選択
本堂の中に重たい沈黙が流れた。流れたというより、足元に沈殿してぞわぞわと纏わりついてくる感じだ。関四郎さんの発言は、質問のようで答え合わせだった。
関四郎さんの確信を持った強い視線がぶつかる。今ならここで目を逸らして、今まで通りの友達の関係に戻る事は可能だろう。僕が望めば、優しい関四郎さんなら首を縦に振ってくれるに違いない。でもそれを僕は望んでいない。自分の心にも、寿桂尼さんにも、そして関四郎さんにも不誠実だろう。僕は関四郎さんの言葉を受け止め、大きく頷いた。
「ずっと分かっていたのに、関四郎さんは黙っていてくれたんですね。そうです関四郎さんの言う通り、僕は時渡りでこの時代に来たんです」
そう言うと、関四郎さんは安心したように、そうかと呟いた。ふっと足元を漂っていた沈黙が霧散し、暖かい空気が部屋を包み込んだ。何だか、此処に来るまでに緊張していたのが馬鹿馬鹿しく感じてきた。
「何だか不思議な気分だな。時渡りなど、到底浮世離れした話なはずが、容易く受け入れてしまっている自分がいる」
「しょうがないですよ、実際に目の前で起きてしまったんですから」
関四郎さんはそうだなと呟いた。やはり時渡りを体験した僕が言うと説得力があるな。今なら宇宙人がいると言われても信じられるし、ネッシーでもハッシーでも簡単に見つけられる気がする。
「そういえば関四郎さんって、以前にも僕と同じように時渡りでこの時代にやって来た老人と会ったと言いましたよね。その老人が、僕の祖父だという事も、勿論分かっていますね?」
何も言わず、関四郎さんは首を縦に振った。そうか、本当に最初から全部分かっていたんだ。そして、僕が関四郎さんの末裔だって事も気が付いているはずだ。
僕は手のひらの中で輝く、関の字が彫られた金塊を改めて見つめた。この温もりは、間違いなく祖父のものだ。そして、少しだけ関四郎さんと同じ匂いがする気がした。きっと恥ずかしいくらい気のせいだ。だけど時代を超え、巡り巡って今僕の手の中にある訳だし、あながち間違いとも言えないかもしれない。
ふと顔を上げると、関四郎さんの顔が直ぐ目の前にあった。関四郎さんは両手を伸ばし、僕の両頬を挟みぐりぐりと揉み始めた。ジトっとした目を向けると、何だよと悪態をついてきた。何だよはこっちの台詞なんだけど。
「それにしも、俺の末裔とはいえ流石に顔が似すぎじゃないのか?」
そう言いながら、またぐりぐりと揉んでくる。無理やり関四郎さんの手を振り解き、何とか無限ぐりぐり攻撃から逃げ出すことが出来た。僕が抱き着こうとすると凄く嫌がるくせに、たまにこうやって意地悪してくることがある。相変わらず不思議な性格だ。それと、似すぎじゃないは僕に言われても困る。僕は頬をさすりながら、呆れたように言った。
「頬が痛い。ったく、阿呆なこと言ってないでいいですって。ほら、大事なお守りも落としてますよ」
暗い床の上に一際目立つ、キラリと光る金塊を拾い上げる。確認すると、やっぱりこの金塊にも関の字が彫られている。何となく、祖父から貰った金塊と比べてみた。当たり前に、その二つは全く同じ形だった。
「ああ、すまん。寿桂尼様から頂いた大切なお守りだというのにな。関介の阿呆面を見たらつい……何とか言えよ、おい関介」
なんだそれ、阿呆面って同じ顔ですよ。そうツッコミを入れたいところだけど、僕はそれどころじゃなかった。くらっとしたかと思うと、左手で頭を押さえもう片方の手で床をぎゅっと掴んだ。何故か全身に力が入らない。急に体調を崩したかと思った次の瞬間、頭のてっぺんに雷が落ちた。直ぐに違和感に気が付いた関四郎さんは、僕の顔を心配そうにのぞき込んだ。
「おい、どうしたんだよ関介」
「ったい、頭が割れるように痛い……痛いよ関四郎さん」
僕は力なく床に倒れた。埃が舞い黴臭かった。
「おいっ! 本当に大丈夫かよ、なあ関介!」
関四郎さんの叫び声がぼんやりと遠くに聞こえてくる。視界も幕が下りたように真っ暗になった。肩に当たる床が冷たい。その感触も徐々に薄れていく。それから身体がふわふわと空中に浮かんでいる感覚に襲われた。
