第一次小豆坂の戦い④
「承芳、直ちに撤退の指示を出せ! おい、何を呆けておる!」
雪斎さんの鋭い声が響き渡る。雪斎さんから声を掛けられた承芳さんは、地面をキッと睨んだままその場を動こうとしない。一体どうしたというんだ、こんな緊急事態に。他の家臣たちは、直ぐに退却できるよう、既に馬を引いて準備をしている。敗色は兵士たちにも伝わっており、水面に映る波紋のようにどんどんと広がっていった。
苛立ちを隠そうとしない雪斎さんは、承芳さんの傍まで近寄ると、胸倉を掴み唾を散らして怒号を浴びせた。
「大将のお前が指示を出さねば、家臣はついてこないのだぞ! お前はここで、集団自決でもする気か!」
あそこまで感情を露わにして怒っている雪斎さんを見たことが無かった。それだけ緊急事態だということだ。それでも承芳さんは、雪斎さんの目を睨んだまま何も話そうとしない。何も言わない承芳さんに更に苛立ったのか、胸倉を掴む力がより強くなる。
バシッと乾いた音が響き、一部始終を見ていた人は恐らく目を疑っただろう。承芳さんが、雪斎さんの腕を思い切り振り解き、その勢いのまま言葉を発した。
「まだ負けてない!」
それは承芳さんの心の叫びだった。戦場から今すぐにと逃げ出そうとしていた家臣たちも、二人の言い争いを、いつの間にか固唾をのんで見守っていた。まるで親子の喧嘩みたいだ。
言い返された雪斎さんの顔は、みるみるうちに紅く染まっていった。怒りがピークに到達したのか、こめかみに青筋を立て、唇をわなわなと震わせていた。
敵が迫っているというのに、この師弟はじっと睨み合いを続けている。このままでは、敵がこの場に攻め込んできても喧嘩を続けるだろう。本当は嫌だけど、二人の間に入り仲裁をしようと試みてみた。
「あのう二人とも、今は喧嘩をしている場合では……」
「関介は黙ってろ!」
「関介殿は、黙っていてくだされ!」
あ、はい。もう何も口を挟みません。泣きそうになるのを必死に我慢して、僕は後ろに下がった。
「現実を見ろ、我らは織田に敗北したのだ!」
「まだ前線が崩れただけだ。我らには一万の兵が……」
「この愚か者が、まだ言うか!」
雪斎さんは振りかざした拳を、肩の高さのところでなんとか止めた。思わず止めに入ろうとした家臣たちの足がぴたっと止まった。殴られると思ったのか、承芳さんは反射的に手で頭を守り、その場に膝を折ってしゃがんだ。完全に頭に血が上っている雪斎さんとはいえ、超えてはいけない一線は見えているようだ。戦中で味方同士が争って、いい事なんて一つもない。松平広忠さんの父、清康さんも、戦中にて仲間の手よって殺されたらしい。僕も知ってる、あの織田信長も家臣に殺されるんだ。
だがほっと安堵する僕らをよそに、承芳さんは下から睨みつけ、挑発するように言った。
「怖いからだろう。和尚は死ぬのが怖いだけなんだ」
言い終わる前に、雪斎さんの硬い拳が承芳さんの頬を殴りつけた。安心してほっと一息ついていた僕らでは間に合わなかった。殴られた承芳さんは、後ろに飛び地面に尻もちをつくように倒れた。
雪斎さんの怒りはそれだけでは収まらなかったのか、脇に差した刀を抜き、地に伏せる承芳さんへ迫った。もはやただ事ではないと感じ取った周りの家臣たちが、数人がかりで雪斎さんを羽交い絞めにする。僕も承芳さんと雪斎さんの間に入り、鼻から血を流す承芳さんの顔を覗き込んだ。承芳さんの瞳には、明らかに鋭い怒りを纏った危険な光が宿っている。それは雪斎さんも同じだ。二人とも冷静じゃない。
「二人とも、冷静になって下さい。ここで争っても意味無いでしょ。雪斎さん、頭のいい貴方なら、僕に言われなくたって分かるでしょう」
真剣な目を向けると、怒りの感情に塗り潰されていた表情が、少しずつ和らいでいった。
「関介殿に叱られる日が来るとは思いませんでしたよ。申し訳ありません、私としたことが取り乱しました」
冷静を取り戻した雪斎さんとは対照的に、僕の顔の下で倒れてる承芳さんは、狂暴な野良犬のように噛みつく気満々な顔をしている。僕は承芳さんの頬を両手で挟むと、僕の顔の方へ無理やり向けた。
「承芳さんも、少しは大将らしくしてください。なに寝転んでるんですか。そんな暇があったら、僕らに正しい指示を出してください」
