第一次小豆坂の戦い①
1542年 8月
蝉の声を聞く度に、目に浮かぶのは九十九里浜ではなく、父親に連れられて日の出を見に行った遠州浜だ。お母さんは女王などではなく、スーパーでパートとして働く、普通のお母さんだった。そんな普通の両親から生まれた僕も、やっぱり普通の男の子だった。
両手で握ると、ずっしりと重たい感触が手のひらに広がる。がしゃんと金属の触れ合う音に、心臓の高鳴りが止まない。最初に抱いた恐怖心は、軽く振ってみた後、直ぐに興奮へと変わった。
銀色に輝く刀身と特徴的な波打ったような模様。黒い糸で丁寧に編み込まれた柄部分は、職人の技なのか掴み心地が良く、振りやすくなっていた。僕の手に握られているのは、紛れもなく日本刀だった。ただ今までと違うのは、この日本刀が僕の為に作られた物だという事である。だから握った時安心を覚えるというか、直ぐに馴染むことができた。
キラキラした目で日本刀を眺める僕の周りには、承芳さんと雪斎さん、そして顔の知った人たちがぞろぞろと集まっていた。みんな温かい目を向け、まるで子供の成長を見守る父親のようだ。いや誰が子供だとツッコミたいところだが、日本刀を受け取ってからテンションが上がってしまい、その辺でぶんぶん振り回し、雪斎さんに怒られたばかりだった。だから子ども扱いにも目を瞑るしかない。
祖父が師範をしていた関係で、家には古めかしい日本刀が残っており、床の間に何本か飾られていた。ただ大事な物だからと殆ど触らせてもらえなかった。男の子なら一度は憧れる日本刀が目の前にあり、それが自分の物だと言われたら、それはテンションが上がってしまうのも無理は無いだろう。
「これでやっと一人前の武士に見えるな、関介」
「そ、そうですか。ふふっ、ほらっ! どうですか、似合ってます?」
その場でくるっと一回転し、腰に手を当てポーズを取る。袴がスカートのようにはためき、がしゃっと重厚な音が響いた。みんなの方を見ると、雪斎さんは呆れたようにため息をつき、他の人たちは視線を左右に動かしながら苦笑いを浮かべていた。かわいい、いやかっこいいと言われると期待していたが、少しだけ拍子抜けしてしまった。
承芳さんが無言で近寄って来る。何を言うのだろうと期待していると、ガキかお前はと頭をはたかれた。
「どうですかと言われても、浮かれてる子供にしか見えないぞ。和尚に怒られたばかりだろ。ったく、まぁ気持ちはわかるけどな」
「むぅ、だって本当に嬉しいんですもん。やっと刀の所持を許してもらえて、これで武士として認められたってことですよね。それにぃ、ぐへへ、かっこいいですしぃ」
やっぱり腰に差した刀を見ると、つい表情筋が緩んでしまう。
「やはり、関介殿には時期尚早だったか」
「そうだな、和尚」
顔を合わせ、うんうんと頷く二人。待ってくれ、折角刀の所持を認められて、喜介くんや稲穂さんにも伝えてしまったのだ。二人とも、自分の事のように喜んでくれたのに、直ぐに没収とか面目が立たないではないか。
「ま、待って下さい。少し浮かれてしまいましたが、気持ちは揺るぎませんよ。この関介、頂戴した刀で、今川家へ身命を賭して尽くすことを誓います」
「まったく、関介殿ほどの剣の腕ならば、本来は直ぐにでも所持を認める腹積もりであったのだが。関介殿はちと子供過ぎる」
呆れたように吐き捨てると、周りからどっと笑い声が起こった。承芳さんも腹を抱えて笑っていた。頭抜けて大きな笑い声が聞こえると思ったら、長教くんが僕を指差して笑っていた。ただ当然ながら、直後に親綱さんの拳が頭に落ち、その場にしゃがみ込んだ。ざまあみろだ。そういえば、長教くんは最近、承芳さんもとい義元さんの元の字を一字貰い、元信と名乗るようになったらしい。前の稽古の時、これからはそう呼ぶようにと念を押してきたんだっけ。まぁ僕は認めてないから長教くんと呼ぶんだけどね。
長教くんは無視するとして、雪斎さんに言いたい事がある。お説教されてばかりは嫌だ。たまには僕だって反論くらいしたい。
