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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
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第一次小豆の戦い③

 休憩を終えた後も歩き続け、暗闇でほんの数メートル先も見えなくなってきた頃、一度野営する事と決まった。何だかんだ野宿には慣れており、ごつごつした硬い地面の上での雑魚寝も問題はないのだが、今夜は戦前の緊張もあってか一睡もできなかった。夜が明けて行軍の合図を聞き、眠たい目を擦りながら馬に跨った。承芳さんの方を見ると、僕と同じように真っ赤に腫らした目をしていた。どうやら承芳さんも眠れなかったようだ。声を掛けると、気丈にもへらっと笑顔を見せたが、無理をしているのは明らかだった。

 一万の大軍勢がようやく西三河の地を踏んだころ、松平の使者から、織田の軍勢もまた矢作川を越えたと報告を受けた。どうやらゆっくりしている場合ではないらしく、休憩を取りやめ、直ぐに岡崎城へ向かう事となった。心なしか行軍の速度も上がっている気がする。敵とぶつかるのも時間の問題だ。

 出発したばかりの時は和気あいあいと喋りながら移動して喜介くんたちも、その表情から余裕さはすっかりと消え、不安と恐怖、疲労の入り混じった、くらぼったい顔をしている。勇気づける言葉の一つでも掛けてあげたいところだが、自分にもそんな余裕がなく、手汗で手綱を滑らせて落馬しないようにすることで精いっぱいだった。それに、自らの足で歩いている彼らへ、馬上の僕が何を言っても説得感に欠ける。気持ちを引き締め、僕は前を向くことを決めた。

 スマホの地図アプリなど無い今、どれだけ移動したか僕には分からないが、体感では二時間くらい歩いた気がする。べっとりと嫌な汗が頬を伝った。馬の上で揺られているだけでとめどなく汗が流れるんだ、重たい甲冑に身を包み歩いている彼らがどれだけ大変で不快な思いをしているか、想像に難くなかった。

 その時、隊列の中央を移動する承芳さんの元へ、けたたましい蹄の音をかき鳴らす早馬が現れた。彼は懐から書状を取り出すと、馬上から承芳さんに手渡した。一時止まれと、承芳さんの声が順々に前後へ伝えられ、ぴたりと隊列の足が止まった。承芳さんが読み終えると、そのまま雪斎さんに手渡す。書状を読み込み頷いた雪斎さんは、馬を飛び降り何やら指示を飛ばしている。とても急いでいる様子に声を掛けられず、代わりに承芳さんへ何が書かれていたのか尋ねた。


 「ああ、松平からの使者でな、織田家の軍勢の動きを伝えてくれたのだ」


 「もしかして、織田の軍勢がもう岡崎城に?」


 承芳さんは、いやっと首を横に振り、僕を安心させるように柔らかな笑みを浮かべた。その表情を見て、ほっと胸を撫で下ろした。


 「どうやら、織田の軍勢は直接岡崎城へ向かうのではなく、回り込むように南東の方角へ侵攻しているとの事だ」


 「という事は、僕らも岡崎城へ向かうのではなく、そのまま織田と?」


 今度は縦に首を振った。僕はてっきり、岡崎城へ攻めて来る織田の軍勢を迎え撃つのだと思っていた。いわゆる攻城戦だ。かつて僕らが承芳さんの兄である玄広恵探さんを攻めたように。ただどうやら話を聞く限り、野戦になる事は間違いないようだ。より死傷者が出ることは容易に想像できた。前の北条さんの時みたいな、相手の動揺を誘うような行き当たりばったりの作戦も、そう何度も通用しないだろう。

 

 「そんな心配そうな顔をするなって。大丈夫、前にも言ったが一万の兵がいるんだ。たかが数千など敵ではない」


 「大将がそんな油断していいんですか?」


 「むぅ、油断しているわけでは無い。だがこちらには和尚もいる、それに関介だっている」


 そう言って、柔らかい手のひらで、僕の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。僕はその手を振り解き、頬を膨らませてむっと睨んだ。だが直ぐに相好を崩し、ふんと鼻を鳴らした。


