小豆坂の戦い②
1542年 9月
今川館の何処にいても、焦燥感や緊張感が伝わってくる。ここ一週間はまともに眠れず、優しい月明りに照らされた縁側で夜を明かすことが何度もあった。
日が昇っている間は喧騒に包まれていた今川館も、月が顔を出し始めると、途端に静まり返った。まるで嵐の前の静けさのようで、やっぱり今日も眠れず、縁側に腰掛けていた。今日は満月で特に明るかった。さらさらとそよぐ冷えた風が気持ちよくて、高鳴る心臓が和らいだ。まだ緊張している。手のひらに汗がにじんだ。息を整えて夜空を見上げる。もうすぐ戦が始まろうとしているのに、夜空に映る小さな星々は、いつもと変わらない光を放っていた。
少し体が冷えてきて、ぶるりと背中が震えた。戦の前に風邪を引いては堪らない。今日は無理にでも布団に入ろう。僅かに尿意を感じたが、一人で厠まで行けるはずもなく。こんな時に承芳さんでも近くにいてくれたら。
「こんな所で何をしている!」
「ひゃわっ!」
唐突に耳元で聞こえた怒声に、思わず縁側から転げ落ちた。上手く受け身がとれたおかげで幸い大きな怪我はなかったが、右ひじを軽く擦りむいてしまった。痛い。
痛みの次に湧き上がったのは怒りだった。何故なら、さっきの怒声に聞き覚えがあったから。上から心配そうに見下ろす彼の顔を、キッと睨みつけた。
「何のまねですか、承芳さん」
「す、すまん。軽く驚かすつもりが、まさかそこまで見事に転げ落ちるとは」
伸ばした承芳さんの手を乱暴につかみ、立ち上がって服の砂を払いのけた。縁側に上がると、先ずは承芳さんの頭を叩いた。反省してくださいと言うと、流石にやり過ぎたと思ったのか、素直にすまんと頭を下げた。
「それで、承芳さんは何しに来たんですか? まさか僕を揶揄う為だけに来たわけじゃないですよね?」
「いや、たまたま廊下を歩いていたら関介が見えたから、驚かそうと思って」
本当に何の用も無いんかい! 思い切りつっこみたいところだったが、みんな寝ているこの時間に大声を出すのは迷惑になる。やり場のない苛立ちは、大きな溜息と一緒に吐き出した。
「少しは緊張も解れたんじゃないか。私のおかげだ、感謝してもいいぞ」
もう一度承芳さんの頭を叩いた。今度はさっきより強めにだ。頭をさすって、承芳さんは楽しそうに笑った。その顔が妙に腹立たしくて、そして緊張している事がバレた恥ずかしさから、ふいっと顔を背けた。
「余計なお世話です」
へへっと笑う承芳さんは、僕の隣へ無遠慮にもどかっと座り、隣の床をトントンと叩いた。再び大きなため息を溢し、承芳さんの隣に腰掛けた。
暫くの間、二人で静かな庭園を眺めた。その静寂を破ったのは、承芳さんの声だった。
「もうじき戦となれば、眠られない夜があっても無理はない。月夜の下で宵涼みも、中々風流なものじゃないか」
「承芳さんは相変わらず呑気ですね」
僕がぶっきらぼうに返すと、承芳さんはぷっと噴き出し、そうでも無いさと呟いた。
「実は此処に来れば、関介に会えると思ったんだ。私にだって、眠れない夜の一つもあるさ」
「へえ、それは知らなかったです。何も考えてない人だと思ってました」
「それはあまりに酷くないか?」
すっと立ち上がると、自室ではなく廊下の方へ歩いた。そっちは廊下だぞと、承芳さんは不思議そうな顔で言った。察しが悪いなと、少しだけ苛立ちを覚える。僕はさっきから限界だというのに。
廊下の突き当りまで歩いたところで踵を返すと、再び承芳さんの元へ歩いた。まだ意味の分からないといった顔をしている承芳さんは、きっと寝ぼけているに違いない。僕は承芳さんの襟を掴み、無理やり立たせて言った。
「なにぼーっとしてるんですか、厠へ行きますよ!」
袖を掴み引きずるように連れていく。最初は困惑していた承芳さんだったが、直ぐにへらっといつもの笑顔を見せた。
「関介は変わらないよな」
「うっさい!」
僕が言うと、承芳さんは白い歯を覗かせて更に笑った。笑うなと怒ると、悪びれる様子もなくぷっと噴き出した。
厠から戻ると、背中に張り付いていた緊張がとれたのか、嘘みたいによく眠れた。
僕を眠りから起こしたのは、僕の一番好きな声だった。まだ寝ぼけた頭のまま体を起こすと、直ぐ目の前に稲穂さんの顔があった。やっぱりまだ夢の中なのだろうか。そう思いもう一度布団の中に入ろうとすると、稲穂さんは慌てた声で制止した。
「か、関介様、寝ないでください! 皆さんが呼んでましたよ、それも大変お怒りで」
