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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
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第二次河東の乱 ①

 1545年 8月


 決戦の地富士川へ。よく晴れた青空とは対照的に、行軍の足取りは重たかった。何たって、前回の河東を巡る戦いにおいて、今川家は北条の軍勢にことごとく打ち負かされたのだ。勝たなければいけない重たいプレッシャーと、勝てるのかという不安。様々なマイナスの感情を引きずって、今川軍は富士川へ向かっていた。

 間者の持ち帰って来た情報では、どうやら敵軍の大将は北条氏康さんらしい。当主自らの出陣だ。それだけ北条が本気だという事だ。本気で今川を滅ぼしに攻めて来るんだ。額から嫌な汗が流れた。


 「関介、そんな怖い顔をするな。皆が緊張するだろう」


 「ああ、すみません承芳さん。つい考え込んでしまって」


 そんなに思いつめたような顔をしていたのか。気が付かなかった。自分の足で行軍すれば歩くことに夢中になれるのに。馬の背中に揺られていると、無駄な事まで考え込んでしまう。木々が揺れる音ですら、不吉な予兆に思えてならなかった。

 前を歩いている喜介くんが、不意に僕の方を振り向いた。強張った表情で、微かに肩が震えていた。承芳さんの言う通り、僕が不安そうな顔をしてしまったら、みんなも不安な気持ちになってしまう。僕はわざとらしいくらいの不格好な笑顔を浮かべた。何ですかその顔はと、喜介くんがふっと笑った。肩の力が抜けたようで、震えはもう見られなかった。喜介くんは安心したように前を向き直して歩いた。不安な気持ちはみんな一緒だ。喜介くんも、他の門下生たちも。その全部の暗い気持ちを背負っても、笑って前を向くのが師匠である僕の役割なんだ。

 駿府を出発してどれくらい経つだろう、微かに水音が聞こえ始めた。その音が近付くにつれ、自分の心臓の音が大きくなっていく。戦が始まるまでもう少しだ。そこで行軍の直前に交わした、雪斎さんと承芳さんとの会話を思い出した。


 「武田めの動きがどうにも怪しい」


 そう切り出したのは、眉間に皺を寄せ苛立ちを見せる雪斎さんだった。武田さんには、今回の戦で協力してもらえる事になっていた。そこで戦の前に、富士川を越えた先にある善徳寺という所で合流する事になっているのだ。その武田さんの動きが怪しいと。戦の前になんて物騒な事を言う。

 戦の前だから気が立っているのかと思い、僕はできるだけ明るい口調で返事をした。


 「晴信くんの事ですからきっと大丈夫ですよぉ。雪斎さんの考えすぎですって、って痛っ!」


 殴られた。あまりの理不尽さに、頭のたんこぶを摩りながら雪斎さんの顔を睨んだ。


 「関介殿は甘すぎると、昔から言い続けているではありませんか。信頼する事は大事ですが、妄信は命取りになります。宴会中ならばともかく、戦中であれば仲間でも疑うくらいが丁度良いのです」


 そう言われましても。頭の中で、心配そうに眉を曲げオロオロしている晴信くんの姿が容易に想像できた。あの晴信くんに、僕らを裏切る度胸があるとは思えない。それに彼とは最近まで何度も書状を交わしていた。僕の事を慕ってくれているし、僕も晴信くんの事が大好きだ。雪斎さんに強く押されたからといって、晴信くんを疑うなんて僕には難しかった。

 釈然としない僕の顔を見て気を遣ったのか、承芳さんは僕の間に入って雪斎さんに尋ねた。


 「和尚は武田の動きのどこが怪しいと思うのだ。疑うのは、それを聞いてからでもよいだろう?」


 はぁと大きなため息をついた雪斎さんは、面倒くさそうな動きで懐から一枚の書状を見せた。


 「武田に忍ばせた間者からの報せだ。なんでも武田は、北条と干戈を交える事に随分と躊躇っているらしい。最後まで講和の道を模索しているのだろうが、今更北条は聞く耳を持たんだろう。さっさと腹を括ればよいものを、あやつら何を怖気づいているのか」


 そう言い終えると、書状をぐしゃっと握りつぶした。相当苛立っているのが分かる。雪斎さんは、自分の思い通りにいかない時、苛立ちの感情を隠そうともせず言動に出す。晴信くんたちの動きが、雪斎さんの想定外だという事なのだろう。