 「剣の腕の無い承芳さんじゃ、もし敵に見つかったら助かりっこ無いですからね。その時は、僕がそいつをやっつけてあげますから。その代わり、後で美味しいお酒ご馳走して下さいよ?」


 「ふふっ、いくらでもな」


 「約束ですよ?」


 僕が右手の小指を差し出すと、一瞬キョトンとした顔をすると、おもむろにその指を掴んだ。違う違う、そうじゃない。僕は承芳さんの右手を掴むと、無理やり小指を立たせる。こうやるのと、僕の小指と絡めた。


 「何だこれは?」


 「これは指切りげんまんと言ってですね、約束を結ぶときにするおまじないなんです。因みに破ると、小指を切り落とした後、一万回ぶん殴られます」


 「罰が重すぎるだろ!」


 目を見開いて驚きの声を上げる承芳さん。冗談ですよと、へらへら笑いながら伝えると、そうかと安堵のため息をついた。もしかして、本気にしていたのだろうか。承芳さんは純粋だから、あまり揶揄いすぎるのも良くないかも。

 

 「よし、織田の元へ向かうぞ」


 戻って来た雪斎さんは、それだけ言うと馬に飛び乗った。松平さんへ何と返事を送ったのか聞きたかったけど、何処か慌てた様子の雪斎さんの背中に話しかけづらく、ただ見送る事しか出来なかった。胸の中に少しばかりの靄を抱えたまま、一万の兵の行軍が再開された。向かうは待ち受ける織田の軍勢。承芳さんの言う通り、戦うことなく逃げ帰ってくれれば嬉しいけど、涼しい顔の承芳さんとは対照に、難しい顔で前を見据える雪斎さんの横顔に、一抹の不安を覚えた。この不安が、どうか杞憂で終われば良いのだけど。もう一度承芳さんの方を見ると、承芳さんは自身の小指を嬉しそうに眺めていた。

 

 今川の一万の軍勢は、岡崎城からわずか五キロほど離れた地に布陣する事となった。ここで、迫りくる織田の軍勢と正面からぶつかる。単純な見立てなら、兵数に勝るこちらが圧倒的に有利なはず。はずなのだが、相手の大将は織田信秀。どんな策に打って出て来るか分からない。一万を超える人員が犇めき合っているにもかかわらず、辺りに不気味な静けさが漂っていた。


 「本当にここへ織田が来るんですよね?」


 「ああ、そのはずだ」


 承芳さんが静かに頷いた。心なしか、言葉の最後の方が震えている気がした。ふと斜め前を見ると、喜介くんの硬く握った両手の拳が震えている事に気が付いた。僕はこそこそと彼の後ろに回ると、そっと両の方に手を置いた。反射的に振り返った喜介くんと目が合った。一瞬緊張でこわばった表情も、僕の姿を捉えると直ぐに安心したようにほろっと崩れた。喜介くんは僕の胸をぽかぽかと叩くと、唇を尖らせて言った。


 「何するんですかぁ。心臓が飛び出るかと思いましたよ」


 「あははっ、肩に力が入りすぎだよ。大丈夫、敵はここまでは来ないはずだから」


 「そ、それなら良いのですが、わひゃっ!」


 喜介くんは驚きの悲鳴を上げた。僕らの前方から、突如としてお腹の底を叩くような太鼓の音が鳴り響いた。その音は伝播して、また僕らの後ろの方へ伝えられていった。まさかこれは。


 「敵襲! 織田の軍勢が目前まで迫っております!」


 それは戦の始まりの合図だった。次の瞬間、兵士たちの勇ましい咆哮が、いたる所から上がった。緊張感が一気に高まる。

 僕の合図とともに、喜介くんたちは背中に刺した旗を高々と掲げた。これで混乱極める戦場の中で、何処に味方がいるかがわかる。逆に言うと、相手にも居場所がバレてしまう事になる。


 「うおお! この元信が、義元様に必ずや勝利を、わわっ!」


 「馬鹿者、調子に乗りすぎだ。手綱はしかと両手で持て」


 刀を握った右手を高く挙げ、前方に駆けていく元信くんの背中を、親綱さんが呆れた様子で追いかけていく。他にも泰能さんや、親永さん、よく見知ったみんなが敵軍へ向かっていった。僕は彼らの後ろ姿を見送る事しか出来なかった。