いつかの日も、こうやって唐突に頭痛に襲われた事がある気がする。いつだっけ。どうしてか承芳さんの顔が思い浮かんだ。そうだ思い出した、僕が初めて戦国時代に時渡りした時だ。そんな事をぼんやりと思考しているのは、さっきの急激な頭痛が煙のように消えてしまったからだ。
ゆっくり慎重に目を開いてく。すると強い光が瞳の中に集まって、もう一度目を閉じた。どうしてだろう、本堂の中にいたはずなのに。目がだめなら耳だ。息を殺し、周りの音を集中して聞く。すると遠くの方から、排気ガスを乱暴に吐き出す音が聞こえて来た。肩に触れるのも硬い床じゃなくて柔らかな芝生だ。もう眠っている場合じゃなかった。
目を見開き、思い切ってその場に立ち上がる。僕が立っているのは、芝生というより雑草の上だった。直ぐ目の前にはコンクリートで舗装された大きな道路が走っている。呆然と立ち尽くす僕の前を、大きな鉄の塊が物凄い速さで通過していった。
「嘘だろ」
ガスの匂いも、身体に吹き付ける化学薬品っぽい風も、耳障りな喧騒も、全部が戦国時代とは違っていた。ここは現代だった。僕の呟く声は、何もかも忙しい現代では誰も聞いてはくれなかった。
辺りを見渡しても、さっきまで関四郎さんと一緒にいたはずの廃寺は影も形も残っていなかった。石畳の痕跡すらなく、今は綺麗に道路として舗装されていた。
「どうしようか」
溜息と一緒に出た呟き声は、直ぐに空高くに消えていった。だが落ち込んでいても仕方がない。ここが何処なのかを知るために、大きな道路に向かおう。恐らく時渡りで移動するのは時間だけで、場所は変わらないはず。廃寺は今川館から、歩いて一時間くらいの場所にある。今川館が現代の何処に当たるか分からないけど、静岡市の都市部である事を祈ろう。
暫くといっても、ほんの数分の内に、現代で生きていた頃は当たり前のように利用していたお店の看板が見え始めてきた。どうやら、ものすごい山奥とかでは無いらしい。トボトボと歩道を歩きながら、ほっと胸を撫で下ろした。
車がびゅっと僕のすぐ隣を通り過ぎる度、肩をびくつかせ体を小さくした。それもそのはず、今の僕の恰好は明らかに現代で浮いている。さいあく小袖と袴の姿なら、剣道をやっているのかと思われる程度で済むかもしれないが、僕の腰に刺さっている物を見たら、直ぐに不審に思われるだろう。今川館から少し遠出をするという事で、護身用にと、短刀を腰に刺してきたのだ。まさかそれが、こんな形で裏目に出るとは。通行人に見られ通報されれば、銃刀法違反で一発アウトだ。刀を持ってるだけで逮捕とか、現代はなんて安全な時代だろう。
「ちょっと! そこの人、止まりなさい!」
突如として、背中から鋭い声が響いた。振り返ると、制服を着た警察官が目を光らせてこちらに向けて走ってきた。あっ、これはまずいやつだ。
「すっ、すいませんでした! でもこれはただのおもちゃで、本物じゃなくて!」
あたまが真っ白になって、意味の分からない言い訳をしてしまった。警察官がどんどん近づいて来る。ああもうだめだ。諦めた僕は、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「待てー! ながら運転はいけませーん!」
警察官はまるで僕が見えていないかのように、すぐ隣を通り過ぎていった。ながら運転? 顔を上げて警察官の駆けていった先を見えると、自転車に跨って顔を青ざめる、高校生くらいの少年がいた。学校の制服だろうか、ポケットから細長い紐が耳元まで伸びている。なるほど、警察官は僕ではなく、イヤホンをしながら運転をしていた子に用があったのか。
可哀そうだけど、高校生の子が掴まってる間に、警察官の目を盗んで遠くへ逃げよう。そう思って、自転車の脇を通り抜けようとした時、袴が自転車のハンドルに引っかかり、バランスを崩した僕は前方へ思い切り転んでしまった。
「痛っ!」
思わず声を上げてしまった後、しまったと直ぐに顔を上げた。まずい、絶対に注目を浴びてるよ。恐る恐る警察官の方を見ると、不思議な事に、僕なんて眼中にないのか、高校生の子へのお説教に夢中だった。ただおかしいのは、高校生の子も、一切僕の方を見る素振りをみせないのだ。まるで、本当に見えていないかのように。
気になった僕は、高校生の子の肩に手を伸ばした。
「へっ?」
