二つの関
眠たい目を擦りながら、僕は静かな廊下を歩いていた。周りに人がいない事をいいことに、気の抜けた大欠伸が止まらない。いや、今の僕なら隣に誰かがいても、同じように大口を開けて間抜け面を晒しているだろう。今朝のあんな恥ずかしい思いをした僕ならね。
というのも、稲穂さんとの事後、二人仲良く全裸のまま布団で眠ってしまった。僕の目を覚ましたのは、そよそよと流れる心地よい風と、僕の名前を呼ぶ侍女さんの控えめな声だった。寝ぼけた頭で、ぼけーっとしていたせいだろう。稲穂さんを起こさないようにそっと布団から出ると、声をする方へ歩み寄った。その瞬間、部屋の中に甲高い悲鳴が響き渡った。それでもなお、何故悲鳴が上がったのか理解できなかったが、赤面して顔を両手で隠した侍女さんの姿を見ているうちに、自分の状況にようやく頭が追い付いていった。
「関介様、寿桂尼様がお呼びです。それでは失礼いたします」
用件だけを消え入るような声で伝えると、いつもは礼儀正しい侍女さんが、信じられないくらいの速さで廊下を駆けていった。後で変な噂が流れたらどうしようと、遠い空を見ながら僕は頭を抱えた。
すると僕の背後で、布団が捲れ稲穂さんが身体を起こす音が聞こえた。稲穂さんは、呆然と立ち尽くす僕の背中に呟いた。
「関介様の変態」
嫌な記憶を思い出し、恥ずかしさのあまりその場で転げまわりたくなる衝動に駆られたが何とか堪え、目的の寿桂尼さんの部屋まで向かった。
寿桂尼さんに呼ばれているとの事だが、思い当たる節は全くもってない。怒られるにしても、褒められるにしても、理由が分かっていれば心の準備が出来るのだが。寿桂尼さんの部屋の前まで来て、一気に緊張感が高まってきた。心臓の音がうるさいくらい響いて、部屋の中にまで聞こえていないか心配になった。
障子に手を掛けては離して。少し手をやってまた離して。そんな動作を十回ほど繰り返したところで、部屋の中からきりっとした女性の声が飛んできた。
「入るなら早うせんか!」
「ひゃっ、ひゃいっ!」
勢いに押される形で思い切り障子を開けてしまい、緊張から足が絡まり、盛大に転んでしまった。おもむろに顔を上げると、じとっと湿った視線を向ける寿桂尼さんと目が合った。ヒッと小さな悲鳴が聞こえ視線を向けると、今朝の侍女さんが寿桂尼さんの後ろにさっと隠れた。もう一度寿桂尼さんの顔を見ると、はぁと面倒くさそうにため息をつき、後ろの侍女さんにそっちへと手で合図を送った。侍女さんはそそくさと隣の部屋へ逃げていった。まるで僕が不審者みたいじゃないか。
「趣味を持つことは自由なのだが、あまり人に迷惑をかけるで無いぞ。それに、其方には妻がいるのだろう。妻を悲しませる趣味は」
「ちょっ、あれは別に趣味って訳じゃ無いですよ!」
「ほう? 常に裸で寝ているのか?」
「ちーがーいーまーす!」
勘違いに勘違いを重ね、寿桂尼さんの中の僕がどんどんと変態男になってしまってる。ジロジロと全身を訝し気に見つめる寿桂尼さんの誤解をどう解こうか。うんうんと頭を悩ませていると、仏頂面だった寿桂尼さんの表情が徐々に破顔していき、ふっと淑やかに微笑んだ。
「すまぬな、つい揶揄っただけだ。そこまで慌てなくともよい、侍女にはわらわから伝えておく」
肩の力が抜け、心の底からの安堵のため息がこぼれた。威厳のある寿桂尼さんって、こんな冗談とか言う人だったのか。こういった悪戯好きなとこが承芳さんに受け継がれたのだろう。
「それで寿桂尼さん、僕を呼んだ理由って何ですか?」
「そうだそうだ、忘れるところであった」
なんだそれと、ついツッコミそうになるのを堪えた。寿桂尼さんは手提げの赤い巾着の中をガサゴソと探し、あったと小さく呟いた。つい彼女の赤い巾着に視線が吸い込まれてしまう。赤い巾着は、現代から戦国時代にタイムスリップした原因の一つであり、僕と戦国時代との繋がりであった。
寿桂尼さんが手のひらに乗せて見せてくれた。僕はあまりの衝撃に言葉が出ず、ただ目を見開く事しか出来なかった。それは本来この時代にあるはずの無いもの。
寿桂尼さんが巾着から取り出したのは、もっと小さくてボロボロに破れてしまった巾着だった。とても丁寧な所作で巾着の紐を解くと、その中身を取り出した。
「どうしてわらわが、これを持っているのか驚いているのだろう?」
