端午の節句
1546年 5月
五月の昔の言い方を皐月という。昔というのは、現代から見て昔という事で、僕が生きるこの戦国時代では、五月のことをやはり皐月と呼んでいた。皐月と呼ぶ由来は諸説あるそうで、この時期に田んぼへ植える稲の苗の事を早苗と呼ぶ。そして早苗の早いという字をくっつけて早月と呼び、同じ読みで別の漢字を当てて皐月になったらしい。
そんな事を考えながら僕は、ひざ下まで田んぼに浸かり田植えをする百姓さんたちをぼーっと見つめていた。のどかな昼下がり、小高い丘から緑に映える田んぼを見物するのも、また一興なものだった。なんて偉そうなんだと思われるかもしれないが、これには理由があり、父親の田植えの手伝いをする稲穂さんに呼ばれたからであった。なら一緒に田植えを手伝えばいいじゃないかと思うかもしれないが、今の僕の恰好を見れば誰もが納得するだろう。全身泥だらけで、真っ赤な膝小僧に血が滲んでいる。最初は手伝っていたのだが、何度も転んでいたところ戦力外を伝えられたのだ。
「関介様、膝の痛みは引きましたか?」
頭の上から稲穂さんの優しい声が聞こえた。彼女の柔らかな声だけで、擦りむいた傷の痛みもすっかりと消えてしまう。という事は流石に無いが、沈んでいた心に染み渡り、少しだけ和らいだ。
顔を上げると、初夏の爽やかな風のような笑顔を見せる稲穂さんが立っていた。膝を折って視線の高さまでしゃがむと、僕の膝を優しく撫でた。
「心配してくれてありがと。でも僕は大丈夫だよ。それよりも、苗をいくつもダメにしちゃってごめんね」
稲穂さんは首を左右に振り、ニコッと笑いかけた。
「そんな事。それよりも、関介様に大事がなくてよかったです。ふふっ、関介様のお顔、泥だらけですよ」
そう言って、湿った布で僕の顔をわしゃわしゃと拭いてくれた。それから稲穂さんは僕の隣に腰掛け、一緒になって田んぼを眺めた。稲穂さんが手を振ると、振り返す男性の姿が。稲穂さんのお父さんだ。僕にとってはお義父さんだ。僕も慌てて頭を下げると、稲穂さんがふっと笑った。
「そんなかしこまらなくても。お父様は関介様に大変感謝しているんです、これくらいの事では嫌いになりませんよ」
「それならいいけど」
「今私たちが平和に暮らせるのも、関介様たちが命を懸けて戦ってくれたおかげです。見てください、こののどかな風景を、みなさんの幸せそうな笑顔を。関介様たちが繋いでくれた平和です」
僕の視界に広がるのは、平和な田園で、そこで作業する人たちはみんな笑顔だった。少し前に、大きな戦があった。沢山の血が流れ、田畑は荒れ、みんな泣いていた。駿府は今、平和だった。
「みんなで繋いだ平和か。そうだね。でも、稲穂さんもその中にいるんだよ」
稲穂さんが僕の顔を見つめる。一瞬目を見開き、ほろっと顔を綻ばせた。
「そう、ですね。私たちの繋いだ平和ですね」
僕が頷くと、稲穂さんも嬉しそうに頷いた。
「館に戻ろっか」
「はい、戻りましょう。私たちの家に」
皐月の空に点々と白い雲が浮かんでいる。青と白のコントラストが綺麗で、思わず見入ってしまう。こんな風に空を眺めて美しいと思える、そんな平和な日々が続けばいいと思えた。
今日は五月五日。何の日かと問われれば、以前までならこどもの日と即答していただろう。だが戦国の時代に休日などあるはずもない。そのため、今日が何の日かと問われれば、今の僕なら間違いなく端午の節句と答えるだろう。
行事大好き今川館において、端午の節句の今日も例に漏れず、館のあちこちに飾り付けがなされていた。その一つが、承芳さんのお部屋の五月人形と兜の飾りだった。