「それは承芳さんも同じです。こんなに子供っぽい人が当主を務めているんです、僕が刀を持つくらい何てことないでしょう」
一瞬思い悩む素振りをみせた雪斎さんは、ほうと唸り声をあげ楽しそうに笑った。
「ほほう、関介殿も言うようになりましたな。関介殿の言い分も一理ありますね。分かりました、私に免じて関介殿の引き続きの帯刀を許可しましょう」
「本当ですかぁ! ありがとうございます!」
よかった、これで万事解決だ。後ろから良かったですねと、親永さんの声が聞こえた。他のみんなもぱらぱらと拍手をしてくれた。ただこんな温かな雰囲気の中で一人だけ、納得できない人がいた。
「ちょっと待て、なに勝手に許可を出しているんだ! 許可を出すのは、当主である私だぞ! 駄目だ! 関介みたいなガキに帯刀なんて認めるかぁ!」
雪斎さんとの間に割って入った承芳さんは、大きな声でそう叫んだ。頬を紅潮させ、ゼエゼエと肩で息をしている。体力が無いのに、そんな無理して。
「そんないきり立たなくても。僕が刀を持ちたいと思ったのは、いつでも承芳さんを護りたいと思ったからです。それでも駄目なんですか?」
「そうだ承芳。それにお前の言い分通り、子供の帯刀を禁ずるなら、同じように子供であるお前も当主の座から降りたほうがいいのではないか?」
僕と雪斎さんが二人同時に詰め寄ると、周りから今日一番の笑い声が上がった。
「ぐぬぬ、分かったよ! 認めればよいのだろ、認めれば! その代わり、関介は戦場で必ず私を護るのだぞ! いいな!」
人差し指を突きつけ、悔しそうに地団太を踏みながら言った。怒られた後に、拗ねてしまった子供みたいだ。それを見て、さらに笑い声が溢れた。怒っていた承芳さんも、周りの笑い声に押され段々と笑顔を取り戻していった。いつまでも笑い声の溢れる駿府であって欲しいと思う。
僕の腰に差したこの刀が、鮮血に染まる日が来ない事を願っている。
だけどやっぱりここは戦国時代だ。僕の儚い願いも、雪斎さんの号令によって瞬く間に崩れ去った。
八月中旬のとある早朝、会議室に集められた僕たちへ、雪斎さんはたった一言だけ告げた。戦だと。
織田を三河から駆逐する。そして松平が奪われた安祥城を奪取する。これが今回の戦の最終目標だ。安祥城は、矢作川を挟んだ岡崎城とすぐ近くに位置する城で、かつては松平の守りの要所だった。だが信秀に奪われてからは、その距離から攻めの重要拠点とされ、ずっと圧力をかけ続けられていた。三河に及ぶ織田の勢力を何とかしようと、松平の若き当主である広忠さんも懸命に尽くしているが、徐々に押されているのが現状だ。また松平を捨て、織田に下る配下まで出る始末で、松平が織田に屈するのも時間の問題だった。
前日に広忠さんより書状が届き、何やら織田が安祥城で不穏な動きをしていると。もし岡崎城へ攻められれば、耐える事はまず無理だろうとの事だった。これを受けた雪斎さんは、すぐさま兵を集め、岡崎城へ向けて進軍する事を決めた。兵の数はなんと一万以上。エコパアリーナが丁度埋まるくらいの大軍勢だ。
「承芳さん、今回の戦勝てますよね?」
「ああ、当然だ。一万もの兵など、織田には到底出せん。見ただけで恐れおののき、直ぐに尾張へ逃げ帰るに違いない」
織田家に仕掛けた間者が伝えるに、織田の兵数は多くて三千程度だそうだ。二倍以上の兵力、それにこちらは守り側で地の利もある。まず負けないだろうというのが、雪斎さんの見立てだった。あの雪斎さんが言うんだ、大船に乗ったつもりで戦場へ行ける。
戦に向けた準備が忙しなく行われる今川館で、僕らは変わらず稽古に励んでいた。僕の指導する十五人の青年たちが、今回の戦で僕が率いることになる部隊だ。彼らにとって今回の戦が初陣で、いつもの稽古より気合が入っており、力の籠った声が道場内に響き渡っていた。