 「大丈夫だ、みなを信じろ」


 力強く承芳さんが言った。前線で戦えないもどかしさは一緒なはずだ。それが大将ならば人一倍だろう。僕らは信じるしかなかった。

 僕ら今川の軍は、長い坂となった道の頂上に陣を張った。低い所より、より遠くまで見渡せる高所の方が有利なのは、素人の僕にも理解できた。長机の前に、雪斎さんと承芳さん、まだ前線に出ていない家臣さんたちが並んだ。喜介くんたちは、陣幕の周りで旗持ちの役を担っている。僕は承芳さんの隣で、机に広げられた地図を眺めていた。現在地が赤く囲まれており、どうやら僕らが陣を敷いている場所を小豆坂というらしい。

 雪斎さんが言うに、策という策は無いと。ただ兵力差をぶつけ、織田軍を叩き潰すと。雪斎さんらしくない力技だ。雪斎さんがそう言うのだから、おそらくそれが一番有利に働く作戦なんだろう。周りの家臣さんたちが余裕そうに談笑するなか、雪斎さんだけが地図をじっと睨みつけ、難しい表情をしていた。その視線の先には、織田が支配する尾張の文字が書かれていた。


 「報告します! たった今、朝比奈泰能の兵が、織田の兵とぶつかりました!」


 「おお、朝比奈殿なら、織田の軍勢など木端みじんだな!」


 湧き上がる陣中で、勝利を確信したような高揚感が広がっている。承芳さんも、よしよしと頷いている。たった一人、雪斎さんだけが冷静だった。


 「何? 松平の軍が動いていないだと? それはどういう事だ、まさか裏切りか?」


 裏切りという物騒な声に、浮足立っていた陣中の空気が一気に引き締まった。声の方を見ると、そう報告してくれた人に、一人の家臣さんが青筋を立てて詰め寄っていた。

 がたっと椅子を倒して、雪斎さんは素早い動きで詰め寄る家臣さんの肩に手をやり、その動きを制止させた。だが手を振り解いた家臣さんは、今度は雪斎さんの胸倉を掴み、唾を飛ばして詰めかけた。


 「なんだよ雪斎、松平が裏切ったんだぞ! 貴様は何故そうも冷静にいられるんだ!」


 溜息を溢した次の瞬間、重たい甲冑を身に纏う屈強な家臣さんの身体が宙を舞い、地面にたたきつけられた。乾いた悲鳴が響き、陣の中に静寂が広がった。


 「お前が慌てているだけだ。松平は裏切ってなどいない。今川と織田が戦を始めたおり、城から出るなと私が伝えたのだ」


 「だが、どうしてそんな事を? 味方は多い方が」


 「今は言えない。だが、意味のあっての事だ」


 雪斎さんらしくない歯切れの悪い言い方に、みんな何かを隠している事に気が付いたが、誰として指摘できる人はいなかった。倒れた家臣さんに、すまないと手を差し伸べる雪斎さん。だがその手を払い除け、大きく舌を鳴らし乱暴に陣幕から出て行ってしまった。

 陣幕の中に、重たい空気が沈殿していた。この空気に耐えられなくなった僕は、広い空を見上げた。さっきまで晴れていた空には、分厚い雲がかかっていた。


 「みなすまない。言いたい事はあるだろうが、今は目の前の戦に集中してくれ」


 雪斎さんが言い終えた瞬間、ガシャンと滑り込むように連絡兵が入って来た。顔のいたるところに傷をつくり、甲冑もボロボロだ。その光景に、尋常ではない事が戦場で起きているのは明らかだった。


 「報告します! 朝比奈、岡部、他前線の兵が、ことごとく敗走しています! また士気を失った兵が混乱、もはや織田の勢いは止められません! 此処に攻め込まれるのも時間の問題です!」


 承芳さんが大きく目を見開き、わなわなと震える口元から、あり得ないと呟きが漏れた。嘘だ、今川が負けた? だって、相手はたかが数千で、こっちは一万もいるんだぞ。

 雪斎さんの方を見た。動揺する家臣たちの中、ただ一人雪斎だけは、一切の動揺を見せず冷静に頷いた。

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