「この兜かっこいいですね。でもこの人形の顔……どこかで見たことがあるような」
勇ましい表情で刀を握る五月人形の顔、何処かで見たことがあるような。僕が視線を横に向けると、誇らしげに胸を張る承芳さんと、額に手を当てため息を溢す多恵さんの姿が見えた。まさか。五月人形の顔をもう一度よく見る。そして次に承芳さんの顔をジッと見つめる。
「気がづいたか関介。この人形はな、職人に頼み私の顔に似せて作ってもらったんだ。ふっふっふっ、どうだ羨ましいだろう」
「いいえ全然。はぁ、まぁたくだらない事を」
思わずため息が出てしまった。多恵さんも全く同じ気分だったのだろう。というか、自分の顔を模した人形だなんて、僕だったら恥ずかしくて見てられないよ。
「関介のも作ってもらうか?」
「いいえお構いなく。それに僕には子供がいないので、五月飾りは不要です」
ああと納得した承芳さんは、すまんなと手を合わせた。僕と稲穂さんの間に子供はまだいない。夜の営みはそれなりにあるのだが、子宝にはいまだ恵まれていない。稲穂さんはその方が気軽ですと言うけど、内心きっと子供が欲しいと思ってるに違いない。稲穂さんのためにも精を出さねば。
「その人形、見てると不思議と腹が立ってくるの。きっと阿呆面をしているからね。明日になったら燃やして捨てるから、眺めるなら今の内」
多恵さんが淡々とした口調で言い放った。ただその表情は、目の前にくさやでも吊るされているのではと思うほどに歪んでいた。相当嫌なんだろうな。承芳さんは待ってくれと懇願しているけど、あの顔は本気だろう。さようなら承芳さん人形。
それより、ふと部屋の中がいつもより静かだと思ったら、龍坊の姿がないではないか。端午の節句の主役なのだが。そもそも、僕が承芳さんの部屋に来たのも、人形を見るためではなく、龍坊のお祝いだっのだ。僕がキョロキョロ見回していると、気が付いた承芳さんが教えてくれた。
「ああ龍坊なら河原にいるぞ。今から私たちも向かうところだったんだ」
何故にそんなとこに。僕が尋ねると、承芳さんはニヤッと含みのある笑みを浮かべ答えた。
「石合戦だよ」
承芳さんと多恵さんに連れられて、目的地の河原へと向かった。稲穂さんも誘ったが、今日は忙しいとの事で断られてしまった。行事の日は、侍女さんの仕事が大変なんだと。
もう直ぐ河原に付くのだろう、水の音が聞こえてきた。それと同時に、子供たちの元気な声が聞こえた。承芳さんの言った石合戦とやらが行われているのだろうか。石合戦は聞いたことが無い。雪合戦なら分かる。雪が石に変わっただけで、随分と物騒な響きになる。子供たちが硬い石を互いに投げ合う姿を想像してゾッとする。そんな事をしたら、怪我どころではすまない。もっと子供らしい、楽しいイベントだろう。きっとそうだ。
「見えてきたぞ関介、あれが石合戦だ」
僕が見たのは、まさに想像通りの光景だった。東西二つの陣地に分かれ、雪合戦のように互いに石を投げ合っていた。
「ええ、本当に石を投げ合ってるじゃないですか!」
「だから石合戦だって言ってるだろう」
不思議そうに承芳さんが答える。多恵さんも僕の方を、何をいってるのと不思議そうに見つめてくる。この光景を見て驚く僕の感性が間違っているのだろうか。陣地の外では、額から血を流し泣いている少年たちの姿があった。その光景を見て、ズキッと心が痛んだ。
