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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
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生かす剣

 上泉信綱さんとの決闘に敗北し、みんなの前に醜態を晒したのが今から二時間前の事だ。自室に引き籠った僕は、ずっと布団の中に潜っていた。顔を押し付けていた枕は涙と鼻水でびしょびしょだ。


 「関介様、もう十分泣いたじゃないですか。そろそろ泣き止んではどうです?」


 「そうですよ関介様。誰にだって失敗はありますって」


 枕元で心配そうに見下ろす稲穂さんと喜介くんが口々に言った。今の僕にそんな気休めの言葉なんていらない。僕は耳を塞ぎ外からの声を遮断した。もう何も見たくない、聞きたくない。もういっそ目を開けたら、現代に戻ってたりしないかな。二人ともこれ以上何を言っても無駄だと思ったのか、大きなため息をついて黙りこくった。もう一人にさせてくれと、心の中で文句を言った。


 「どうしてそんなに落ち込んでいるのか分からないのだけど。得意の剣術が通用しなかったから? 弟子たちの前で勝負に負けたうえ、無様に命乞いをしたから? それとも、皆の前で失禁したから?」


 「うわああん! みなまで言わないで下さいよぉ!」


 思い出したくない、思い出したくない。みんなの憐れみの籠った生暖かい視線を思い出すだけで、顔が火照って熱くなる。反応したくなかったのに、多恵さんの無神経な言葉に耐えられなかった。

 顔を上げて縁側で腰掛けている多恵さんの方を見る。目は真剣なのに、口元がむずむずと震えており、耐え切れずぷっと噴き出した。それにつられたのか、稲穂さんや喜介くんまでもが笑い始めた。部屋の中に溜まっていた気まずい空気はいつの間にか消え去って、温かい空気に入れ替わっていた。

 

 「やっぱり、みんなで僕を笑うんだ」


 むすっと頬を膨らませ、ジトっとした目で僕を取り囲む三人をぐるりと見渡した。稲穂さんのニコッとした顔と目が合ったが、僕はふいっと顔を逸らした。

 背後で障子が開く音が聞こえ、遅れて誰かが中に入ってきた。その人は軽い口調で言った。


 「よっ、関介。漏らしたことまだ気にしてるのか、って痛い!」


 無神経なその男の顔に僕は思い切り枕を投げつけた。鼻の真ん中にぶつかって、痛そうにさすっている。ざまあみろだ。

 いててっと鼻を押さえる承芳さんは、それでも僕の方を見てニコニコと笑いかけた。


 「そうやって一人で落ち込んでいるより、みんなで笑い話にした方が楽だろ」


 「むぅ、そうですけど、わざわざ蒸し返さなくてもいいと思うんですけど」


 確かに承芳さんの言う通り、さっきまで布団の中で一人で泣いていたとよりも、みんなに笑われている方が気持ちも楽になった気がする。多分みんなに馬鹿にされるんじゃ、失望されるんじゃとないかと、一人で思い悩んでいたせいだ。でもみんなの顔を見て、少なくとも僕の事を軽蔑する目で見る人はいなかった。僕はとてもいい人に囲まれている。そんな当たり前の事に今更気が付いた。


 「ははっ、まあそれもそうだな。お前が漏らした事をこれ以上蒸し返すのはやめよう。うん、漏らし事はもう二度と、って痛いって」


 投げる物が手元にないなら実力行使だ。僕は承芳さんの元へ駆けると、彼の頭をぽかぽかと叩いた。痛がるような素振りをみせる承芳さんだけど、楽しそうに笑うものだから、釣られて僕も笑ってしまった。さっきまでの暗く沈んだ気持ちが少しだけ楽になった。

 

 「改めて、信綱殿と勝負してどうだった? やはりあの方は強かっただろう」


 「はい、手も足も出ませんでしたよ。剣を振るう腕に迷いがありませんでした。確固たる自信と、それを裏付ける確かな強さがありました。僕があと十年稽古しても、あの人に追いつけるかどうか」


 「そうか? 私は関介の剣の腕が、信綱殿に劣っているとは決して思わんぞ」


 承芳さんの予想外の返答に、へえっと素っ頓狂な声を上げてしまった。ふざけているのかと思ったけど、承芳さんの目は真剣だった。いつもは適当な承芳さんだけど、僕を軽んじるような嘘を付く人ではない。承芳さんは、本当に僕が上泉信綱さんに負けていないと思っているんだ。嬉しいけど罪悪感で胸が締め付けられた。僕にはそんな自信も実力も無いからだ。

 

