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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
63/79

夫婦の形

 1541年 7月


 あれから一か月経っても、多恵さんは心を閉ざしたままだ。自室に引き籠ってしまい、承芳さんですら会う事を強く拒否されていた。頼みの綱である晴信くんも、今は自国の混乱を修復するのに忙しく、暫く顔を出せないと手紙が返って来たばかりだった。その手紙の最後に「お姉の心の傷を治せるのは、一番身近にいる方だけですよ」と書かれていた。

 その一番身近にいるはずの男は現在、僕の部屋でしょぼくれた顔をして小さくなっていた。


 「そんな情けない顔して。このままじゃいけない事くらい、承芳さんだって分かってますよね?」


 「うるさい。分かっているが、顔も合わせてくれんし、声を掛けても返事はない。もう私にできる事など無いんだ」


 そう言って、僕の布団を頭からかぶってしまった。これは完全に意気消沈してるな。

 今更ながら、信虎さんを暗殺しなければ、という気持ちが芽生え始めていた。そうすれば、武田家の混乱も無く、多恵さんも承芳さんも傷つかずに済んだのにと。悲観に暮れる二人の傍に居ると、どうしても暗い気持ちが湧き上がってきてしまう。

 それでも、覚悟を決めた僕らは、前へ進むしかないんだ。それがどんな道だとしても。


 「顔を上げて下さいよ承芳さん。貴方まで落ち込んでいたら、多恵さんも前を向けないじゃないですか」


 布団が動き、承芳さんはもぞもぞと顔だけを出した。目を真っ赤にし、今にも泣きだしてしまいそうな顔で僕を見た。


 「だが、私にできる事など」


 「あるはずです。僕にはできなくて、承芳さんだけにできる事が。だって承芳さんは、多恵さんの夫なんですから」


 「むぅ、関介は他人事だからそんな気軽に言えるんだ」


 文句ばかりだなこの坊主は。今すぐに布団を剥がして、竹刀でお尻でも引っ叩いてあげたいところだが、そんな事をしたら拗ねて、もっとやる気を失ってしまうだろう。本当に面倒くさい当主様なんだから。

 布団に包まる承芳さんの傍に腰掛けると、彼の頭を優しく撫でた。子ども扱いするなと、ぶすっとした表情で顔を背けた。


 「別に特別なことをする必要は無いと思いますよ。一番近くで多恵さんの事を見てるのは承芳さんじゃないですか。多恵さんの喜びそうな事をしてあげればいいんですよ」


 「そうなのだが……」


 寂しげに俯いた承芳さんは、ふっと肩の力を抜くように息を吐いた。自嘲気味に笑う承芳さんの顔には、どこにもやり場のないもどかしさが映っていた。


 「恥ずかしい話だが、多恵の傍に居ながら私は、多恵の事を全く分かってあげられていないんだ。夫らしい振る舞いもできず、それでも黙って傍に居てくれる多恵に甘えていた。私には正しい夫婦の在り方が、未だに分らないのだ」


 泣きそうな悲痛な声で、心の奥底から吐き出すように言った。当主とその妻という、普通ではない夫婦関係は、僕が想像するよりずっと難しいのかもしれない。

 僕はまだ結婚してないけど、これから稲穂さんとそういう関係になっていきたいと思ってる。そしたらきっと、承芳さんと同じように色々な壁にぶつかるだろう。まだ喧嘩とかはしたことないけど、衝突する事も、互いに口を利かないなんて事もあるかもしれない。沢山の経験を積み、試行錯誤しながらお互いに足りないところを補い合って、二人で歩いていくしかないんだ。


 「初めから正しい夫婦の形なんて無いんですよ。上手くいかない日々や、でこぼこな毎日が続いて、お互い間違って失敗して。そうやって長い時間をかけて、二人で夫婦の形を作っていくんです……って、まだ身を固めていない僕が言っても、説得力が無いかもしれないですね」


 結婚をしてない身分で、つい威勢のいいことを言ってしまった。弱ってる承芳さんを目の前にすると、何だか自分のペースを乱されてしまう。承芳さんの顔が曇ると、僕の心の中に冷たい雨が降るのだ。

 僕の生意気な言葉を黙って聞いていた承芳さんは、一度布団の中に潜ったかと思うと、突然がばっと布団を剥がした。なんだびっくりしたなと文句を言おうとした時、承芳さんの顔が目の前に迫って来た。