 「つまり和尚は、此度の戦から武田が引くのではと考えているのだな?」


 「引かずとも、日和見を決め込むことは十分に考えられる。最悪勝馬に乗り、北条と共に攻めて来ることも考えねばならん」


 「そんな、晴信くんが攻めて来るなんて!」


 思わず口から漏れた言葉の続きを、両手で押さえて何とか止めた。まだそうと決まったわけではない。だけど雪斎さんが言うと、妙な説得力があるように聞こえてしまう。嫌な予感が頭をよぎり、心臓の鼓動が大きくなるのを感じる。


 「あくまで可能性の話です。ですが戦を行うのは人なのです。人の考えなど、一瞬の逡巡の内に変わってしまうものです。それ故に、戦を読むことは容易な事ではない。戦の前に考えすぎるに越した事はありません」


 そうだけど。それでも、晴信くんが僕らを裏切り、攻めてきた時の事なんて考えたくもなかった。

 でも当たり前だ。一つの選択ミスで、そのまま滅亡してしまう事もあるんだ。晴信くんは武田家の当主として、この難局を乗り切ろうと必死になって考えているに違いない。家の滅亡の前に、個人的な感情が優先される事はあり得ない。


 「これから向かう善徳寺にて、武田の軍と合流する予定です。晴信殿の真意はそこで聞けばよいでしょう。まぁ聞けられたらの話ですが」


 それだけ言うと、雪斎さんはさっさと馬に跨ってしまった。雪斎さんの冷たい言葉が胸に刺さる。不安な気持ちを抱いたまま、僕らは善徳寺へと行軍を始めた。


 今川の軍勢は遂に富士川へ到達した。目的地はこの先の善徳寺というお寺だ。そこで晴信くんたちと落ち合う予定だ。

 水を割って進む音が何層にも聞こえた。足元を掬われないよう慎重に進むみんなを尻目に、馬に乗った僕はすいすいと向こう岸まで渡ってしまった。胸に残る罪悪感を押し殺し、僕は善徳寺のある方向へ目を向けた。きっと大丈夫だ。武田家は、晴信くんはきっと僕らの味方になってくれるはずだ。歩兵たちが渡り切った事を確認すると、行軍は再び歩みを始めた。

 話しに聞くところに、幼少の承芳さんが一時期修行していたのがこの善徳寺らしい。境内の土を踏むや、承芳さんは懐かしいなと一人ごちった。今や北条の領地は目と鼻の先だ。迂闊に来られる所ではないだろう。

 境内は静かだった。ここに今川軍が布陣する。仏様は今川が戦に勝つことを願っているのだろうか、それとも戦なんてするものじゃないと叱るのだろうか。


 「承芳さん、晴信くんたちは来てくれますかね?」


 「ああ、来るはずだ。和尚はああ言っていたが、私は晴信殿を信じている。酒を酌み交わした仲なのだから。必ずや今川の味方になってくれるはずだ」


 「そうですね、僕も晴信くんを信じてます」


 そう言うと、承芳さんはへらっと笑った。気を張り詰めて、気丈に振舞っていることくらい直ぐに分かった。承芳さんは軍の大将だから。暗い顔をしたら士気に大きく影響してしまうから。そんな頑張り屋な承芳さんに、僕はふっと笑いかけた。いつの間にか夜の帳が下りて、辺り一帯は暗闇に包まれていた。虫の声が耳元で囁いているように感じる。今日の月は細く、地上を照らすには心もとない。その代わりに、無数の小さな星々が優しい光を届けてくれていた。


 目覚まし時計なんて物は無いはずなのに、早朝にも関わらず僕は飛び起きてしまった。そしてそれは僕だけでは無いらしい。辺りを見渡すと、起きていない人を探す方が難しかった。僕らを起こしたのは、遠くの方から近づいて来る無数の足音だった。静かだった陣内が、大きな喧騒に包まれた。まさか北条が?


 「ようやくか」


 いつの間にか僕の近くで腕を組んで立っている雪斎さんが、不敵な笑みを浮かべながら呟いた。 雪斎さんの視線の先に、夥しい人影が見えた。影は列をなして僕らの前に向かってきた。警戒心が高まる。


 「お待たせいたしました、義元殿」


 その声は。聞き覚えのある声に、僕の警戒心は直ぐに解かれた。どこか自身なさげで遠慮がちな声。それでいて、柔らかな温かい声だ。書状の中でも彼の言葉は優しく思慮深かった。


 「晴信くん! 待ってたよ!」


 まだ薄暗い境内の中、本堂の陰からぼんやりと浮かび上がった顔を見て、僕は思わず声を上げていた。


 「関介殿、お久しぶりにございます。関介殿に合える日を、晴信はずっと待ってました!」


 列の先頭を歩いていた晴信くんは僕の方へ駆けてきた。両手を広げて待つ僕の胸の中に飛び込み、背中に手を回した。僕も晴信くんの背中に手を回し、二人で久しぶりの抱擁を交わした。