僕が僅かに頷くと、寿桂尼さんは満足そうに微笑んだ。彼女が取り出したのは、混じりけのない純金だった。ちらっと見えた、その四角い純金の表には、確かに”関”という漢字が彫られてあった。
「これはわらわが、まだ赤子であったあの子に持たせた物だ」
以前関四郎さんが見せてくれた巾着は、布も新しく鮮やかな赤色をしていた。ただ彼女が握っている巾着は、明らかに劣化が進んでいる。まさに五百年ほど経ったかのように。 間違いない、この巾着は、巡り巡って祖父からの形見として僕の元へ辿り着いた巾着だ。
「どうした? 顔色が優れんようだが」
「あっ、いえ大丈夫です」
そうかと、心配そうに僕の顔を覗く寿桂尼さん。危ない、思わずぼーっとしてしまった。必要以上に動揺してしまえば、寿桂尼さんに知られたくない事までばれてしまう。いたって冷静に。
「それで、どうしてその子に渡したはずの物がここにあるんですか?」
「それはな」
すっと立ち上がり、後ろの障子を開いた。ひょこっと顔を出した小動物を見て、更に鼓動の早まりを感じた。
「この子が届けてくれたのだ」
寿桂尼さんが片腕で抱き上げたのは、真っ黒な毛並をした猫だった。確かな事は覚えていない、数年前の事だったから。あの日僕の財布を咥えていった猫も黒猫だった気がする。これは単なる偶然なのか、はたまた目の前の猫が現代から来たあの日の黒猫なのか。
目を細めて猫の頬をなぞる寿桂尼さんは、難しい顔をしている彼女よりもずっと若く見えた。彼女が僕の方を見ると、実はなと続けた。
「織田との戦に敗れたと聞き、心配で庭先でうろうろとしていたのだ。すると、すっかり疲弊した様子のこの子が現れ、わらわの目の前で倒れたのだ。その時、口元から零れ落ちたのがこの巾着だった」
「もしかしたら、元の持ち主である寿桂尼さんへ届けに来てくれたのかもしれませんね」
「わらわもそう思っておる」
ふと寿桂尼さんの表情に、暗い影が差した。心配そうに眉をひそめた。
「もしや、あの子の身に何かあったのでは。だがどれほど心配しても、わらわから会いに行くことは出来ぬ。とはいえ、こんな大事な物を、他人に持たせ渡しに行かせるのもまた、わらわには出来なかった。そこで、其方を呼び出したのだ」
なるほどそんな経緯があったのか。とはいえ、寿桂尼さんから見たら、僕だって他人のはずなんだけど。でも、僕がそれだけ頼りになると思われているのだとしたら素直に嬉しい。
「そんな大事な物、僕が関四郎さんのとこまで持っていってもいいですか?」
「ああ、法菊丸の友である其方なら信頼できる」
僕の目をしっかりと見つめ、凛とした声で言った。それだけ言い切られてしまっては、やるしかないだろう。右の手のひらを差し出すと、寿桂尼さんは慎重な手つきで巾着を乗せた。この感触。やっぱり間違いない。気のせいかもしれないけど、死に際のおじいちゃんの温もりを感じる。
「任せて下さい! 不肖関介、寿桂尼さんの任務を無事遂行してきます!」
「ふふっ、そう肩肘を張らずともよい。其方なら、必ずや関四郎に届けてくれると信じておる」
最後に柔らかで上品な笑顔を見せてくれた。僕は深々と頭を下げ、部屋を後にした。何だか引っかかる事があったが、気にせず関四郎さんももとへ急いだ。
関介の小さくなっていく背中を見つめる寿桂尼が呟いた。
「あの子は、よい友を持った。のう為和」
「そうですね、寿桂尼様」
いつの間にか、寿桂尼の背後に腰掛ける冷泉為和が慇懃に言葉を返した。二人は顔を見合わせ、ほっと暖かな息をついた。
「為和、お前には関四郎の事で世話を掛けた。改めて礼をさせてもらう」
軽く頭を下げる寿桂尼に、為和はいえと首を横に振った。
「寿桂尼様の御心を思えば、私の行いなど何でも御座いません」
そうかと寿桂尼が、そうですともと為和が返した。
二人の話題は直ぐに関介へ変わった。
「関介殿、誠に関四郎様とそっくりでございますな。まるで血を分けた兄弟」
「まっこと、不思議な事もあるのだな。関介と関四郎。同じ関の名を持つ、姿の似た二人。もしや我らには到底見えぬ、深い因果というものがあるのかも知れぬな」
「そうですね、寿桂尼様」
二人で関介の去った方角を眺める。縁側を降りた庭先には、紫鮮やかな桔梗が咲き誇っていた。群れにはぐれてしまった二輪の桔梗の花が、まるで寄り添うようにポツンと咲いていた。まだ少し夏の熱気を含んだ風が、花びらを強く揺らした。