 「そう言ってくれるのは嬉しいです。ですが、残念ながら承芳さんの期待には応えられません。僕と信綱さんとの間には、比べるまでも無い実力差があります」


 「関介はまだ刀を握るのが怖いか?」


 承芳さんは少しだけ悲し気に、俯きがちに言った。傍で聞いていた稲穂さんと喜介くんがあっと声を上げた。僕は唇をきゅっと結んだ。固く握る両手に力が入る。織田家との戦に敗れ、承芳さんと逃げた時だった。木陰から急に現れた織田の兵士を、僕がこの手で殺したんだ。僕はその日から、刀が握れないでいた。

 信綱さんから刀を持つよう言われた時、胸が裂けて心臓が飛び出してしまいそうになるほど、強く激しく鼓動していた。ガタガタと震えていたのは、信綱さんに殺されるのが怖かったからじゃない。もう一度人を殺してしまうのが怖かったからだ。

 それでも僕は、承芳さんを守ると誓ってから、人の目の無いところで、何度も刀を持ってみた。だけどその度に全身が痙攣し、嘔吐していた。


 「どうしてそれを?」


 「分かるさ。関介は優しいから。そんなお前が、人を殺して平気でいられるとは思えないさ」


 うぐっと、喉の奥から変な声が出た。承芳さんは優しい目で僕を見つめた。僕は観念したように首を垂れ、吐き捨てるように言った。


 「二年経っても、人を殺した感触が手のひらの中に残ってるんです。僕は駄目ですね。承芳さんを守ると約束したはずなのに、僕はあれから刀を持つこともできていないんですよ」


 僕のやっつけのような言葉を聞いて、みんな気まずそうに押し黙ってしまった。こんな空気にするつもりじゃなかったのに。後悔と自己嫌悪が心の中に押し寄せる。それでも承芳さんは、僕の頭を優しく撫でて、ぽつぽつと話した。


 「かつて、私が京にいた時、剣の稽古をつけてくれた師範がいた。まあ私の剣の腕を見て、直ぐに諦めたようだがな」


 承芳さんはカラカラと笑いながら続けて言った。


 「あの人が私に伝えてくれたことで、一つだけ覚えている言葉がある。関介は、刀はなんのために振るうと思う?」


 唐突な質問に僕が慌てていると、そんなに構えなくてもよいと笑った。なんのために刀を振るうか。言われてみれば、今まで考えたことが無かった。おじいちゃんに厳しく稽古をつけてもらい、無我夢中で竹刀を振ってきた。それはおじいちゃんからやれて言われたからで、自分でやりたいと思ったことは一度も無かったはずだ。目の前の敵に勝つため、大会で結果を出すため。でも、それがおじいちゃんが僕に剣道を学ばせた理由なのか?


 「考えたことも無いです。師範が竹刀を振れと言ったから振っていただけですから」


 「そうかそうか。ならば、剣の道は私が一歩前を歩んでいるな」


 何故か胸を張って得意げに言う承芳さん。多恵さんがおでこを押さえた。承芳さんの剣の腕前を知っている喜介くんも、難しい顔で笑った。

 

 「刀を振るう理由は二つだ。人を殺すため、そして人を生かすためだ」


 承芳さんは指を二本立てて言った。人を殺すためと生かすため。同じ刀を振るという動作で、全く反対の意味があると承芳さんは言った。あまりピンとこないのは、僕が平和な現代で稽古をしていたからだろう。

 僕はあの時、承芳さんを守ろうと刀を振ったのか、それとも敵を殺すために振ったのか。自分でも答えが出ない問題だった。


 「関介は人を殺したくないんだろ? であれば、答えは簡単ではないか。殺す為ではなく、仲間を生かすため、守るために刀を振るのだ。関介の気持ちが落ち着いてからでいい、心の靄が晴れてからでいい。いつか戦が起こった時、関介は私を生かすために刀を振るってくれ」


 「承芳さんを、生かすために」


 でもそれは結局敵を殺す事と同じ意味だ。色々な理由を探って、殺す事の罪悪感を薄めているだけに過ぎない。この戦国の世で、人を殺さないでいいなんて甘えなんて許されないんだ。つくづく、戦国の世は命が軽すぎると思い知らされる。覚悟はしていたはずなのに、いざ実際に刀を握ると、あの日の記憶がフラッシュバックする。

 

 「関介様は、稲穂の事も守ってくれるのですよね?」


 稲穂さんが僕の手を取って言った。喜介くんも頷いている。多恵さんは、目が合うとそっぽを向いてしまったけど、その表情は笑っていた気がする。守らなければ、大切な人たちが殺されてしまう。