 ゴチンと鈍い音が静かな部屋に響き渡り、その後直ぐに、二人の苦悶のうめき声が響いた。


 「いってて。何するんですか……この馬鹿承芳さん」


 「ううぅ……目が回る」


 「自業自得ですよ、まったく。寝ぼけてるんですか?」


 「いや、関介のおかげで目が覚めたよ」


 承芳さんは真っ赤なおでこをさすりながら、へらっと笑った。落ち込んだり、急に元気を取り戻したり。まったく、どれだけ僕を振り回せば気が済むんだ。気が小さくて、気分屋で、すぐ拗ねて。文句を並べたらきりがないから、これくらいにしてやろう。でもまぁ、いつもの承芳さんが戻って安心したよ。


 「やっと多恵さんのとこへ行く気になったんですね」


 「ああ、私なりの言葉を伝えてこようと思う。多恵が心を開くまで、何度でも声を掛けるつもりだ」


 「まぁ、その調子で頑張ってくださいよ」


 僕が言うと、すくっと立ち上がり嬉しそうに両手を高々と掲げた。大きく伸びをして、深呼吸をした承芳さんの瞳には、自身に満ち溢れた光が宿っていた。


 「よし関介、思い立ったが大吉だ。直ぐに多恵の処へ向かおう」


 「はい、いってらっしゃい」


 笑顔で手を振って見送る。鉄は熱いうちに打てと言うし、心に決めたら即行動が大切だ。としみじみ感じる僕の隣で、何故かその場でぼけっと突っ立ってる承芳さん。僕が不思議そうに見上げると、じれったそうに部屋の外を指さした。ただ意味の汲み取れていない僕は、首を右に傾けた。


 「どうしたんですか? 今から多恵さんとこ向かうんじゃないんですか?」


 「いや、私は関介と共に向かおうと」


 何だそう言う事か。ああと僕が返事をすると、ほっと胸を撫で下ろす承芳さん。意図が伝わって、僕も一緒に付いて来ると思ったのかもしれないけど、僕にはもっと大事な用がある。残念だが、僕はゆっくりと首を横に振った。


 「これから稲穂さんとお出かけするので、承芳さんは一人で言ってください」


 「ええ、そんな殺生な」


 明らかに落胆する承芳さんをよそ眼に、彼の隣をすっと通り抜けた。うん、曇ってた空もすっかり明るくなって、絶好のお出かけ日和だ。

 観念したように首を垂れた承芳さんは、部屋を出て多恵さんの部屋の方へ歩いて行った。せめてもの餞別に、彼の後ろ姿が見えなくなるまで見送ってやった。頑張れ承芳さん、僕も頑張るから。


 「よし、僕も向かいますか」


 大きく深呼吸して、早まる呼吸をどうにか落ち着かせた。稲穂さんの笑顔が脳裏にちらつく度に、胸が締め上げられるような感覚に襲われた。

 一応もう一回だけ、匂いとかチェックしようかな。


 多恵のいる部屋を目の前に、何度も襖に手をかけては離しを繰り返してもう十回になった。緊張のあまり上手く息が吸えない。とめどなく流れる汗は、もう拭う事をやめた。気を抜けば今すぐにでも泣き出してしまいそうだ。


 「そこにいるのは分かってる」


 抑揚の無い声が、襖の奥から微かに聞こえた。布の擦れる音、床板が軋む音。それらと同じように、多恵の声も無機質で形の無い音のように感じた。心臓が揺れ動くような焦燥と、不安に駆られ、気が付いたときには襖を開き、部屋の中へ踏み込んでいた。

 暗い部屋の奥で膝を抱いて小さくなっている多恵は、人形のように真っ白で、くすんだ瞳には生気を感じられなかった。


 「多恵、伝えたい事があって」


 「今は聞きたくない」


 足元の畳を見たまま呟いた。あれから口を閉ざしてしまっているためか声は掠れてしまって、いつもの透き通る美しい声は影も無かった。風呂にも入っていないのか、川のせせらぎのような艶やかな髪も、見るも無残にやつれ、香のきつい匂いに思わず顔をしかめた。

 多恵は自身を強く責めている。己のせいで武田は混乱し、また可愛がっていた弟を傷つけたと。そして、和尚のあの言葉。腹黒の信虎の事だ、どこまで真実か定かではないにしても、今そこで刺し殺した父の別の顔を聞かされ、強い混乱が生じても仕方がないだろう。