僕がそう言うと、むうと唸り声をあげ僕の手を振り払い、がばっと立ち上がった。立ち上がるやいなや、力強い声で言い放った。
「分かった、ならまだ戦える。今川の兵が、織田如きに負けるわけがない!」
ぶちっと、雪斎さんの血管が切れる音が聞こえた気がした。あーあ、また大喧嘩かなこれは。もう知らんと、僕がため息を溢した直後、陣幕の外からひょこっと顔だけ出した喜介くんが、中の異様な空気を感じ取ったのか、とても遠慮がちに小さな声で言った。
「お取込み中申し訳ございません。ですが、その、坂の下が何だか騒がしいような」
喜介くんが言い終えた瞬間、地面を揺らすような狂喜乱舞する声が聞こえた。織田の兵がすぐそこまで来ている事を理解すると共に、直感的に言葉には表せない不安感を覚えた。以前戦った北条の軍勢とは違う、身体の奥から震えるような不気味な恐怖を、織田軍から感じ取った。これは直ぐにでも撤退しないとやばい。承芳さんも僕と同じ感覚を覚えたのか、ついさっきまでの威勢は消え去っていた。
頭ですべきことを考える前に、身体が動いていた。顔だけ出す喜介くん目掛けて叫んでいた。
「喜介くん! みんなを連れて今すぐ僕のもとへ来て! 早く!」
一瞬困惑の表情を浮かべた喜介くんだったが、鬼気迫る僕の声を聞いて、直ぐに身を翻した。僕はもう一度承芳さんの方を見た。今度は真剣な目をぶつけた。
「承芳さん、僕は貴方の指示だけに従います! さあ早く、決断してください! 承芳さん!」
今にも泣きだしそうな承芳さんは、震える唇を噛み頭を掻き毟った。目をぎゅっと閉じて地面に顔を向ける。逡巡する時間は限られている。みんな承芳さんの言葉を待っていた。
意を決したように顔を上げると、目尻に溜まった涙が跳ねた。
「全軍撤退だ!」
「はっ!」
家臣の声が重なった。みんな織田の軍が迫る坂の下ではなく、その反対方向へ一目散に走っていく。
「関介様! みなを連れてきました! それと、織田の軍勢は目前まで迫っています!」
「みんな、撤退だ。一番に自分の身を守るんだ。何としても生きて、駿府の地で会おう!」
若い返事が次々に上がった。一人また一人と、僕の隣を頭を下げ通り過ぎていく。最後の一人、喜介くんが僕の前で足を止めた。心配そうな顔で、僕の目を見つめた。
「関介様は逃げないのですか?」
「うん、まだやる事があるからね。喜介くんは、他のみんなを任せたよ」
力強く頷いた喜介くんは、直ぐに身を翻し、陣幕の外へと消えていった。今この陣幕の中には、僕ともう一人しかいない。その一人は、こんな緊急事態だというのに、呑気に空を見上げたままぼんやりと立ち尽くしている。
僕は彼の隣に立ち、同じように空を見上げた。ぽつっと、頬に冷たい雫が落ちた。何粒も何粒も僕の頬を濡らした。雲空はとうとう雨空になってしまった。
「承芳さん、逃げますよ。織田の兵がもうすぐ傍まで来ています」
「なあ関介。私の決断は間違っていないよな?」
すぐ隣で聞かなければ、雨音で消えてしまいそうなか細い声だった。
僕はあえて何も答えなかった。僕が黙っていると、承芳さんは自嘲気味に微笑んだ。彼の口の隙間から、掠れた声が漏れた。
「前線で戦う者たちを置いて逃げるのが、本当に正しい決断なのか?」
ちらっと承芳さんの横顔を見ると、頬からぽたぽたと透明な雫が滴っていいた。僕にはそれが、雨なのか涙なのかは分からなかった。
「承芳さんの決断が正しいかどうか、その答えはきっと、承芳さんにしか辿り着けないんだと思います。そして、僕にとっての正しい決断は、何があっても承芳さんを護るという事なんです。だから承芳さん、早く逃げましょう。駿府へ生きて帰るんです」
そう強く言い、僕は承芳さんの手を取った。承芳さんの温もりがじんわりと手のひらに広がる。承芳さんの手は震えていて、握り返す力は弱弱しかった。
僕が彼の手を引いて走り出そうとした瞬間、陣幕を鋭い刃が切り裂いた。姿を見せたのは、返り血で赤く染めた甲冑に身を纏う織田の兵だった。彼は血走った眼を僕らに向け、ニヤリと不気味に笑った。その男の後ろから、更にもう一人の兵が顔を覗かせた。
「丁度良く逃げ遅れた兵がいるじゃねえか。手柄を立てる絶好の好機だなあ」
「おい、お前は既に三つ首を取ったんだろ、俺はまだ一つなんだ。そいつらは俺に譲れよ」
