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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
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次なる戦へ

 1541年 8月


 庭先に住み着いた蝉たちの合唱も最盛期に入った今日この頃。ただでさえ暑い日が続くというのに、何故か僕は、障子を全て締め切った風の通らない部屋の中に押し込まれていた。そんな修行みないな事をさせているのは、勿論雪斎さん以外にいない。

 夏の暑さにうなされながら起床すると、直ぐ目の前に承芳さんの顔があった。驚くのも束の間、さっさと着替えろと告げるやいなや、踵を返して廊下の奥へと走って行ってしまった。まるで風のようにあっという間で、暫くの間ポカンと庭の外を眺めていた。

 承芳さんがさっさと着替えろと言った理由を知ったのは、寝惚けた頭で着替えている最中だった。僕の部屋の前を通りがかった親永さんが教えてくれた。いや、それくらい伝えてくれよと、心の中で承芳さんへ愚痴を漏らしつつ、急いで身支度を済ませた。袴を縛る帯とかもうぐちゃぐちゃだったが、面倒くさくなって、そのまま向かう事にした。どうやら雪斎さんに、僕らに伝えたい事があるらしい。朝から嫌なニュースは聞きたくない。いい話である事を祈ろう。


 「お前らよく聞け。先日北条に入っていた間者がとんでもない朗報を持ち帰って来た。遂に、あの氏綱が死におったぞ!」


 拳を高々と挙げ、そう叫んだ雪斎さんは、静まり返った僕らの白けた顔を見て、キョトンと不思議そうに首を傾げた。僕らも一緒になって、北条氏綱さんの死を喜ぶと思っていたのだろうか。やっぱり一度くらい天罰が下った方がいいと思う。

 コホンと咳ばらいをした雪斎さんは、少し残念そうに言葉を続けた。


 「まぁその事はもうよい。これで北条が潰れてしまえば楽な話なのだが、そう上手くはいかんだろうな。それでも、北条の圧力が減少するのは確実だろう」


 「それでは雪斎殿、今度こそ北条へ攻め込み、奪われた領地を取り戻すのですね?」


 興奮気味の親永さんが、食い入るように身を乗り出して聞いた。


 「違うは馬鹿者。それほど北条と争いたいのなら、今からお前一人で行ってこい」


 そこまで言わなくても。かなり厳しい言葉を吐かれた親永さんは、しゅんとした表情で部屋の隅へと下がった。でも雪斎さんの喜びようと、北条さんの当主が亡くなったという事実から、親永さんの言う通り、北条へ攻め入る好機と考えるのが普通だろう。というか、雪斎さんはそう高らかに宣言するものだと思っていた。

 以前にも氏綱さんの体調悪化の情報を得た時も、北条ではなく織田を攻める好機と言っていた。それほど織田の脅威が強まっているという事なのだろうか。仮に氏綱さんが健在で、同時に攻められていたらと考えたら、いや考えたくも無い。背筋に冷たい汗が伝い、脳裏にとある二文字の漢字が浮かんだ。滅亡。今僕らは、国家存亡を賭けた一大勝負の真ん中にいるのかもしれない。


 「北条は今、上杉や足利に手をこまねいている。そしてそこに当主の死が重なった。動揺している今の北条に、我ら今川を攻める余裕も無いだろう」


 「やはり今は、松平に圧力をかけ続ける織田家が最優先ですかね?」


 親綱さんの問いに、嬉しそうな顔で頷く雪斎さん。どこから取り出したのか、淡い藤色の扇子を口元を隠すように広げた。すっと目を細め、その隙間から見えた瞳がギラリと光った。


 「三河から織田を叩きだす。これ以上奴らの好きにはさせぬ」


 パチンと扇子の音が部屋中に響いて、同じように戦の前の緊張感が広がった。雪斎さんの真剣な視線に、部屋にいるみんなの姿勢がキリっと直った。僕もみんなに倣い姿勢を正す。

 目線を一瞬だけ承芳さんの方へ向け、雪斎さんは壇上からゆっくりと降りた。空いた壇上にみんなの視線が集まった。そんな注目をもろともせず、承芳さんは堂々とした態度で壇上に上がり、僕らをぐるりと見渡した後に言った。

 

 「私一人では、狡猾な織田信秀には敵わぬ。だから皆、どうか私に力を貸して欲しい。そして皆で力を合わせ、織田を打ち滅ぼそうぞ!」


 「はっ!」


 承芳さんの掛け声の直後、膝をついた家臣たちの息の合った返事が狭い部屋にこだました。僕も少し遅れて頭を下げ、心の中で小さく返事をした。たまにしか見られない承芳さんの凛々しい顔に触発され、いつも以上に気合が入った。もし戦が始まったら、承芳さんを必ず守るんだ。そう決意を固めた。