 「分かった。では、暫くここに居させてもらう」


 「なんでそうなる」


 ピクッと肩が反応し、おもむろに顔を上げた。やっと多恵の感情が触れ動いた。


 「多恵が私の言葉を聞きたくなるまで、ここで待つだけだよ」


 「あっそ、勝手にすれば」


 そう呟くと、また視線を畳に移した。素っ気ない態度に、何だか懐かしい気持ちが湧いた。顔を合せなかったのはひと月程度のはずなのに、一年以上会ってないように感じていた。会えない日々は、冬の桜の木のように、色の無い素っ気ない景色だった。

 だからこそ、今こうして二言三言会話を交わすだけで、堪らなく楽しかった。もっと感情を引き出したい、多恵の色んな顔が見たい。


 「多恵……少し匂うぞ」


 ぽかっと、硬いものが頭にぶつかった。見るとそれは、黒い箱のような物だった。開いて中から、化粧道具のような物が出てきた。

 

 「乙女に向かって、何て事言うの」


 「風呂に入らない方が悪いんだろう、って痛いから、物を投げるなって」


 筆とか硯を投げつけて来る多恵。しまいには机を持ち上げようとして、私の必死の制止に何とか思いとどまってくれた。

 ぜえぜえと肩で息をし、充血した瞳できっと睨む。その威勢も長くは続かず、久しぶりに体を動かして疲れたのだろう、膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。

 ぽたぽたと、透明な雫が畳の上に落ちた。


 「私は一人でもいいと言ったのに」


 「私が嫌だ。多恵をもう一人にはさせない。私は多恵の夫なのだから」


 「……そう。もう勝手にすればいい」


 同じ言葉だけど、さっきのような素っ気なさは感じられなかった。私は何も言わず、多恵の傍に腰掛けた。多恵もそれを拒否しなかった。部屋の中には、多恵の嗚咽だけが静かに響き続けた。


 稲穂さんと一緒に歩いているのは、今川館から離れた、小さな池のほとりだった。その池から水を通し、多くの農民たちが、秋の実りの時期に向けて田植えを行っていた。その内の一人が、稲穂さんのお父さんだった。この水を求めていざこざがあったなと、思い出して目を細めた。

 少し盛り上がった丘が見え、二人で並んでそこに腰掛けると、遠くの畑の様子までよく見えた。


 「多恵様、元気のない様子でしたが、大丈夫なのでしょうか」


 俯きがちに、心配そうな表所で呟く稲穂さん。


 「きっと大丈夫だよ。承芳さんの事だし、今頃仲良く喧嘩でもしてるんじゃないかな」


 僕が言うと、くすっと笑った。信虎さん暗殺の報せは、直ぐに国中の知るところになった。喜介くんと稲穂さんは、直ぐに僕のところへ駆け付け、心配と労いの言葉をかけてくれた。それ以上に、詳しく聞いてこなかったことが一番嬉しかった。僕も承芳さんも、あの時は憔悴しきって、話せる状態じゃなかったから。

 稲穂さんには、すごく心配をかけてしまった。そのうしろめたさから、ここひと月の間ずっと会えずにいた。それが昨日、喜介くんから稲穂さんが会いたがってると伝えられた。


 「関介様も、元気な様子で安心しました。ずっと会えない日々が続き、稲穂寂しかったです」


 「僕も寂しかったよ」


 そう言い、稲穂さんの顔を近づけ、すんすんと匂いを嗅いだ。ああ、土と埃が混ざったような、いつもの稲穂さんの匂いだ。


 「恥ずかしいのでやめて欲しいのですが、今日は特別ですよ」


 「そう、なら遠慮せず」


 もう一度匂いを嗅ぐ振りをして、僕は稲穂さんの頬にキスをした。僕の顔を見て一瞬ポカンとしたが、徐々に紅潮していき、時季外れの熟れた林檎になってしまった。恥ずかしそうに俯く稲穂さんを見て、心の底から愛おしく思った。


 「稲穂さん、君に伝えたい事があるんだ」


 「……はい」


 小さくこくっと頷き、上目遣いで僕の目をじっと見つめる。


 「稲穂さん、僕と結婚してください」


 「……はいっ」

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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