僕の手は何かに触れることなく虚空を掴んだ。立体の映像のように、僕の手は高校生の子の身体をすり抜けてしまった。だけど、僕の目の前にいる二人は、明らかに生きている人間だ。
思い切り短刀を抜きさり、警察官に見せびらかすように空高くに掲げた。全くの無反応だった。その瞬間僕は、自分がこの世界に居てはいけない存在なのだと理解してしまった。
その後は体裁なんて気にせず、がむしゃらに走り続けた。ふとしたはずみで自分の身体が泡のように溶けてしまいそうな恐怖を忘れるには、とにかく走るしかなった。走って走って、僕が辿り着いたのは、とあるお寺の前だった。看板には臨済寺と書かれている。僕は吸い込まれるような不思議な感覚を覚えながら、境内へ足を踏み入れたのだった。
境内に入ると、まず立派な門が出迎えてくれた。両端に怖い顔の像が立っていて、それぞれ異なるポーズを決めている。何となく僕も同じように、両手を広げてみた。当然何も起こらなかった。
門を抜けると、なだらかな階段がずっと上まで続いていた。上まで昇り終えたころには、額にじんわりと汗がにじんでいた。人間らしい生理現象が、少しだけ嬉しかった。微かに金木犀の香りが鼻の先を掠めた。
暫く歩いていると立派な本堂が目に飛び込んできて、圧倒されその場に立ち尽くしてしまった。やけに古めかしい建物だ。思わず懐から携帯電話を取り出して調べようとしてしまった。戦国時代での生活が長くなり、現代の感覚も段々と薄くなっていったけど、いざ現代に戻ると、不思議な事に当時の感覚が不意に蘇ったのだ。それでも、僕の心の中には承芳さんの温かい笑顔が残ってる。
ジャラジャラと砂利を踏みしめる音が響いたが、この音は他の人の耳には届かない。この世界に僕はいないから。石畳の道を肩を並べて歩く老夫婦は、季節の花々の色や香りを楽しんでいた。僕の目の前まで来ても存在に気が付かない。すうっと空気のように僕の身体を通り過ぎていった。はぁ、分かっていても心にずしんと孤独感が襲う。
カランッと乾いた音が響いた。ほぼ無意識に音の鳴った方向を見る。
「貴方様は……」
初めてこの世界で人と目が合った。本堂の縁側を掃き掃除するお坊さんが、手に持った箒を落として、僕の方をポカンとした顔で見つめていた。年は僕のおじいちゃんと同じくらいか、少し上に見える。亡くなる直前まで竹刀を振るっていた分、おじいちゃんは他の同じ年の人よりも若く見えた。
信じられない状況に、あんぐりと口を開けたまま何も言えないでいると、お坊さんの方から恐る恐る近寄って来た。
「関介様、よく此処まで辿り着きましたね」
「へえ? どういう意味、って何で名前を?」
困惑する僕と反対に、落ち着きを取り戻したお坊さんは、柔和な笑顔を向け優しい声で話した。
「よく知っていますよ。貴方様が何処から来られたかも、全部」
「だからどういう意味で」
「話は歩きながらにしましょう。貴方様は此処で、ある物を見る必要があります。そこまでの道案内がてら、私のお話に付き合って頂きましょう」
僕の言葉を遮ってお坊さんは、石畳をすらすらと歩いて行った。置いてかれないよう僕も背中を追って歩いた。いつの間にか周りの音が消えていた。さっきまでいた老夫婦の姿もなかった。
本堂の脇の道を歩き暫くしたころ、お坊さんはぽつりと話し始めた。
「それにしても、よく此処に来られましたね? やはり、強く固い結びつき、いわば絆で繋がっているのでしょうな」
「何のことです? それと、どうして貴方は僕の姿が」
「見えますとも。私はこの世界の案内役なのですから」
何だか勿体ぶるような言い方に、少々うんざりしてきたな。まるで雪斎さんみたいだ。子供をあやす大人のような余裕な態度だ。
「何だか分かんないですけど、僕が時渡りで戦国時代からこの現代に来たということは、貴方にはお見通しなんですよね」
ぴたりと足が止まり、危く背中にぶつかりそうになる。一瞬ポカンとした表情になったかと思うと、ふっとまた余裕そうな笑みを浮かべた。
「ここは現代ではありませんよ。名前は特にないのですが、強いて名付けるとしたら、選択の場でしょうか」
じゃぶじゃぶするとこ? ジェスチャー付きで聞くと、首を横に振り嘲笑気味の笑みを向けられた。今馬鹿にされた?