 顔を上げ承芳さんの方を見ると、どうだと言わんばかりに胸を張り、ニヤニヤと笑っていた。やっぱり凛々しくも何ともなかった。


 雪斎さんがさっさと部屋を退室すると、他の面々も各自の仕事に戻っていった。さて僕はこの後どうしようか。今日は稽古も休みの日だし、たまにはあそこへ行こうかな。


 「関介、さっきの私の掛け声はどうだった? 格好良かっただろう?」


 「ふっ、そうですね」


 僕が適当に返すと、頬を膨らませて何だその反応はと愚痴った。直ぐにへらっとしたいつもの顔に戻ると、実はなと前置きして、僕の耳元で囁くように言った。


 「先日から仕事を溜めに溜めていてな。そろそろ雪斎の雷が落ちそうなんだよ。関介これから暇だろ? 私の仕事を、少しでいいから手伝ってくれないか? ほらこの通り」


 顔の前で必死に手を合わせる承芳さん。さっき一瞬見えた凛々しい顔は何処へ行ったのやら。当主が忙しい事くらい知っている。ただ昨日も一昨日も、部屋で飲み会をしていた事も僕は知っている。全部自業自得だ。僕はジトっとした目で言った。


 「やですよ。僕はこれから用事があるんです。仕事の方は、多恵さんにでも頼めばいいんじゃないですか? 最近仲が良いと聞きますし。それじゃ」


 「そ、そんなぁ。この人でなし! 犬畜生! 寝小便やろう!」


 ふん、なんとでも呼べって、最後のはどういう意味だ! 寝小便なんてしたこと……年に一回くらいじゃないか。ったく、口だけは立派なんだから。べえっと舌を向けて、小走りで部屋を後にした。廊下を進んでいる内に思った、どうして承芳さんが僕の寝小便の事を知っているんだ。


 深い雑木林の中、暗い木々のトンネルの間を暫く歩くと、遠くの方に小さく灯りが見えた。そこは二手に分かれた道となっていた。左に行くと、手入れのされていない朽ちた墓地に辿り着く。そこには僕の知り合いと、彼の奥さんが眠っている。右へ行くと、人の手から離れた朽ち果てた廃寺に辿り着く。僕は迷わず右手の道へと進んだ。


 「久しぶりだな。まぁた会わないうちに、俺の顔にどんどん似てきやがって」


 「しょうがないですよ、僕らはそういう運命だったんですから」


 「運命、か。気色悪っ」


 ぶっきらぼうに吐き捨てる関四郎さんだが、直ぐに顔を見合わせると、二人してぷっと笑い合った。関四郎さんの笑い声に合わせて、ミシミシと床板の軋む音が聞こえた。関四郎さんは今でも、今にもくしゃっと潰れてしまいそうな廃寺で過ごしている。揺れたり雨漏りとか大丈夫なのかと以前尋ねたことがある。大丈夫なわけないだろと怒られた。僕は心配して聞いたというのに。


 「中に入っていいですか?」


 「断っても無理に入って来るんだろ。勝手にしろよ」


 それではお言葉に甘えてお邪魔します。本堂の中は、外見からは想像がつかないほど生活感に溢れていた。袴や袈裟がその辺の床へ乱雑に積まれている。ただ以前みたいな、野生動物の糞が落ちているような事は無く、人が生活できそうな最低限の清潔感は保たれていた。まぁ僕がここで過ごしたら、三日と持たないだろうけど。

 其処に座れよと、綿の抜けた座布団を急に投げてきた。咄嗟の事に顔でキャッチした。埃とカビの合わさった匂いが鼻の先にくっついて、思わず袴の袖で何度も擦った。ほんと、僕と似てるのは顔だけだ。


 「それで、関介は何しに来たんだ? まさか顔を見せに来ただけな訳ないよな」


 「まぁ、用ってほどでも無いんですけど」


 そう前置きして座布団の上に座ると、ボスっと埃が舞い、けほっと小さく咳き込んだ。本堂をぐるりと見渡した。以前まで大きな仏像が置いてあったであろうスペースには、寂しさを紛らわすように布団だけ敷いてあった。仏様の鎮座していた場所の上は、さぞ寝心地がいいだろう。


 「関四郎さんのお父さんって、どんな人なんですか?」


 「なんだよ急に。なんだろな、とにかく優しい方だな。怒られた事は一度も無いし、欲しいものは何でも与えてくれた。それだけじゃなく、読み書きや様々な教養を教えてくれたんだ」


 父親について話す関四郎さんは、何だか嬉しそうでいつもより子供っぽく見えた。僕も同じだと思う。お父さんの事を思い出すと、心の中がすごく温かくなって、懐かしくて幸せな気持ちになる。