「それにしても関介殿は」
冷泉為和の言葉を遮るように、寿桂尼はピシャリと言った。
「勘が鈍いな」
「ええ、非常に鈍いですね」
二人の忍び笑いが、部屋の中に小さく響いた。
早く関四郎さんのとこへ行かなきゃ。段々と周りの緑色が濃くなってきた。深い森を更に走ると、今度は沢山の墓が並ぶ墓地が見える。そこから草木を掻き分け、苔に隠れた石畳の上を進むと、一つの廃寺が現れる。砂利を蹴って、ジャラジャラとわざと大きな音を出す。すると正面の扉が開き、中から不愛想な一人の青年が姿を見せるのだ。
「久しぶり、関四郎さん」
「何しに来たんだよ、関介」
ぶっきらぼうな返事をする関四郎さんだけど、彼が本気で嫌がっている訳じゃない事くらい、表情を見れば明らかだ。ふっと鼻を鳴らしながら、ゆっくりと階段を降りて来る。よく見ると、以前腐って壊れてしまった階段の板が、綺麗に直されていた。見かけによらず器用なんだな。僕が器用ではないからそう思ったのだ。
「今日は大事な用があって来ました。直ぐに上がりたいんで、ふかふかの座布団と、温かいお茶を用意しといてください」
「帰れ」
くるっと反転して、本堂の中にさっさと入って行ってしまった。僕も関四郎さんの背中を追いかけた。
「座布団はふかふかじゃないし、これって干し柿?」
綿がすっかり抜けて、ただの布切れ同然となってしまった座布団に座り、目の前の干し柿を見つめた。
「嫌なら帰れ」
まぁ僕が無理言って押しかけたわけだし、ここは我慢しよう。それに干し柿は大好きだし。一口で頬張ると、口の中に熟れた柿の甘みが広がる。これは絶品だ。用がすんだら沢山お土産を貰おう。
「まぁ、美味しい干し柿に免じて許すとしましょう。で本題なんですけど、これを見て下さい」
懐から取り出した巾着を見せると、関四郎さんは不思議そうに首を傾げた。
「ただの薄汚れた巾着じゃねえか。そんな物を見せるためにわざわざ此処まで来たのか?」
「これを見れば分かります。きっと関四郎さんも見覚えがあると思いますよ」
尚も不思議そうに首を右に傾ける関四郎さんの目の前で、巾着の中身を取り出して見せた。手のひらにコロンと転がったそれは、金属特有の冷たさがあった。関四郎さんの瞳が大きく開かれた。
「それは……少し待ってろ」
そう言い、バタバタと戸棚の方へ駆けていき、ガサゴソと探し物を始めた。小さな木像や木魚、名前は知らないけどシャンシャン鳴らす鈴が付いたあれ。色々な物が床に落ちた。廃寺とはいえ、住職が仏教で使う道具をあんなにぞんざいに扱っていいのか。
あったと、大きな声が響いた。戸棚の扉を閉めるのも忘れ、慌てた様子で僕の前まで走って来た。
「これは、俺が寿桂尼様から貰ったものだ。見てみろよ」
鮮やかな赤い巾着から転がって来たのは、僕の手のひらの物と同じ、”関”の字が彫られた四角い純金だった。
「僕も同じ話を聞きました。寿桂尼さんは、今僕の手のひらにある純金を見て、確かに赤ん坊だったころの貴方に渡したと言ったんです」
「今俺とお前の目の前に、同じ純金が二つある」
「そうですね。現実ではありえないような出来事が起きてます。こんな事が起きた原因は一つしかありえません。それは」
「「時渡り」」
僕と関四郎さんの声が重なった。
時渡りが起き、現実でおじいちゃんから貰った純金が、僕と一緒に戦国時代に渡って来たんだ。そして、そんな不思議な現象が、一つの事実を浮かび上がらせた。
僕がこの事実を伝えたら、関四郎さんはどんな反応を見せるだろうか。失望するかも。もう一生で会えなくなるかも。一瞬だけ、二人の間に重たい沈黙が続いた。僕が思い悩んでいる間に、関四郎さんが先に口を開いた。
「すまない関介。お前にはずっと黙っていた事があった。それを伝えると、お前を傷つけてしまうのでは思って、何年も言えずに、いや違う。お前と初めて会った時から、俺は気が付いていたんだ」
関四郎さんと初めて会った時の事を思いだす。こんなに顔の似てる人、初めて会った。直感的に運命のようなものを感じた。僕は関四郎さんの次の言葉を待った。
「関介、お前は時渡りでこの時代に来たんだな」
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