 「兄上。独断行動が過ぎますよ」


 晴信くんの弟さんである信繫さんの声が聞こえた。彼の鋭い声に、晴信くんは反射的に僕の身体から離れた。ようやく晴信くんの顔がくっきりと見えた。前に会った時よりずっと大人に見える。当主として色々な経験をして、きっと身も体も成長したんだろう。ただ、僕と分かるや直ぐに走り出すあたり、晴信くんらしいとことろは変わってなくて安心した。


 「ああう、済まない信繁。関介殿も申し訳ないです。後でお酒でも飲みながらゆっくりお話ししましょうね」


 そう言い残し、信繁さんの元へ急いでいった。ごめんね晴信くん。戦の前に酔っぱらうのは流石にまずいから、また今度にしようね。

 隊列に戻った晴信くんは信繁さんより書状を受け取った。コホンと一度咳払いし、そこに書かれているであろう内容を高らかに宣言した。


 「これより武田は、今川家にお味方し、共に北条と戦う事をお約束いたしたます」


 雪斎さんは満足そうに頷いた。やっぱり、晴信くんを信じて良かった。晴信くんと目が合うと、へらっと手を振ってきた。

 晴信くんの宣言を言い終えた瞬間、境内の中に今川の兵士たちの歓声が沸いた。農兵さんたちは誰だ誰だと不思議そうな顔をしているが、武田の兵士の恐ろしさを知っている武士さんたちは、みんな嬉しそうに喜んでいた。

 

 「武田の助力、大変ありがたい。共に北条の兵を打ち破りましょうぞ」


 「はいっ、義元殿!」


 二人の力強い声が響いた。今川の兵に強力な仲間が出来た。これで北条に勝てるぞ。

 ところで、喜びのあまり駿府を発つ前に雪斎さんから言われた事を忘れていた。武田の動きが怪しいとか、武田さんが北条と戦う事を躊躇っていたとかの話だ。その辺りの真相も聞いておきたいところだ。みんなの前で話す事でもないだろう、僕は晴信くんにだけ手招きしてこっちへ来てもらった。雪斎さんと承芳さんも集まった。


 「さっき雪斎さんが言ってたんだけど、武田さんが北条と戦う事を躊躇っていたというのは本当?」


 目を見開いた晴信くんは、どうしてそれをと呟いた。晴信くんは、忍び込んだ諜報員の存在に気づいていなかったのか。僕は心の中で平謝りした。

 

 「何故その事を知っているのか気になりますが、今は聞かないことにします」


 目を左右に泳がせ、オロオロと話す晴信くん。今後疑心暗鬼にならない事を祈ろう。


 「武田の中にも、北条に付くべきと考える者も少なくありませんでした。北条とも今川とも上手くいく道を模索していたのですが、私では家中をまとめることが出来ず」


 ショボンと伏し目がちに話す晴信くん。晴信くんも当主として苦労しているんだな。確かに、怖い顔の人が多い家臣さんたちをまとめるのは難しいだろうな。承芳さんや晴信くんの境遇には、少しだけ同情してしまう。

 僕が何かフォローの言葉を掛けようとした時、ぱっと明るい顔で弟の信繁さんの方を指さして言った。


 「北条に付くべきという家臣たちは、晴信の代わりに、信繁が説き伏せてくれたんですよ。他にも、今川に味方する事を賛成してくれた家臣たちをまとめ、迅速に兵を集めてくれたのも信繫なんですよ」


 あまりにあっけらかんと話す晴信くんに、喉元まで出かかった労いの言葉を飲み込んだ。晴信くんと承芳さんを交互に見る。承芳さんも戦の事は雪斎さんに任せきりだ。何だかこの二人、すごい似てる気がする。僕の視線に気が付いたのか、承芳さんはムッとした表情で抗議してきた。


 「おい関介、今失礼なこと考えたろ」


 「いえ、別に」


 ふいとそっぽを向いて答えると、こっちを見て話せと承芳さんが僕の肩を掴んだ。晴信くんは気まずそうに、ははっと乾いた笑い声を上げた。

 不意にふらふらと空を漂うトンボが目に入った。僕が目で追うと、みんなも同じように視線を向けた。雪斎さんは目を細め、ボソッと一人呟いた。


 「ほう、勝ち虫か。縁起が良いではないか」


 聞き覚えの無い言葉だった。この時代のトンボの呼び方なのか、そういう種類のトンボなのか。雪斎さんが縁起が良いと言うのだから、きっといい言葉なんだろう。澄んだ空を気ままに飛び回るトンボに、僕は心の中で戦に勝てますようにとお願いした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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