「どちらか一方を選ぶ選択の場です。そして選ぶのは貴方様ですよ」
「どちらか一方って、何と何を選ぶんですか?」
それはついてからのお楽しみですと歩き出した。またはぐらかされてしまった。
お坊さんの背中越しに見えたのは小さな祠だった。彼は祠の目の前で膝をつくと、手を合わせ目を閉じた。僕もそれに倣って目を閉じる。誰か分からないけど黙祷。
「この祠に眠る人を、貴方様はよく知っているはずですよ」
「へえ、そんな有名な方なんですね」
僕の顔を見て含みのある笑みを浮かべた。それが妙に不気味で、背中に冷たい汗が伝った。ひゅっと喉の奥で細い息が鳴った。
「貴方様には分かるはずです。此処に眠っているのが誰なのか。触れてみれば、きっと声が聞こえますよ」
そう言ってお坊さんは、観音開きになっている祠の扉を開けた。意外にも中は簡素な作りで、一つの卒塔婆がポツンと置かれているだけだった。触れたら声が聞こえる。彼の言ってる意味は分からないけど、ものは試しだ。恐る恐る祠の中に顔を近づけ、そっと卒塔婆に触れた。もちろん何も聞こえない。そう思って直ぐに手を放そうとした時、僅かな男の声が聞こえた。背中にぞわぞわっと鳥肌が広がり、思わず手を放してしまった。すると直ぐに声は聞こえなくなった。
「ななっ、何ですか今の!?」
「もう良いのですか? 貴方様の大切な御方なのでは無いですか?」
「僕の、大切な人?」
勇気を出してもう一度手を伸ばす。よく見る木製の卒塔婆で、長い月日が経ったのか、元の色が分らないほど劣化している。無機質な冷たい感触が指の先に広がる。
「……すけ、関介……」
ハッとした。確かに声が聞こえる。それも僕の名前を呼んでいる。無機質だったはずの卒塔婆から、どうしてかよく知ってる温もりを感じる。
お坊さんの顔を見ると、満足そうに頷いて言った。
「そうです。この祠は、今川義元様のお墓です」
「承芳さんの……お墓」
足の力が抜け、僕はその場に膝をついてしゃがみ込んだ。ぐるぐるとした感情が胸の中を渦巻き溢れだした。頬を冷たい涙が伝った。
「承芳さん、承芳さぁん! 死んじゃ嫌です、承芳さぁん!」
涙がとめどなく流れる。悲しいとか寂しいとか、マイナスの感情を涙と一緒に全て吐き出した。お寺の静かな境内に、僕の泣き叫ぶ声だけが響き続けた。
そっとしゃがみ込む僕の肩に、お坊さんのごつごつした手のひらが乗った。顔だけを向けると、柔和な笑顔なお坊さんと目が合った。
「言ったでしょう、此処は選択の場ですと。貴方は選ぶのです」
「ぐすっ、だから僕は何を選べばいいんですかぁ」
「現代か、戦国時代かです。現代を選べば、おじいさまの形見を落としたあの日に戻り、記憶も全て元通りになります。貴方様が戦国時代で生きた痕跡は跡形もなく消え去り、あるべき歴史の流れに戻るのです」
僕の生きた痕跡が消える。承芳さんとの日々が、まるで泡沫のように消えてなくなる。でもあるべき歴史と言った。思えば、僕が戦国時代で生きるという事は、歴史の流れに異物が混ざるという事。本来あってはならない事なんだ。
「戦国時代を選んだらどうなるんですか?」
「勿論、そのまま戦国の世に戻るだけです。ただ歴史の流れが変わり、貴方様が現代で生きるという未来は来ない事になります」
「どうして、どうしてそんな事を僕に選ばせるんですか」
涙でぼやけた視界の中でも、お坊さんの顔はくっきりと映った。ベッドの上で横になった、亡くなる日の直前の祖父のような優しい顔だった