 何でも、養子として育ててくれ父親は、とんでもない放任主義らしい。たまに顔を合わせてくれさえすれば、好きに生きればよいとのこと。顔を合わせた際に銭を貰うらしく、それも毎日遊んで暮らしても余るほどの額らしい。そんな裕福な家に養子として入れたのは、寿桂尼さんの後悔と愛情があったからだろう。

 確かに関四郎さんの今川としての人生は二歳の時に終わってしまったかもしれないが、その後に優しい人と出会い、沢山の愛情を注がれながら育てられたんだなと分かる。

 

 「いいお父さんですね」


 「そうだろう。今でもたまに京へ赴き、顔を見せているんだ」


 「へえ、お父さんは京都の方なんですね」


 「ああ、京で朝廷に仕える公家の家系らしい。また剣の腕が認められ、何とかと言った流派の家元もしていたそうだ。そういえば寿桂尼様も元は公家の生まれで、京にて暮らしていたんだ。父ともよく京で顔を合わせていた仲らしい」


 なるほど、関四郎さんはいわゆるボンボンというやつらしい。ちょっとだけ羨ましくもある。それと寿桂尼さんが武士ではなく、公家の家出身だったことは今初めて知った。確かに、彼女の美しく洗練された所作は、荒々しい武士よりも、高貴な公家のイメージに近い。そう考えると、剣の腕が全くない代わりに、教養だけが無駄に高い承芳さんにもしっかりと血が受け継がれているな。


 「お義父さんのお家は、なんて苗字なんですか?」


 「藤原だ。だから俺の正しい名は、今川ではなく、藤原関四郎だ」


 「わあ、僕と同じですね! 僕の苗字も”藤原”なんですよ」


 なんて偶然だ。同じ誕生日だと知ったくらい嬉しい気持ちだ。ただ関四郎さんは、むっと眉間に皺を寄せ、怪訝そうな表情で僕の顔を覗き込んだ。


 「関介、お前は公家出身なのか? 武士だとは思っていなかったが、お前が公家。それにしては教養が無さ過ぎるような」


 そうか、この時代は家の存在がとても大きいんだった。歴史の教科書で名前くらいなら聞いたことがある。道長とか頼道とか。たしかに、藤原がつく人はみんな貴族だった気もする。

 不思議そうに首を傾げ、怪訝そうに僕の顔をじろじろと観察する関四郎さん。僕は無理やり話題を変えるように、わざと大きめの声で言った。


 「そうだ! もう一つ気になっていたんですけど、関四郎さんてどうしてこんな廃寺で暮らし続けてるんですか? お金があるなら、京都で暮らせばいいじゃないですか」


 「いや、まぁそうなんだが」


 何か言いにくい理由があるのだろうか、関四郎さんからは歯切れの悪い返事が返って来た。うーん、うーんと数秒考えこんだのち、やっと僕の顔を見て口を開いた。


 「関介になら言ってもいいよな。前に時渡りの話をしただろう?」


 「はい、老人がこの廃寺へやって来たって話ですよね?」


 大きく頷く関四郎さん。こんな大事な話、忘れられるわけがない。かつて関四郎さんはここで、現代からタイムスリップしてきた僕の祖父と会っていた。その話を祖父から直接聞いた事は無い。


 「その老人は、一つ奇妙な言葉を口走った。俺が覚えている範囲では確か、桶狭間? と言ったか。まぁ取り合えず、今川はある戦に敗れ大きく力を失うと」


 それって。歴史の出来ない僕でも知ってる、戦国時代に起きたある有名な戦の名前だ。桶狭間の戦い。そこで今川義元は、承芳さんは死ぬ。


 「当時の俺には分からなかったが、何だか今は直感でそれが法菊丸の事なんじゃないかと思えてならないんだ。だから俺は、万一の場合に備え、今川館に近いこの廃寺に身を潜めていたんだ、って関介聞いてるのか?」


 承芳さんが遠くへ行ってしまい、彼の後ろ姿が教科書に書いてある、今川義元というただの歴史上の人物に見えてしまった。違う、彼は今川義元じゃない、承芳さんなんだ。なのに僕の頭の中にある、桶狭間の戦いで今川義元が死ぬという現実が、僕のすぐ近くにいたはずの承芳さんとの距離を遠ざけているように感じる。

 関四郎さんと別れて今川館に戻って来た後、布団の中に潜り込んだ。直ぐにでも、頭の中に充満する気持ち悪い現実を振り払いたかった。

 その日の夜夢を見た。地平線まで見渡せる何もない空間に、一本の道路が引かれていた。その道路の遥か先、目を凝らしてみると一つの看板が立っていた。そこには、真っ赤の字で「死」と書いてあった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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感想や、評価していただけるともっと嬉しいです。

続きを読んで頂ければ号泣します。

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