 ふと思いつき、部屋の片隅で埃をかぶっている刀の目の前に来た。以前受け取った時は、嬉しくてはしゃいだ記憶がある。だが今は、苦々しい記憶で塗り潰されていた。張り裂けそうな思いを押さえながら、僕は刀に手を伸ばした。みんな何も言わずに見守ってくれている。

 刀を持ち上げると、途端に腕が震えだし、ガシャンと重たい音が響いた。まだ持てなかった。だけど確信があった。前よりも、気持ちの悪い感触が薄れていると。少なくとも吐かなくはなった。

 みんなの方へ振り替えった。晴れやかな気分だ。何だか無性に稽古がしたくなってきた。


 「顔が変わったな。晴れ晴れとしている。うんうん、まさに私のおかげだな。まあ礼はいらんぞ」


 「別に承芳さんのおかげじゃ……まっ、今日はそういう事にしといて上げますよ」


 承芳さんがにかっと笑うと、つられて僕も笑った。


 「よし喜介くん。午後の稽古を始めよう。元気も有り余ってるし、さっきの十倍でいいよね?」


 「ええっ! さっきのじゅっ、十倍ですか!? そんな殺生な」


 稲穂さんがクスクスと笑い、兄さま頑張ってくださいとエールを送った。喜介くんはがくっと肩を落とした。

 そうだと、承芳さんは思い出したように言った。


 「先ほど信綱殿と会ったのだが、どうやらあと三日は駿府に滞在すると言っていたぞ。久しく会っていなかったから、あれほどな大男になっていたとは思いもしなかった。最初は野党かと思ったものだ」


 承芳さん、信綱さんと知り合いだったのか。京都にいた時にでも会っているのだろうか。

 あんな剣豪が駿府に三日いるのか。出くわさないように細心の注意を払う事にしよう。


 「三日も滞在するのだから、もう一度勝負が出来るな。関介もやり返したいだろうし、私の方から話を通しておくよ」


 「ええっ! もう一回勝負するなんて嫌ですよ」


 「はあ? 負けっぱなしで関介は悔しくないのか、いいや私は悔しいな。それに、駿府の剣豪が敗北し命乞いをしたなどと話が広まれば、私が恥をかくではないか。関介には必ずもう一度戦ってもらうからな」


 そんなあ。あんなに強い剣豪ともう一度勝負したら、今度こそ殺されるぞ。助けを求めようと喜介くんを見たが、稽古を十倍にすると言った恨みからか、ふんと顔を背けられてしまった。稲穂さんも、頑張ってくださいと胸の前で両手の拳を握った。稲穂さん、あの時は凄く心配そうにしてくれたのに。多恵さんも諦めたように、遠い目をしている。この場に承芳さんを止めてくれる人はいなかった。

 

 それからはとんとん拍子で話が進んでいった。そして三日後の今、場所は同じ道場。周りには僕の教え子たち。そして僕の目の前には、あの日と同じように上泉信綱さんが立っていた。何故か額に青筋を浮かべ、怒り心頭といった様子だ。うん、どうして?


 「関介と言ったか。あれだけ無様に負けておいて、よく俺に再戦を挑んできたな。それも、次は俺に片膝をつかせて見下ろしてやると。いい度胸じゃあねえか」


 なんのこっちゃ分らん。最後の方は絶対に承芳さんが調子を乗ったんだろう。信綱さん、怒りすぎて握った刀がカチカチと震えている。

 信綱さんは握っていた刀を鞘に納めると、もう片方の鞘から刀を抜いた。スラっと伸びた刀身が、危険な光を放った。信綱さんは、不気味な笑みを浮かべた。


 「この刀は、未だ誰の血も吸っていない。お前がその一人目だ、光栄に思うんだな」


 「全然思いませんが、あの、お手柔らかにお願いします」


 ねっと笑うと、信綱さんの額の青筋が一つ増えた。まずい煽ってると思われたか。


 「さあお前も早く刀を持て! 早くしねえと、殺しちまうぞ」


 怖すぎる。血走った目で睨みつけられ、思わず足がすくみそうだ。だがしょうがない。覚悟を決めて、僕も自分の腰の刀を抜いた。僕が握る刀の刀身は、つるっと平凡に光った。一瞬目を丸くした信綱さんは、直ぐに怒りに表情を歪ませ、唾と一緒に怒号を飛ばした。