「貴方様が形見として受け取った金塊こそ、時渡りの力そのものです。本来出会うはずの無い二つの金塊がぶつかり、歴史の流れは二つに割れました。歴史は一つの大河でなければならないのです。貴方様が現代に戻り、あるべき姿に戻るか。あるいは貴方様の金塊を破壊する事で、貴方様が現代で生きる未来を閉ざし、戦国時代で生き、死んでゆくのか」
彼は二つの指を立てて僕に迫った。
「さあ、お選びください」
僕は承芳さんと生きる道を選びたい。承芳さんと約束したんだ、平和な世の中にするんだって。まだ道の途中なんだ。
だけど戦国時代で生きる事を選ぶのは、おじいちゃんが、お母さんが、お父さんが、僕の命を繋いでくれた大切な人たちの想いを裏切るという事だ。
空を見上げた。どこまでも広がる青空だった。お母さんなら、お父さんなら何て言うんだろうか。きっと、泣いてる僕の背中をそっと撫でて、大丈夫だよって声を掛けてくれるんだろうな。おじいちゃんは、泣いてる僕を叱りつけるんだろうな。いっぱいいっぱい、愛情を貰ったんだな。
僕は既に覚悟を決めていた。涙を拭い晴れ晴れとした顔でお坊さんの顔を見た。
「僕は戦国時代で生きていく。承芳さんと出会ったあの日から、僕の運命は決まっていたんです。それに、未来は消えてしまうかもしれないですけど、大切なものは心にちゃんとあります。僕が僕である以上、絶対に消えたりしません」
「本当によろしいですか? もう二度と、引き返せませんよ」
「はい、大丈夫です。あの人、僕がいないと直ぐに泣くんだから。僕が隣にいなきゃダメなんですよ」
腰の短刀を抜きさる。懐から取り出した金塊を頭上高くに投げると、一瞬で息を整え一閃。金塊が真っ二つに切れ、その隙間から金色のまばゆい光が辺り一面に降り注いだ。僕は光の中心にいた。
「関介様、くれぐれもお気をつけて」
お坊さんの姿は見えなくて声だけが聞こえる。僕はキュッと目を閉じた。頭の中心に雷のような痛みが襲う。両手をぐっと握り、叫びたくなるのを堪える。段々と意識が遠のいていく。身体が軽く宙に浮いているような。
目を覚ますと目の前には、瞳に涙を溜め心配そうに僕の顔を覗く関四郎さんの顔があった。やっぱり、関四郎さんは優しいんだから。
僕が目を覚ました事に気が付いた関四郎さんは、ぱあっと顔を明るくしたかと思うと、直ぐに涙を拭っていつもの仏頂面になった。
「なんだ目を覚ましたのか。まあ俺からすれば、そのまま永遠に寝ていた方が良かったんだがな」
「ふ~ん、そっかぁ」
「何だその目は! 俺を馬鹿にしてるのか!」
あんまり揶揄うと、本気で殴って来るのでこの辺でやめておく。体を起こした僕は、そのままの勢いで本堂の出口まで向かった。
「それじゃ僕は行きますね。僕を待ってる人がいますから」
「ふんっ、それならさっさと行けばいいだろ」
背中を向けたまま、僕は大きく頷いた。一歩踏み出す前に、僕は懐の巾着を取り出し、その中身を手のひらに出した。丁度真っ二つに割れた金塊が、ころっと手のひらの上を転がった。あれだけ輝いていたのに、今はくすんで見えた。
お守りは関四郎さんに託します。ずっと先の未来まで、関四郎さんなら届けてくれる信じているから。その未来に僕はいないけど、僕に代わって未来を生きる誰かがいる。その人にとって僕は過去の人間に見えるだろう。だけどこの瞬間は、僕にとって今なんだ。
僕は馬を走らせとあるお寺に向かっていた。雪斎さんに何処に行くのか尋ねられたが、何も言わず飛び出してきた。僕は心に深い傷を負った彼と二人きりで会いたいんだ。
