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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
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第一次小豆坂の戦い 終戦

 視界が揺れている。というより、僕の体が揺れているんだ。ぼやけた頭で辺りを見渡し、誰かの後ろで馬に乗っているという事は分かった。小さな背中を撫でると、ひゃっと可愛らしい悲鳴が上がった。


 「やめてくださいよぉ、関介様ぁ」


 「喜介……くん?」


 どうやらこの小さな背中の正体は喜介くんらしい。うう、頭が割れるように痛い。どうしてか馬に乗る前のずっと大事な記憶が飛んでしまっている気がする。もう一度辺りを見渡すと、日もだいぶ傾いてあちこち長い影を作っていた。僕は上下に揺れる喜介くんの背中に向けてぼんやりと呟いた。


 「僕、どうして喜介くんの後ろに乗ってるの?」


 「もう、どうしてしまったのですか、しっかりして下さいよ。奇襲にあった義元様を、関介様が救ってみせたでは無いですか。あの時は錯乱していたようですが、ご心配なさらず。義元様にお怪我はなく、ご無事なようですよ」


 喜介くんの呆れた声が聞こえた。ぼやけていた記憶が段々と明瞭になり、消え去ったはずの手のひらの中の気持ちの悪い感触が鮮明に蘇って来た。自分の両の手のひらを見つめると、じわじわと真っ赤な血が浮かび上がって来た。


 「関介さん? 聞いてます?」


 「うっ、げぇ!」


 胃の中が暴れ、口の中に胃液が一気に流れてきた。止めようとする間もなく、口いっぱいに広がった胃液を全て吐き出した。風を切って走る馬の上という事もあり、黄色がかった嘔吐物は、小袖の胸元全般を汚した。袴からこぼれた嘔吐物が、びちゃびちゃと地面に降り注いだ。

 一度目の波が過ぎ去った直後、二度目の大きな大きな波が襲った。何とか口の中で飲み込もうとしたが、壊れてしまった蛇口のように、押し寄せる嘔吐物は口の隙間からドロドロと漏れ出た。止めようにも、力が入らなかった。


 「ちょっ、関介様!? 申し上げにくいんですが、背中が冷たい気が」


 手綱を握る喜介くんが驚いた声を上げた。彼の背中でそのまま吐いてしまったため、彼の背中も多少汚してしまった。馬具にもべっとりと嘔吐物がかかってしまい、申し訳なさと情けなさで、今度は涙がボロボロと零れてきた。色々な感情が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。


 「ぐずっ、ごめんね喜介くん。ごめん」


 「あー、そんな謝らないで下さい。ほら、もうすぐ今川館ですよ。飛ばしますので、しっかり掴まって下さいね」


 心なしか、馬の脚の回転も速くなった気がする。それもそうか、こんな汚いやつと一緒に居たくないもんな。そんな事を想っていると、更に涙が溢れた。今川館までの間、僕の嗚咽する声だけが小さくずっと響いていた。


 「到着しましたよ関介様。関介様は疲れているでしょうし、自室で着替えてきてください」


 馬から軽やかに飛び降りた喜介くんは、何事も無かったように明るい声で言った。ずしんと落ちでいる僕を元気づけようとしている事は明らかで、更に申し訳ない気持ちが込み上げてきた。

 馬から降り自分の袴を見ると、想像よりも酷い状態だった。これ以上、人前で醜態を晒すわけにもいかない。喜介くんの言う通り、早く部屋へ行こう。その前にと、僕は喜介くんの傍まで近寄り、掠れた声で話しかけた。


 「喜介くん、あの」


 「あの時関介様がいなければ、義元様はもちろん、私も他の仲間たちも、命を落としていたはずです」


 喜介くんはそう言ってニコッと笑った。喜介くんの柔らかい手のひらが、僕の頭を撫でた。彼は子供をあやすような、優しい声で言った。


 「此度の戦は負けてしまいましたが、それで私どもが関介様を失望するような事は決してありません。みな関介様のようなお優しい方についてゆけて幸せに思ってるのですから。戦場で様々な事があり、私には分からない苦悩が沢山あるのでしょう。今はゆっくり休んでください。いつもの優しい笑顔が見られるまで、私どもはずっと待っていますよ」


 そう言い終えると、喜介くんは一度深々と頭を下げ、馬を引いて直ぐにその場から駆けていった。彼の背中をぼやけた視界で見送る。袖で目を擦ると、僕もまた自室へ足早に向かった。

 

 いつもは騒がしい廊下が、今日はとても静かだった。まるで気を落とす僕に気を遣っているみたいだ。がらんとした廊下の奥の方を眺め、ふっと敵兵を貫いたときの感触が手のひらに蘇った。さっきは喜介くんが傍に居てくれたけど、今は違う。近くに承芳さんもいない。僕一人だ。

 床にポタっと雫が落ちた。膝の震えが止まらない。もう少しで自室につくのに、足が鉛のように重たくてうまく動かない。静まり返った廊下に、僕の嗚咽が響いて直ぐに消えた。この胸の中に溜まった気持ちの悪い感触を、誰かに吐き出したかった。僕の弱さを全部見せられる人に。承芳さんは今はいない。苦しくて苦しくて、涙がとめどなく流れて止まらない。

 やっと自室にたどり着いた。障子でさえ大きな城門のように感じてしまう。直ぐに着替えを済ませて、その後は布団で横になろう。


 「おかえりなさいませ、関介様」


 その瞬間、自責と後悔の念で縛り付けていた心の鎖が解けていった。手のひらに残った気持ちの悪い感触も、すっかり消え去っていた。


 「稲穂さん、どうして此処に?」


 嬉しさ半面、困惑したまま部屋の中に足を踏み入れた。後ろ手で障子を閉め、正座のまま僕を見上げる稲穂さんのすぐ正面まで歩み寄る。彼女の優し気な視線に、心の中に温もりが広がる。ただ稲穂さんは何も言わない。もしかしたら、負け戦から帰って来た僕を憐れんでいるのかもしれない。