内容はともかく、目の前の石合戦が大いに盛り上がっているのは分かった。そして局面は最終戦といったところだった。二つの陣地合わせて残るは五人。それも四対一と、東側の陣営が圧倒的に劣勢だった。その東側陣営の残りの一人の少年は、僕の見知った子だった。
「龍王丸、負けるで無いぞ! 負けたら罰として厠の掃除と、和尚の精神鍛錬が待ってるからな!」
なんて親だ。一方の多恵さんは心配そうに見ているのだろうと思っていたが、飛び交う石を目で追っては、頬を紅潮させ興奮気味に手を振っていた。武田の血が疼くのだろうか。楽しそうならよかったです。
二人をよそに、僕は龍坊が怪我しないかひやひやしていた。龍坊は中々攻撃に転じることが出来ず、四人から一斉に投げられる石をすんでのところでかわすので精いっぱいだった。防戦一方の状況が続いた。
ふと陣地の外で、ぼおっと石合戦を見つめる少女が見えた。何度か見ただけだが、確か龍坊の妹だ。名前は、そうだ確かまつといったか。龍坊の三つ下だから、今年で五歳になる。多恵さんに似て色白で端麗な容姿をしている。きっと大人になれば、もっとすごい美女になるのだろう。
「龍王丸! 避けてばかりでは勝てないぞ!」
「承芳さん、そんな事言われなくても、龍坊も分かってると思いますけど」
ぼくがそっと伝えるも、全く耳に入っていない。こりゃだめだ。諦めて石合戦の行方を眺めることにした。状況は変わらず、龍坊の防戦一方だ。
だが戦況は少しずつ動いていた。石を投げ続ける四人の動きが、最初よりも明らかに鈍くなっているのだった。一方の龍坊は、まだまだ余裕そうにすいすいと石をかわしている。これなら逆転もあるかもしれない。
龍坊は、石を避けながらも虎視眈々と相手の隙を狙っていた。相手陣営の一人が、石を投げる手を止めた。疲労からか、他の三人に頼ってしまったからか。その大きな隙を、龍坊は見逃さなかった。
「くらえ!」
姿勢を崩しつつ投げた龍坊の石は、投げる手を止めた少年の額に見事命中した。目に当たらなかったのが不幸中の幸いか、額から血がドロドロと流れた。少年は額を押さえながら陣地から抜けた。残りは三人だ。
数では有利だったはずなのに、一人がやられてしまった。ここで奮起し三人で力を合わせれば、余裕で勝てる試合だったかもしれない。だが彼らはまだまだ少年だった。三人の間に動揺が走り、動きがより緩慢になった。これは遊びじゃない。石”合戦”だ。戦は生き物だ。勝てると思っていたはずが、一瞬で形勢逆転されてしまう事がある。そんな恐ろしいものなのだ。龍坊が順番に投げた石が、三人の額に見事命中し、これにて決着となった。拳を突き上げる龍坊の周りに、同じ陣営の少年たちが集まった。まつは少年たちの輪を遠巻きに眺め、ふっと笑顔を見せた。
試合が終わった直後、承芳さんは脱兎のごとく龍坊のもとへ駆けた。多恵さんもその背中を追った。
「やったな龍王丸! それでこそ、私の息子だ! これほど勇敢な武士になって、これで今川家も安泰だな」
「お父上、離れて下され。皆が見ています。それに、勝つことが出来たのも、私一人の力ではございません。皆が相手の数を減らしてくれたからこそ、私が最後に勝負を決められたのです。これは皆の勝利です」
龍坊、精神力まで成長している。隣の多恵さんを見ると、僅かに目が潤んでいた。息子の成長を見て感極まっているのだろう。普段は冷たい多恵さんの意外な姿を見て、こっちまで胸がいっぱいになった。
龍坊の陣営が勝利に沸いている一方、負けてしまった相手陣営は暗く落ち込んでいた。不意に一人の少年の甲高い声が響いた。
「ずっ、ずるいぞお前ら! 当主様の息子だから勝てたんだろ! そうに決まってる!」