「ああん? そんなもん、早い者勝ちに決まってんだろうが」
「ちっ、それもそうだな」
三つの首とはつまり、三人を殺したという事だ。人を何人も殺しておいて、二人はまるで、テレビゲームでもしているような会話を交わしている。ゾワリと全身に鳥肌が広がっていく。彼らが怖いのではい。人の命がただの数字になってしまう、この異常な戦というものが怖かった。
「承芳さん! 早く逃げましょう!」
僕らが土を蹴るのと同時に、織田の兵たちも僕ら目掛けて走り出した。陣幕を振り払い、雨で緩くなった地面を一目散に走った。捕まったら殺される。その恐怖が、足の疲労を忘れさせてくれた。
どれだけ走っただろうか。無我夢中で分からないけど、背中に感じていた敵の気配は、いつの間にか消えていた。シンと静まり返る森の中に僕らはいた。僕と承芳さんは、お互い顔を見合わすと、ふっと安堵の息を吐いてその場にお尻から座った。承芳さんの顔は、涙や汗、泥で汚れて見るに堪えない姿をしている。きっと僕も同じに違いない。頭上からチラチラと淡い光が流れた。丁度開けたこの場所は、辺りよりずっと明るかった。見上げると、木々の隙間から覗く空はすっかりと晴れ渡っていた。
「ふぅ、何とか逃げ切りましたね」
「そうだな。危く殺されるところだった。関介のおかげだ、ありがとう」
承芳さんが殊勝にも頭を下げて謝る。僕はその後頭部に、一発拳を振り下ろした。ゴチンと気持ちの良い音と共に、承芳さんの鈍い悲鳴が上がった。
「なっ、何すんだよ!」
「いや、承芳さんの癖に落ち込んでるなと思って」
「そんなの、当たり前だろう。この戦の敗因は、間違いなく数に奢った私の慢心なんだ」
そう悔しさをにじませ吐き捨てるように言った。なんだ、まだ落ち込んでいるのか。もう一発殴ろうかと思ったけど、今はやめておいた。後で今川館に戻った後に、いくらでも殴れるから。代わりに僕は、俯いていじける承芳さんに、出来るだけ明るい声で言った。
「反省なんて、帰った後にいくらでもできるじゃないですか。先ずは、命がある事を喜びましょう」
僕の顔を力なく見上げた承芳さんは、泣きそうな顔のままいつもよりへたっぴに笑った。
「おーい! 関介様、義元様! こっちですよぉ!」
反射的に声のする方を見ると、さっき別れた喜介くんが大きく手を振っていた。その背後には、他の子たちや家臣さんたちが見える。やった、これで織田の軍勢からは逃げられたようだ。
「承芳さん、仲間の元へ向かいましょう!」
「ああ、そうだな」
ゆっくりと立ち上がり、手を振る喜介くんのもとへ急いだ。安心したからか、さっき走った疲れがどっと全身を襲う。でも、みんなの元へ行けば安全だ。
そう思った直後だった。
「義元、覚悟ぉ!」
野太い声が響いた。脳より先に、身体が動いていた。
承芳さんを突き飛ばすと、潜んでいた兵の日本刀の刃先が、承芳さんの兜を掠めた。ずれていなければ、首筋に突き刺さっていただろう。倒れ込んだ承芳さんを確認する。ぱっと見怪我はないようだが、頭をぶつけた衝撃で気を失っているようだ。
体勢を直した伏兵が、再度承芳さんの首を狙う。日本刀が倒れる承芳さん目掛けて振り下ろされる。その光景が、不思議と僕にはスロー再生に見えた。気が付いたときには、腰に刺していた刀を抜き取り、兵士の首を貫いていた。
「があっ!」
男の濁った悲鳴が聞こえ、その次にガシャンと重たい物が地面に倒れる音が聞こえた。首の血管から噴き出した血液が、僕の視界を真っ赤に染めた。僕の手のひらの中に、人間の薄い皮とその内側の肉を引き裂く、生々しい感触がはっきりと残った。足元に転がる骸を、虚ろな目で見つめた。まるでフィクションのようで、だけど手の中には、はっきりと現実の感触が残っている。
「人殺し……」
そう呟いた直後、僕の甲高い悲鳴が森の隙間をぬうように響き渡った。誰かが僕の元へ駆けてきたけど、顔を見る事も出来ない。真っ赤な両手で顔を塞ぎ、ただ叫び続ける事しか出来なかった。僕の喉から発せられた声なのに、まるで遠くから聞こえるように感じる。
僕は今日、生まれて初めて人を殺した。
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