 もう一度声を掛けようとした時、稲穂さんの瞳がキラリと光り、僕は思わずはっと息を呑んだ。彼女の頬に、一筋の涙が流れていた。僕が動けないでいる間に、稲穂さんは腰を浮かせ僕の胸へ飛び込んできた。


 「稲穂、関介様の帰りをずっと待っていました!」


 「いっ、稲穂さん。その、汚いから今は離れて」


 「放しません! 稲穂はもう、関介様の傍から離れたくないんです!」


 僕の帰りを待ってくれている人がいた。僕の中の張り詰めていた糸がプツンと切れ、その場に膝から崩れるようにしゃがみ込んだ。ここに来るまでに出し切ったと思っていた涙が、止めどなく流れだした。

 胸に顔を埋める彼女の背中に手を伸ばして、僕は彼女の体を包み込むように抱いた。


 「稲穂さん、ぼく、ぼくね、初めて人を殺したんだ」


 彼女は何も言わず、うんうんと頷いた。


 「相手は承芳さんを殺そうとしていた。だから僕は必死に承芳さんを守ろうとしたんだ。でも、苦しいよ。耐えられないよ。大切な人を守るために人を殺すなんて、絶対におかしいよ」


 「うん、うん」


 「承芳さんを守るためなら、また僕は人を殺さなければいけない。そんなのもうやだよ。僕もう、どうすればいいか分かんないよ」


 言いたい事だけ無責任に叫んで、それから僕は稲穂さんの胸の中で子供みたいに泣き続けた。彼女は僕の背中を優しく、何度も撫でてくれた。まるで我が子を寝かしつける母親のように。

 稲穂さんの土と埃が混じったような匂いに包まれて、汚れていた感情が全部溶けていくようだ。


 「関介様は、もう十分傷つきました。たまにはこうして、稲穂の胸を借りて下さいよ。だって稲穂たち、夫婦じゃないですか。夫婦なら、喜びも悲しみも半分こですよ」


 緊張の糸が切れ、どっと疲れが全身を襲う。程よく弾力のある胸の中で、段々と意識が遠のいでいく。ああ、温かい。稲穂さんの息遣いが間近で感じられる。薄れゆく意識の中、頬に柔らかな感触を覚えた。それが何だったのか理解する前に、僕の意識は深い睡眠の中に沈んでいった。


 目が覚めた時、開け放たれた障子の外から、可愛らしい雀の囀りが聞こえてきた。そうか、もう朝になったのか。朝の淡い光が縁側に差し込んで、眩しくてきゅっと目を閉じた。

 何気なくごろんと寝返りを打つ。何故か僕の目の前には、すぅと小さな寝息を立てる稲穂さんがいた。どうして。ぼけぼけした頭をフル回転させても答えが見つからない。ふと下半身がスースーする事に気が付いた。というか、上半身もやたらと風通しがよい。布団を捲ると思わず吹き出しそうになった。何故か僕が身に着けているのは褌だけで、ほぼ裸だったのだ。ただそれ以上に驚いたのは、隣で眠っている稲穂さんもまた、一糸まとわぬ姿なのだ。


 「んん、あっ関介様。起きていらしたのですね。ふふっ、おはようございます」


 「おはよう……じゃないよ! どうして僕ら裸で寝てるの! それも同じ布団で!」


 ぽけっとした顔の稲穂さんは、特に恥じらう様子もなく訳を説明してくれた。顔を真っ赤にして慌てた僕が馬鹿みたいだ。


 「昨日、あのまま関介様は寝てしまいました。ですがお召し物が汚れたままは寝苦しいと思いまして、その、勝手ながら稲穂が全て脱がせていただきました」


 そっか、と軽く納得してしまいそうになったけど、それだけでは説明できていない事がある。僕が裸の理由は分かったが、ではどうして稲穂さんまで着物を全部脱いでいるんだ。

 僕が訝し気な視線を向けると、稲穂さんはバツが悪そうに視線を外し、くるっと身体を反対側に向けてしまった。彼女の艶やかな白い肌を視線でなぞると、つい淫らな想像をしてしまう。

 彼女の背中が微かに震え、消え入りそうな声で呟いた。


 「関介様を元気づけようと脱いだのですが……関介様が全く起きてくれなくて……」


 それってつまり。ごくりと生唾を飲み込む。頭は冷静になろうと努めているのに、僕の身体の一部に熱が集まり、今にも暴れようとしている。

 彼女の髪を触れると、くすぐったそうに首をよじった。そんな所作がいちいち可愛くて、僕の中の性欲が沸々と溢れてきた。


 「それって、今からでもいい?」


 彼女の背中に向けて振り絞る声をぶつけた。数秒の沈黙の後振り返った彼女の顔は、熟れた林檎のように真っ赤だった。今度はしっかり僕の目を見つめていた。それが僕の質問への答えだった。

 彼女の柔らかな唇と重なった。甘くて、酸っぱくて、土の味がした。舌が重なる淫乱な音が部屋の中に響いた。

 戦の準備が続いて、こうやって愛し合うのは久しぶりだった。ここ数日、悩み悲しみ、絶望してばかりだった。その全ての感情が、蕩けるような幸福感に塗り替えられていく。愛し合う二人の密な時間は、疲れて二人して熟睡するまで続いた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

読んで頂いただけで嬉しいです。

感想や、評価していただけるともっと嬉しいです。

続きを読んで頂ければ号泣します。

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