子供特有のとんでも論理で、言ってる事はめちゃくちゃだが、手の子の気持ちもわかる。大名の息子相手じゃ、遠慮してしまう事もあるだろう。ただ観戦していた僕らにも分かったが、あの試合で手加減していた子は一人もいなかった。みんな真剣に試合をした結果が、龍坊陣営の勝利だった。
「むぅ、確かに私の父上は今川家当主だ。だが、今日はみな真剣勝負をし、全力を尽くしたはずだ。其方もそうだろう?」
大人な対応をする龍坊の言葉に、少年は何も言い返せなかった。悔しそうに地団太を踏むと、手近な石を掴んだ。まさか。僕らが止めるよりも先に、少年は怒りに任せて石を放った。先の尖った石が宙を舞う。恐らく龍坊を狙ったのだろう石は的から大きくずれ、その向かう先には妹のまつがいた。だめだ、ここからじゃ間に合わない。
額を石が切り裂き、砂利の上に血が滴る。
「いてて、怪我は無いか、まつ」
「あ、あにうえ」
石がまつにぶつかる寸前のところで、龍坊が間に入った。石は龍坊のおでこにぶつかり、血を飛ばして地面に落ちた。額を押さえる兄を目の前に、妹のまつは真っ青な顔で立ち尽くしていた。そんな妹に、龍坊は気丈にも笑顔を向けた。
「龍坊、大丈夫!? 直ぐに手当てしないと」
「母上、私は大丈夫です。それと、その呼び方はお辞めくだされ」
多恵さんは龍坊のもとへ駆け寄り、額の傷に布を当てた。河原に気まずく重たい空気が流れた。石をぶつけてしまった少年も、事の重さに今更ながら気づいたのか、顔を真っ青してその場に立ち尽くしていた。
「龍王丸、大丈夫か? よく妹を守ったな。弱気を守る、その心意気こそ当主の器に相応しい」
承芳さんは龍坊の頭を優しく撫でそれだけ言うと、石を投げた少年のもとへ歩み寄った。
「もっ、申し訳ありません……その、あの」
少年はその場に立ち尽くし、震えた声で謝る事しか出来なかった。少年の頬を大量の涙がつたう。承芳さんの腕が伸びる。少年の肩がビクッと大きく震えた。だが承芳さんの手は、少年の頭を優しく撫でた。
「私の息子と真剣勝負をしてくれてありがとう。その悔しい気持ちは、きっと其方を強くするはずだ。いつか其方が大きくなった時、龍王丸を支えてやってくれ」
承芳さんは少年の髪をぐしゃぐしゃにすると、優しくにっと笑った。少年も遠慮がちに小さく笑った。
その後、少年は謝罪し、龍坊はその謝罪を受け入れた。ようやく平穏が訪れた。
「みなさぁん! お弁当を持ってきましたよぉ!」
遠くの方から溌溂とした元気な声が聞こえた。声のする方を見ると、大きな重箱を持った稲穂さんが、ぶんぶんと手を振ってこちらに走ってきた。なるほど、忙しいというのは、お弁当を作っていたのか。
稲穂さんが重箱を開くと、手のひらサイズのおにぎりが、ぎゅうぎゅうに敷き詰められていた。まだ僅かに湯気が立っており、お米の甘い香りが食欲を誘った。少年たちは我先にと手を伸ばし、口いっぱいに頬張った。美味しい美味しいの声に、稲穂さんは幸せそうに目を細めた。
少年たちが取り終えたのを確認し、僕も一つ手に取った。一口食べると、米の甘みと程よい塩気が口の中に広がり、思わず頬が緩んでしまう。
「みなさん美味しそうに食べてくれて、稲穂は幸せです」
お腹を満たした少年たちは、既に川の中で水遊びを始めていた。バシャバシャと水が跳ね、少年たちの笑顔が光った。五月晴れの空に、少年たちの声が響き渡った。
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