その一言で頭が一気に冷静になる。まずい、よく寝すぎてしまった。焦る気持ちと、どうして此処に稲穂さんがいるのかという不思議な気持ちが、頭の中で右往左往する。どれか一つでも解消しようと、僕の枕元で不安そうに正座する稲穂さんに尋ねた。
「ところで、どうして稲穂さんが僕の部屋に?」
「それはもちろん、関介様をお見送りするためにですよ」
眉を八の字に曲げ、困ったように笑って言った。そうか見送りに。稲穂さんの気持ちに思わず口元が緩む。ありがとうと、簡単なお礼に、妻として当然ですよと、また困ったように微笑んだ。
戦場に来ていく袴に着替え、部屋の床の間に置いてある大小の刀を腰に差す。ガシャっと重厚感のある音が、部屋の中に響いた。大体身支度を終えたところで、さっきからずっと座ったままの稲穂さんの傍にしゃがんだ。
「それじゃあ僕は行くね。必ず織田に勝つから、稲穂さんは安心して待っててね」
「稲穂は、勝ち負けなどどうでもいいのです。関介様が生きて帰って来てくれるだけで良いのです」
頬に涙がつたい、畳みの上に落ちた。稲穂さんの強い眼差しを受け止め、僕は彼女の細い身体をそっと抱きしめた。承芳さんとは違う温かさだ。共鳴するような、二人溶け合うような感覚を覚える。
「必ず帰って来て下さい。稲穂を、一人にしないで下さい」
「必ず戻るから。稲穂さんに寂しい思いをさせないから」
僕はそう言うと、振り返ることなく部屋を飛び出した。背中に稲穂さんの嗚咽する声が聞こえた。それでも僕は足を止めなかった。
今川館の門に急ぐと、既に僕の到着を待つ大勢の人影が見えた。承芳さんが僕の姿を捉えると、ぱっと明るい顔で笑った。
「さあ全員揃ったな、では出陣だ!」
承芳さんの声の後に続いて、男たちの野太い声が響き渡った。さあ戦が始まる。
尾張までの行軍が始まった。僕含め十六人の旗持ち部隊は、承芳さんを取り囲むように、隊列の真ん中を移動している。僕らの背中から伸びた棒の先に、櫛のような形を象った家紋が描かれた旗がはためいている。いざ戦争が始まれば、僕らのいる場所まで攻め込まれることは無いとは思うが、今川軍の存在を内外に示す重要な役割だ。
早朝に駿府を出立し、日もだいぶ高いところまで昇った。最初こそ順調に進んでいた行軍も、時が進むにつれ軍の士気も下がっていき、僕たちの間に流れる空気と同じように、足取りも重たくなっていった。口には出さずとも、兵たちに不満が溜まっているのは一目瞭然だった。
半日ほど移動して、小高い丘のような場所を見つけ、そこを休憩場所とした。やっと休めると、みんな嬉しそうに地面へ横になった。僕も長時間馬に乗って、流石にお尻が痛くなってきたところだった。馬から軽々飛び降りると、喜介くんから雪斎さんが呼んでいると。雪斎さんのもとへ向かうと、承芳さんと楽しそうに談笑しており、僕を見つけるやこれまた楽しそうにこっちと手招きした。なんだ宴でも開くのか。
話を聴くと、どうやら軍の士気が著しく下がっており、このままでは尾張に到着する前に、軍がバラバラになってしまう。その前にどうにか手を打ちたいとの事だ。何でも彼らが考案した作戦において、僕の存在がとても重要らしい。その作戦に協力してくれないかと、二人にして頭を下げて頼み込んできた。別にそこまでしなくても、今川家そして承芳さんのためなら何でもすると即答した。ただ、助かると再び頭を下げた二人の顔に、暗い笑みが浮かんでいたことを僕は見逃さなかった。一抹の不安を覚えながらも、僕はその作戦とやらの内容を聞いた。
「そんなの嫌に決まってるじゃないですか!」
僕の叫び声は、隊列の間をすり抜け遠く離れた駿府の方へ飛んでいった。周りのびっくりしたような視線が一斉に僕へ集まる。大きな声を出すなと、僕の口を承芳さんの柔らかい手のひらが塞いだ。振り解こうとじたばたするも、雪斎さんに羽交い絞めにされ、陣幕の裏へ連行されてしまった。確かに協力するとは言ったけど。連行された先に広がる景色を見て、僕には男としての尊厳は無いのかと、憤りを超えもはや諦めの気持ちしか湧いてこなかった。
「これを着て、皆を鼓舞するだけだ。鈴を鳴らしながら、神のご加護がとか言って回ればよい」
承芳さんがうっきうきに広げて見せたのは、ひらひらとした白い小袖と、赤いだぼっとした下に着る袴。お正月に近所の神社で、巫女さんたちが着ていたのを思い出す。みこを漢字で書くと女が入るように、あれは女性が着る服装なのだが。まあ今更文句を言ってもどうにもならない事は、今までの経験で十分に分かってる。