 「お前のそれ、木刀じゃねえか! それで俺に勝とうってのか! ふざけてんのか、ああん!?」


 信綱さんの怒声に怯みながらも、僕は力強く頷いた。信綱さんの顔が更にぐにゃっと曲がった。周りの教え子たちも不安そうで、道場の中にざわめきが広がった。でも僕と真後ろで腕を組む承芳さんだけは本気だった。


 「己を信じろ。関介なら必ずや勝てる。私の目に狂いはない。東海一の、いや日の本一の剣豪と言わしめてやれ」


 「まあ頑張りますよ、承芳さん」


 振り返らずに僕は返事をした。この三日間、ただ待っていたわけでは無かった。僕と承芳さんであれこれ考えたのだ。

 まずは刀への恐怖の克服を目指したが、三日で叶うはずもなく、直ぐに諦めがついた。それならばと、承芳さんは木刀はどうかと言ったのだ。最初に聞いたときは、諦めて死んでこいと言っているのかと思ったが、承芳さんの真意はそうではなかった。恐怖でろくに振れない刀を持つよりも、稽古で使い慣れた木刀の方が勝算があると考えたのだ。なるほど納得だ。ただ一つの懸念点は、日本刀をもろに受け止めた場合、僕ごと真っ二つにされるという点だ。

 模擬戦でもしたいところだが、信綱さんと同じくらい強い剣士は僕の教え子たちにいなかった。だから主な練習は、僕の記憶の中の信綱さんと戦うイメトレだった。頭の中だけなら全戦全勝。そりゃそうだ。うーん、勝てるのかこれ?


 「信綱さん、僕は貴方に勝ちますよ。何故なら、僕は仲間を生かすために剣を振るいます。人をむやみに殺すために剣を振る、貴方みたいな人には負けません」


 「んだとてめえ!」


 首筋に血管が浮かび、フーフーと息が荒くなってきた。よしよし、作戦通りだ。

 ふっと肩の力が抜けてきた。死闘の前だというのに、不思議と恐怖は無かった。すぐ後ろに承芳さんがいるから。守るべき人が近くにいると、不思議な力が心の底の方から湧いてくる。僕は剣先を信綱さんに向ける。


 「あの日刀を握った時に僕が震えたのは、貴方に殺される恐怖からではありません。貴方を殺してしまう恐怖で震えたんです。木刀ならどれだけ殴っても死にませんよね?」


 僕は不敵な笑みを浮かべた。その瞬間、思い切り床を蹴った信綱さんが僕目掛けて走って来た。さあ勝負だ。


 「おらあ!」


 一太刀目は上から振ってきたか。後ろに少しだけ動き、寸前のところで避けた。剣先の風圧で、僕の髪がふわっと舞った。恐怖のあまり直ぐに避けてしまうと、相手に逃げる先をよまれてしまう。怖いけど、直前で避けなければ。

 縦の次は左から右に払い。イメトレ通りだ。ひょいっと避ける。体が軽い。五条大橋の源義経にでもなった気分だ。僕が簡単に避けるため、段々と苛立ちを募らせてきた信綱さんは、僕との距離を一気に詰めてきた。これ以上後ろに避けられない。だがこれも想像通りだ。僕は咄嗟にしゃがんで避け、一気に信綱さんの後ろに回り込んだ。がら空きの後頭部に向けて木刀を振り下ろそうとしたが、すんでのところでやめた。すぐさま反転した信綱さんが、顔の前で刀を構えたのだ。日本刀に斬りかかれば、木刀は真っ二つだ。この勝負、信綱さんの日本刀に触れた瞬間に、僕の敗北が決定する。敗北はつまり死亡を意味する。


 「おいおい、避けてばかりじゃ勝てねえぞ!」


 信綱さんの太刀は鋭い。油断すれば、僕みたいな華奢な身体なんて真っ二つだ。だけど、裏を返せば気をつけてさえいれば、避けられるということだ。持久戦になれば僕は勝てない。どこかで勝負に賭ける必要がある。その瞬間を見逃さない。

 僕は詰めすぎてしまった距離を確保するために、数歩後ろに下がった。その隙を信綱さんが見逃すはずがない。一瞬で距離を詰められ、彼の剣先が目の前まで伸びる。身を翻して避けようとしたが、刃先は僕の右肩を捉えた。袖の部分が破れ、血が飛んだ。周りのどよめき、稲穂さんの悲鳴が鮮明に聞こえた。