その中で一人、足元がフラフラしてる子がいた。僕がお付き合いしている稲穂さんの兄、喜介くんだ。戦が始まると伝えると、やっとですかと目をキラキラさせていた。戦に出れば命の危険がある一方、それに応じた俸禄がある。貧しい農民出身の彼らからすれば、かなり値の張る臨時収入となる。喜介くんだけじゃなく、他の子たちも目の色を変え、戦の話に食いついてきた。本心を言うと、戦に彼らを連れていきたくはなかった。ただやる気満々の彼らに、そんな事口が裂けても言えなかった。
喜介くんだけじゃなく、疲労からかみんなの剣の振りも鈍くなってきたように感じた。僕はここで、休憩の掛け声を発した。
「みんな、戦に向けて気合が入るのは分かるけど、無理はしちゃ駄目だからね」
「ぜえ、ぜえ、分かってるのですが、いざ戦の日が近くなると緊張して……うっぷ」
そう言い終わる前に、口を押えた喜介くんは、道場の外へ駆け足で出ていってしまった。喜介くんの背中を追いかけると、裏庭の草陰に顔を埋めていた。彼の傍まで近寄ると、背中を優しく撫でた。頑張りすぎたのか、戦の前の緊張からなのか。喋れるようになるまで、隣でそっと背中をさすり続けた。
ようやく落ち着くと、喜介くんは力なく顔を上げ、すみませんと弱弱しい声で言った。その声は少し震えていた。
「怖いんです。高い俸禄は魅力ですが、戦場で命を落とすのでは考えると、怖くて震えてしまうのです。私だけではありません、みな同じ思いを抱いているはずです」
ぽたぽたと雫が落ちた。みんな妙にやる気があると思っていたけど、それは決して戦に出てお金を貰う為だけじゃなく、恐怖を振り払うためにも無理をしていたんだ。喜介くんの小さな背中に、なんて言葉を掛けてあげればいいか分からなかった。それは僕が今まで、お金に困った事が無かったから。恵まれた環境で生きてきたから。指導役を任されおきながら、みんなの気持ちを分かってあげられないなんて。何も役に立てていない自分に腹が立って仕方がなかった。
自分に今できる事。剣の指導以外にできる事は、何があるのだろうか。
「死ぬのが怖いなんて、僕だって、承芳さんだって同じだよ。僕なんて、初めての戦の時、怖さのあまり漏らしちゃったんだから」
へへっと、頭の後ろを掻き、わざとらしく明るい口調で言った。僕ができる事は、寄り添うことだけだった。これが正解か分からないけど、僕はそれで何度も気持ちが楽になったのを知っている。
僕の言葉に、目を丸くした喜介くんも、暗かった顔が綻び、くすっと笑ってくれた。
「ふふっ、関介様らしいですね」
「らしいってどういう事かな?」
「いえ、他意は無いですけど。関介様って、とても怖がりじゃないですか。稲穂からも色々話を聞きますし」
いまだ夜中に一人で厠へ行けないとか、こんな事が知れ渡ったら、指導役としての面目が立たないじゃないか。ぼっと顔が赤くなってしまい、それを見た喜介くんは更に笑った。
「うう、他のみんなには内緒だからね。絶対だよ」
「はい、分かってますよ。ふぅ、関介様のおかげで、何だか気持ちが楽になりました」
喜介くんはばっと立ち上がると、背伸びをして大きく息を吐いた。恥ずかしい思いをしたけど、喜介くんを元気づけられたのなら良しとしよう。
道場に戻ると、みんなが喜介くんの下へ駆け寄り、心配そうに話していた。喜介くんはそれを笑顔で返し、みんなも安堵の表情を浮かべた。僕が前に出ると、ワイワイとしていた声も鎮まり、みんな僕の方へ視線を向けた。もうすぐ戦だ。僕は一つだけ伝えたい事があった。真剣な表情で、僕はその一言を発した。
「みんな、もう直ぐで戦が始まる。一つだけ僕と約束して欲しい。戦場で命を落としちゃだめだ。必ず生きて、またこの道場で会おう」
「はいっ!」
みんなの声が重なった。遂に戦が始まる。必ずここに集まろう。誰も死なせない。僕はそう決意し、道場を後にした。
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