「はぁ、これを着ればいいんですよね。でも、男の僕が着たら変に見えますよ?」
「一度鏡を見てこい」
ぐうの音も出ない。そろそろ二十の半分に差し掛かる年齢にもかかわらず、未だに女性と間違えられ事が暫しあった。これは承芳さんから聞いた噂に過ぎないのだが、僕に好意を抱いてる男性がいるとかいないとか。今のところ愛の告白をされた事も、夜這いされた事もない。承芳さんの作ったでたらめだと信じたい。
どこから現れたのか、複数人の女性に囲まれ、まず手始めに身ぐるみを全て剥がされてしまった。容赦のない事だ。
せっせと着付けを済ませ、次に化粧をすると。流石に嫌だと断ろうとしたが、その細い腕のどこから出て来るのかと驚くほどの力で抑え込まれ、結局は女性たちの好き勝手にされてしまった。化粧を終えたと言うので鏡を見ると、以前の婚約の儀の時よりかは控えめな化粧だったが、白い肌に一際目立つ深紅の唇。自分で見ても、一瞬女性だと思えてしまう出来だ。
「うむ、なかなか可愛らしくなったな、ふっ」
「今笑ったでしょ!」
ぷくっと頬を膨らませ、腰に手を当ててふいっと顔を背けた。すると僕の視線の先に、ぽかんと口を開けた喜介くんの姿が。喜介くんだけじゃなく、僕の部隊の子たちも何故か一緒に、僕の顔を見て呆然としている。その瞬間、白粉を塗った白い肌がぼっと赤く染まり、僕は俯いてか細い声で言った。
「みんな、恥ずかしいからじろじろ見ないで欲しい」
「す、すみません。ですが関介様、その大変可愛らしいと思いますよ」
「喜介くん、それ褒めてないよ」
頬を微かにピンク色に染めた喜介くんは、すいませんと、足早に陣幕から出て行った。他の子たちも、ハッとしたように喜介くんの後を追った。承芳さんたちならまだしも、彼らに見られるのは顔から火が噴き出すほど恥ずかしい。これからどんな顔で稽古をすればよいのか。
「師範としての威厳もまる潰れだな」
楽しそうに言う承芳さん。誰のせいだと。散々馬鹿にされたが、僕の仕事はこれからだ。
「それで、今から皆さんのとこに行けばいいんですよね? 本当に上手くいくんですか? 同じように嘲笑されて終わりのような気がするんですけど」
「それは心配なくとも大丈夫です。何も考え無しに、関介殿にその珍奇な、いや失礼美しい女性の姿になって頂いたわけでは無いですよ」
やっぱり、少しはふざけていたか。笑い声を堪えるように、それっぽい事を喋る雪斎さんにイラっとする。
「前にも伝えましたが、私には関介殿が不思議な力を持っていると考えています。それは謀略でも剣の才でもない、兵士を奮い立たせる不思議な魅力です。その力を、いま存分に発揮すれば良いのです」
そう言われて、嫌な気分はしない。そうか、僕には僕にしかできない力があるんだ。そうと決まれば、僕がこの窮地を救い、承芳さんの力になるんだ。
「分かりました! 僕の力で、この鬱蒼とした空気を変えてきます!」
鈴を持ち陣幕を飛び出すと、休憩をしている兵士たちのもとへ向かった。
鈴を胸の前でしゃんと鳴らし「皆さまに、神のご加護がありますように」と、あえて色っぽい声で瞳を閉じ祈るように叫んだ。目を薄っすら開くと、そこにはシンと静まり返る兵士たちがいた。やばい、めちゃくちゃすべったか。
「えーっと、皆さん、一緒に頑張りましょう……ね?」
すっかり熟れた林檎のように真っ赤になった顔を向け、ぼそぼそと呟くそうに言った。後半の方は小鳥の囀りのような、か細い声になってしまった。
失敗に終わったと思ったその時、地面が揺れるような声がこだました。
「おお、巫女様がそう言ってらっしゃるぞ!」
「これは負けられないぞ!」
口々に叫ぶ兵士たち。中にはうっとりと惚けたように見つめる人、涙を流し手を合わせる人たちもいた。効果覿面過ぎて逆に心配になる。単純すぎやしないか君たち。
「皆さんの力で、織田を倒しましょう!」
「おお!!」
男たちの野太い声が響き渡った。この士気の高さなら織田に勝てる。
ただ一つ心配なのは、今後戦が起こるたびに、こんな格好をさせられるのだろうか。承芳さんの役に立てるのは嬉しいけど、何だか釈然としない。そんな気持ちも、熱に浮かされた兵士たちを前に段々と薄れていった。
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