 体を開いてしまった。これでは次の一太刀は避け切れない。信綱さんは勝利を確信したのか、いつもより大きく振りかぶり、僕の頭目掛けて振り下ろした。


 「終わりだっ!」


 ガシャっと、金属の重厚な音が響いた。僕の目の前で、信綱さんは信じられないといった様子で目を見開いている。硬い道場の床に、振り下ろした刀が刺さっていた。


 「信綱さん、今勝ちを確信しましたね。その時既に、僕に負けていたんです」


 「まさか、肩を斬らせたのはわざとか」


 まさに読み通りだった。僕の肩を斬った時、信綱さんは僕が反応が遅れたと思ったに違いない。そして僕が体を開いた時、勝ちを確信したんだ。そう、僕の罠とも知らずに。


 「その通りです。まさに肩を斬らせて骨を断つってね。僕の勝ちです」


 そう言って、床に刺さった刀の棟に足を置いた。これで信綱さんは刀を動かせない。


 「己の身体すら囮に使うとは。見事だ。私の命、好きにするがいい」

 

 ガクッと首を垂らした信綱さんは、諦めたように言った。流石は剣豪だ。あれだけ怒っていても、自身の負けをこうも潔く認めることができるなんて。そうか、ならば信綱さんのいう通り、僕の好きにしよう。


 「右肩が痛くて上がらないので、これで」


 左手に木刀を持ち替え、ふらふらと信綱さんの首筋に当てた。一瞬ポカンとした顔を向けた信綱さんだが、くしゃっと破顔しガハハと豪快に笑った。その場に膝をつくと、天井を見上げた。


 「負けた負けたぁ! ガッハッハッ!」


 その瞬間、道場の中に歓声が広がった。背中から抱きつかれた。見ると、喜介くんと稲穂さんだった。気がつくと、他の教え子たちに囲まれていた。みんな口々に賛辞と労いの言葉をかけてくれた。後で感謝の稽古をしてやろう。


 「やったな関介。私の目に狂いはない。関介は日の本一の剣豪だ」


 「言い過ぎですって承芳さん。でも、信じてくれてありがとうございます」


 言い終えた後、無性に恥ずかしくなった。赤い頬を見られたくなくて、僕はそっぽを向いた。承芳さんの笑い声が背中越しに聞こえた。


 「おい関介、お前あの人に稽古をつけてもらったのか?」


 「あの人? って、誰のことです?」


 僕が不思議そうに答えると、信綱さんはそうかとだけつぶやいた。


 「いいや、知らないならいいんだ。さっきお前が言った、人を生かすための剣って言葉。昔出会ったおっさんに、同じ事を言われたんだよ。そん時は説教臭えとしか思わなかったが、今なら少しだけ分かった気がするよ」


 誰だろう、そのおっさんとやらは。もしかしたら、承芳さんが昔に稽古をつけてもらったと言っていた人かな。そうだとしたら、承芳さんは、物凄い人に稽古をつけてもらったのか。その人が匙を投げるって逆に才能ではなかろうか。剣を持たない才能。本人に言ったら絶対に拗ねるだろうし、言わないでおこう。

 上泉信綱さんはその後、道場の床の修繕を手伝ってもらい帰っていった。どうやら色々な国へ旅をしているらしい。その国々で、駿府に日の本一の剣豪がいると言いふらすらしい。本当にやめて欲しい。


 決闘の次の日、右肩の負傷により稽古は中止だった。自室の布団に横になる僕を、多恵さんと喜介くんと稲穂さん、承芳さんが囲んでいる。

 ゴリゴリと音が聞こえる。多恵さんがすり鉢で何かを砕いている音だ。見ると真っ黒い何かだった。あれを飲むくらいなら、もはや肩を切り落とした方が楽だろう。多恵さんは終わったと呟くと、布に黒い粘着性のある物体を塗りたくり、肩の傷跡に容赦なく押し付けて貼った。


 「いたたっ、もう少し優しくしてくださいよぅ」


 「これでも、優しくやっている方なのだけど」


 これでもか。青い顔ですみませんと謝罪しておいた。これ以上乱暴にやられたらたまったもんじゃない。

 承芳さんはどうしてかニコニコと僕の顔を見ている。嫌な予感がする。承芳さんが懐から数枚の書状を取り出した。そこには大きな文字で、果たし状と書いてあった。ほら、僕の嫌な予感は当たるんだ。


 「関介、お前の評判を聞きつけた他国の剣豪たちが、果たし状を送り付けて来たぞ。その傷が治ったら、またいつでも勝負が出来るぞ」


 「もう勘弁してくださいよお!」


 僕の悲鳴に近い声が部屋の中に響いた。その直後、右肩の傷跡がズキッと痛んだ。僕の叫び声が二つに増えた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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