臨済寺に到着した。前に承芳さんと一緒に氏輝さんのお墓参りに行ったときは、多くの民衆で賑わっていたが、今日はシンと静まり返っていた。寂しいけど今は丁度良かった。閑静な境内を道順に進むと、氏輝さんが眠るお墓の前に小さくなった人の影が見えた。僕はそっと後ろから近付いた。急に声を掛けて驚かそうとも思ったけど、この周辺一帯に漂う重たい悲壮感を感じ、今日はやめることにした。
「承芳さん、こんなとこにいたんですね」
「関介……よくここが分かったな」
膝を抱えて小さく座り込む承芳さんの隣に腰掛けた。お互い地面を向いたまま喋る。
「夢の中で、僕を呼ぶ承芳さんの声が聞こえたんです。此処に来れば、何となく承芳さんに会える気がして」
承芳さんは何も言わない。しょうが無いから、僕が沈黙を破ることにした。
「戦を終えてから、一度も承芳さんに会えなかったから心配してたんですよ? 承芳さんの事だし、全部の責任を背負いこんでるんじゃないかなあと思って」
織田との戦に敗れた事を、承芳さんは自分のせいだと思っているに違いない。優しい承芳さんが、人のせいにするところを想像できなかった。
「和尚に言われたよ。戦に敗れたことを決して恥じるな。大将が恥じれば、命を賭した者たちが恥の中で死んだ事になる。それこそが、本当の負け戦だと。幾多の屍の山を築き上げようとも、無様な敵前逃亡をしようとも、最後の戦で勝てばよいのだと」
やっと僕の顔を見た。両の目を腫らし、泣きだしそうな顔で僕を見つめる承芳さんは、誰かが支えなければ今にも崩れてしまいそうだった。
「だが本当にそうなのか? 私はこの戦に勝つことを確信していた。その慢心を信秀に突かれたのだ。これほど惨めで情けない大将が許されても良いのか? 私にはもう、戦場で采を振るう自信など無いのだ」
乾いた瞳が段々と潤んでいき、ついに溢れた涙が頬を伝って地面に落ちた。さっき僕も、別の世界の臨済寺の同じ場所で涙を流した。その時、隣にいたお坊さんは、僕の肩に手を置いてくれた。でもそれは、少し他人行儀に感じる。僕は違う形で承芳さんを慰めたい。同じ時代を生きると決めた、一人の友として。承芳さんの頭を引き寄せ、僕の胸に埋めた。頭の後ろに手をやり、ポンポンと撫でた。抵抗は無かった。
「悲しみも後悔も、二人で半部こにしましょう。いつか泣きじゃくる僕を前に言ってくれたじゃないですか。重たい荷物も、二人で分ければ軽くなるって。承芳さんの重荷を、僕にも背負わせて下さい」
小さな嗚咽が胸の中から聞こえた。肩を震わす承芳さんの背中を優しくさする。
「織田を倒す道を考えましょう。雪斎さんの知恵を借りて、親綱さんの強さを借りて、多恵さんの優しさを借りて。承芳さんは一人じゃないんですから」
「そうだな、関介のおかげで気持ちが楽になったよ。だが、もう少しだけこうさせてくれ」
「はい承芳さん。帰りにお団子買ってくださいよ。約束ですよ」
承芳さんがクスっと笑ってくれた。僕もつられてふふっと笑った。境内にはそろそろ秋の香りが漂い始め、新緑からオレンジ色の装いに移り変わろうとしている。天高い秋空は、雲一つない青空だった。
先の戦に敗れたことで、今川の三河に対する影響力は弱まり、松平家にとって織田家の脅威はより一層強いものになっていた。西の情勢が刻一刻と変化する一方で、今川にとって最大の敵である、北条家を巡る情勢もまた、大きく変化していた。
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