戻るから、お前らはそこで一生乳繰り合ってろ。ではな」


 夢中になっていたあまり承芳さんの存在に気が付いていなかったのか、稲穂さんはポカンとした表情を浮かべた後、ぽっと頬を赤く染めた。まあ仲直りは出来たわけだし、これで承芳さんも用済みだ。心の中にある小さな感謝の気持ちを込め手をひらひらと振ると、承芳さんはべえっと舌を出した。

 部屋を出て廊下を歩きだそうとした瞬間、冷たい声に承芳さんの動きが凍り付いた。それは承芳さんがよく耳にするであろう、多恵さんの声だった。


 「貴方、こんなとこににいたのね。すごく探したのだけど。まぁ取り合えず部屋に入って、廊下は雨でぬれて冷たいの」


 多恵さんの静かな圧に負け、おとなしく部屋の中に戻って来た承芳さん。僕と稲穂さんは、黙って事の成り行きを見守る事にした。

 部屋に入るなり、多恵さんは懐から一枚の長めの紙を取り出した。紙には、金がいくらとか書いてある。恐らく帳簿と思われる。僕には何のことか分からないけど、その帳簿を見た瞬間、みるみるうちに承芳さんの顔が青ざめていったところを見るに、何か重大な事が書かれているのだろう。これは面白くなりそうだ。


 「貴方この間、私にと都から取り寄せた織物、金貨五百枚と言っていた。ならどうして、この帳簿には金貨五枚と書いてあるのかしら。それと、前に買ってくれた茶器も金貨二千枚と言っていたけど、ここには金貨二枚と書いてあるの。どういう事か説明できる?」


 「そそそ、それは……」


 答えに困っている承芳さんに容赦なく詰め寄る多恵さん。承芳さんの息がかかりそうなほど顔を近づけ、多恵さんはいつもの冷たい声で言った。


 「貴方はどれも一級品だと言っていたけど、全部嘘だったの?」


 頬を膨らませ冷たい視線を向ける多恵さん。彼女の圧から逃げるように、承芳さんは僕の顔を見てきた。目が合うと口をパクパクとさせ、助けを求めているのが直ぐに分かった。なるほど仕方がない、僕はニコッと承芳さんに笑いかけると、べえっと舌を見せた。


 「下らない痴話喧嘩には付き合い切れないので」


 僕は稲穂さんの手を引いて、部屋を後にした。背中の方から、承芳さんの困ったような声と、多恵さんの淡々と詰め寄る声が聞こえてきた。思わず忍び笑いが口の隙間から漏れ出る。稲穂さんは意地が悪いですよと言った。僕はそうだねと返事しながら、やっぱり堪えきれず笑い声を上げた。

 振っていた雨もいつの間にか止み、雲間から一筋の光が降り注いでいる。雨降って地固まるとはよく言ったもので、稲穂さんともすっかり仲直りができた。喧嘩なんて下らないくらいが丁度いいのだ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

読んで頂いただけで嬉しいです。

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続きを読んで頂ければ号泣します。

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